43. 事後処理・ドゥブラ伯領
約一ヶ月ぶりに帰ったスカイラー家は空気がこもっていた。雪江は落ち着く間も無く急いで換気し、掃除をし、傷んだ食材の処理をする。食材を買い足さなければと街に出て、雪江は歓楽街の方向へと目を留めた。
「ネヘミヤのところに無事を報告しに行きたいんですが」
「彼の部屋だけなら大丈夫でしょう」
事件現場でもあることだし、護衛が一人足りない今は駄目だろうかと二人を窺うと、意外にも頷いてもらえた。聞けばネヘミヤはいち早く捜索に協力してくれたのだという。詳細は教えてもらえなかったが、その間に檳榔館を実質掌握したようなもので、レーニアも憲兵隊に引き渡され、雪江に手を出そうとする者はもういないだろうとのことだった。
雪江は仕事に穴を開け心配をかけた詫びと協力の感謝に、ちょっとお高めのチョコレートを買う。部屋を訪ねると、扉が開くと同時にネヘミヤが飛び出して来た。
「ユキエ!」
雪江が言葉を発する間もなく抱き竦められる。甘い香水の匂いに包まれた。触れる前に阻止しようと出したナレシュの手はコスタスが止めていた。ナレシュの驚きに、今回だけだと短く返すコスタスの声が聞こえる。
「ごめんね、何もされなかった!?」
「大丈夫。こっちこそ心配かけてごめんね。なんでネヘミヤが謝るの」
抱き締める力の強さに心配の度合いを知って、雪江はあやす様にネヘミヤの背を叩いた。
「私の目の届く範囲だった」
ネヘミヤの絞り出す様な声には悔しさで滲んでいた。
「もう絶対、あんなこと起こさせないから」
その先を口にするのを恐れるようにネヘミヤは言葉を詰まらせた。少し待っても続く言葉が無い。被害者の雪江よりも心を痛めているように思える様子に、もう怖い事はないのだと宥めるように雪江の手がネヘミヤの背を撫でる。
「捜査に協力してくれたんだってね、ありがとう」
「そんなこと!」
「また仕事に来てもいい?」
ネヘミヤが息を呑んだ。雪江は勢い良く肩を掴まれて体の隙間を開けられる。ネヘミヤは泣き出す寸前の顔をしていた。面と向かって言いたいことがあるような様子で何度か口を開閉して、ネヘミヤは再び雪江を抱き締める。
「──ッ、いっぱい払う!」
「いやそこは今まで通りでお願いします」
雪江は仕事を辞める挨拶に来たと思われていたことに気付いた。
確かにこの建物は誘拐現場だ。だが実質的に怖い思いをしたのは、アリンガム侯領の村で目覚めた日だけだ。窓から落とされた時は何を思う間も無く気を失って記憶は曖昧だし、なんならアラベラに投げられた時の方が怖かった。この場所自体に恐怖心を持っていないのだ。そして実行犯はもう此処にはいない。雇用主が環境を改善し安全を保証してくれるのなら、途中で仕事を投げ出す理由はない。受けた仕事には最後まで責任を持ちたいのだ。自分に非のないこととは言え、元の世界の仕事を放り出すことになってしまったことが苦い思いとして雪江の中に残っている。
ネヘミヤは雪江の四角四面な即答に思わずといったふうに笑った。
ティーグ家を訪ねると、ルクレティアの第一声は「お疲れ様」だった。
「手酷い洗礼を受けたわねぇ」
雪江は労わるように抱き締められ頭を撫でられる。子供を慰めるような優しい手付きが母親を感じさせた。彼女の四人の子供達と同等になったようで、雪江は面映い。年齢的にそれは失礼だから妹くらいに思っておくのが適切だろう。
「そんなに酷い目には遭わなかったんですよ。運が良かったんです。とても」
居間の長椅子に向かい合わせで落ち着いて、アラベラが元盗賊だったことは伏せて村で保護してもらったことを話すと、そんな快適な村があるのかと驚かれた。ルクレティアが是非行きたいと言い出したので、村が特殊なのではなくアラベラが特殊なのだと説明するのに苦労した。
