5. 判りにくく浮かれてる
大半の男がそうであるように、ワイアットも伴侶を得ることは半ば諦めていた。いつ条約の対象になっても直ぐに娶れるようにと、成人すると同時に持たされた婚姻の腕輪も、出番はなかろうとチェストの奥に仕舞い込んで忘れるほどだ。それがまさか緊急措置とはいえ女の腕に嵌められる日が来ようとは。今はローブの袖に隠れて見えないが、腕輪があるだろう雪江の左手首付近を感慨深げに眺める。
一目惚れという程ではないが一目で気に入っていた。垂れ目がちの褐色の目は優しげで、高過ぎない鼻や顔に対して丁度良い大きさの口、柔らかな曲線を描く頬が愛らしい。少し小柄だが、成人しか落ちてこないものだから問題はないのだろう。身体の膨らみも成熟した女のものだ。自分と同じ黒髪には親近感を覚え、少し跳ねているのが寝癖かと思えば微笑ましかった。
だがおそらく常識も価値観も違う女。それでトラブルになる事例が多くあったというので、昔習ったテラテオス人の知識を引っ張り出し慎重に接する必要がある。内心浮かれていたが、浮かれている場合ではなかった。
大事に育てられ我儘で尊大になりがちのユマラテアド女とは大分印象が違って好ましいが、心細そうにして時折震えさえするのに、自分を頼ろうとしないのには少なからず苛立つ。雪江に使った金額を知りたがるのは他の男を選んで返金する為、つまり自分と縁を切る準備に思えたのだ。抱き上げた体の柔らかさと女の匂いに集まりそうになる熱をやり過ごすのには苦心するのだが、到底離す気にはなれない。雪江の困惑の眼差しには気づかないふりをしていた。
役所に入り専用の個室に通されると、ワイアットは背もたれのある椅子に腰掛け、雪江はそのままその膝に下された。雪江は動揺して、これはいよいよ子供扱いされているのではと恐る恐る振り返る。彼の眉間には皺が寄っていた。
「あの…流石にこれは、ちょっと……」
隣にもう一つ椅子があるのだ。無かったとしても立っていたって良い。雪江が降りようと身動ぎすると、腰に巻きついている逞しい腕がそれを阻止する。
「逃げないか」
「どこに!?」
雪江には質問の意味がわからない。一体いつそんな流れがあったのか。じっと見下ろすワイアットの目がいやに真剣だ。
「私今、ワイアットさんしか頼れる人いないんですけど!?」
役所への道すがら、行き交う人々の視線が痛かった。フードから出ている鼻から下の部分とワイアットの肩に添えた手で性別が判るのか、獲物を狙う刺すような視線も感じた。ワイアットから離れて無事でいられる空気では無かったし、逃げても帰る家すらない。状況判断ができないばかりか借りたお金を踏み倒すような人間に見えているのかと、雪江は憤慨して語気を強くした。
ワイアットの腕が緩んだ瞬間、雪江は速やかに隣の椅子に腰掛ける。フードを背に落とし横目に見やると、ワイアットの眉間の皺が消えていた。怒ったら機嫌が直るとはこれ如何に。雪江が問い質そうと開いた口は扉を叩く音で止まった。
「失礼します。お待たせしてすみません」
灰色の髪を綺麗に撫で付けた、ひょろりと細長い中年の男が入ってきた。受付と同じ薄い黄土色の制服を着ているので一目で職員だと判る。雪江と目が合うと眼鏡の奥の目を柔らかく細めて微笑んだ。
「これは可愛らしい方ですね。ようこそいらっしゃいました。テラテオス課のプライス・ハクスリーと申します」
向かいに座ったハクスリーが机に広げた書類は結構な量がある。雪江が名乗ると移住者リストから探し出すのにファイルを開いたのには驚いた。自分の情報が既にある上に、戸籍も用意されていて本人確認のサインをするだけだったのだ。
「受入れ人は陸軍第二師団第三騎馬連隊所属ワイアット・スカイラーさんで間違いないですね?」
宅配物の受け取り確認のように手続きがスムーズに運ぶ。雪江はサインをするワイアットの手元を少し感心気味に見やる。
「随分しっかりしたシステムが確立しているんですね」
「もう三十年近くになりますからね。当初はテラテオスとの連携が拙かったせいで酷い事件もありましたから、それはもう抜かりなくやるようになりましたよ。ご婚姻の際もご本人同士揃わないと手続きできないようになっていますのでご安心を。護衛はどうしますか」
「自宮者で腕の立つ者を三名紹介してもらいたい」
質問にはワイアットが迷いなく答えた。聞き慣れない単語に雪江は首を傾げる。
「じきゅう…?」
「自己去勢だ」
ワイアットがあまりにも自然に答えるのですんなり頭に入ってこなかったが、意味を理解すると雪江は戸惑った。
「そんな個人情報が公開されてるんですか?」
「ああ、そこ結構引っかかる方多いんですよね。ユマラテアドでは需要と必然から割とオープンなんですよ。女性の護衛なんかは自宮者が人気なので寧ろ宣伝してるくらいです。旦那さんの居ない間も一緒にいる一番身近な存在になるので、矢張り皆さん心配なんですよ。婚姻前だと尚更ですかね」
同意を求める目を受けてワイアットはさり気なく目を逸らした。
「公娼や女役の役者は大体自宮してるし、貴族は三男、四男あたりから去勢させるから珍しいことでもない」
補足で躊躇いなく口にできるくらいに常識なようだ。
公娼も女役も性別の自己認識が合致すればとても自然な自宮の形となるのだろうが、去勢されるのが珍しくないとはどう受け取ったものか分からなくて、雪江は目を見開いたまま固る。そういうものとして根付いているものを、事情も知らないのにおいそれと批判するものではないことだけは解っているので、辛うじて口は噤んでいた。
雪江が目を白黒させているうちに護衛や住宅の補助金など必要な手続きは粗方済んでしまっていた。
最後に雪江は「ユマラテアドの生活の手引き」、ワイアットは「テラテオス女性と暮らすには」という冊子をそれぞれ貰う。
「何か困り事ができたら気軽に相談にいらしてくださいね」
にこやかに見送るハクスリーへの挨拶はなんとか返したが、雪江は冊子を持ったまま半ば呆然としていたのでワイアットに抱き上げられても無抵抗だった。
「どうした」
「いえ……ちょっとしたカルチャーショックで…」
「もう少しだけ頑張ってくれ。家を買ったら休ませてやれる」
「家を! 買う!?」
雪江にとって家とは、定年まで馬車馬のように働いても漸く田舎で小さなものが買えるか買えないか、という代物だ。ユマラテアドではそんなベンチ見つけたら休めるよ程度の気軽さで口にできるようなものなのか、若しくは軍人が余程の高給取りなのか。先程補助金の話をしていたからそんなに安いものでもない筈だ。
慄く雪江にワイアットは当然の顔をして頷く。
「家がないとお前を守れない」
雪江はそういうことが聞きたいのではなかった。