「ユキエも無事だったことだし、私としてはスカイラーさんがちゃんとした人だってことが判って良かったかしら」
「どういうことですか?」
「実はね、テディにスカイラーさんをユキエに薦めてくれないかって言われてたの」
「ええ…?」
テディというのはセオドアの愛称だ。思わぬ名が出て雪江は戸惑いで首を傾げる。
「そりゃあ、早く誰かの庇護下に入った方がいいのは解ってるわよ? でもねぇ、どんな人かも判らないのに薦められるわけがないでしょう。男同士では良い人に思えたって、女の扱いが最悪の男なんてざらにいるんだから。貴女が嫌がっているようには見えなかったから、無体は働かれてないだろうとは思っていたけど……偶にあるのよ、落ちて来たその日に既成事実を作って強引に婚姻に持ち込むの」
「うわぁ……あっ? じゃ、じゃあもしかして、初めて会った時泣いてしまったのは…」
「被害に遭ったのかと思って慌てたわ」
雪江は瞑目し、心の中でワイアットに謝った。こんな所でもワイアットの株暴落未遂を起こしていた。胸が痛い。
「それであの後テディにそれとなく確認してみたら、結婚はまだって言うじゃない? おまけに苦戦してるみたいだから援護を頼むだなんて言われちゃって」
ルクレティアは溜息をついて、コスタスとナレシュが控えている辺りへと目線を向けた。
「…何かあったからって、直ぐ解雇するような短慮じゃないみたいね。一人休養している間、何かあったら目をかけてくれって手紙がきたわ。……こういう事件があるとね、護衛達の間で情報共有がされるんだけど、今回の件はうちの護衛達でも防ぐのは無理な手口だったって言ってたわ。それで解雇は厳しいって話だったのよ」
「……その件に関しては。私の警戒心のなさが一番の原因だって、ワイアットさんも解っていたんだと…」
雪江は縮こまる。条約休暇の間、護衛がいるのにワイアットも檳榔館の敷地内に待機していたのはきっとそういうことなのだ。他ならぬ護衛対象自身が護りにくい状況を作り上げてしまったのだから、護衛達がいくら優秀でもどうにもならなかった案件なのだろう。
ティーグ家の護衛達、ひいては各ご家庭の護衛達に自分のお花畑ぶりが知れ渡っていると思うといたたまれない。全護衛に呆れられている予感がする。とはいえ、警戒すべき人間を直ぐに見分けられるようになるかといったらそれは無理だ。どこかでまたレーニアのような人間に出会っても、きっと騙されてしまう。
「ああ、違うの。貴女を責めてるわけじゃないのよ。大体のテラテオス人が通る道だし、落ちてきたばかりのテラテオス人は此方に馴染んでないから良いカモなのよ」
雪江の落ち込んだ様子にルクレティアが遠い目をした。雪江はユマラテアドの生活の手引きを思い出した。あそこに書かれていた内容でテラテオス人の危機意識の低さを見たことを。そっと目だけを持ち上げてルクレティアの顔を見る。彼女も遠い目をするような何かをやらかしたのだろう。
視線を感じたルクレティアが咳払いをした。
「まぁだから、テラテオス人だってことをちゃんと理解してるまともな人間は、結果だけで判断しないってことよ。それに演習の許可が出るまで我慢してたみたいだし、本当にちゃんとした人なのねぇ」
探るような、確認するような言葉尻と目を向けられて、雪江は頷き居住まいを正す。
「とても誠実で、頼りになる人です。その……ご心配をお掛けしていたみたいですが、この度丸く収まることになりまして」
「あらそうなの? 良かった!」
それまで気が進まない口振りだったルクレティアが、一転して明るくなった。
「おめでとうで良いのね?」
「勿論です、ありがとうございます」
それでも問う形のルクレティアに、雪江は照れの混じる微笑みを返した。