25. 即時対応の男
早朝、雪江が身支度を整えて一階に下りてゆくと、居間に人の気配があるような気がした。一瞬ひやりとしたがワイアットが夜勤の時は護衛が一人泊まってくれることを思い出して、直ぐに肩に入りかけた力を抜いた。夜間には防犯結界を展開しているとはいえ、女性を一人にはできないのだという。
「おは…」
雪江が居間への扉を開いた先にいたのは宿直当番のエアロンではなく、ワイアットだった。軍服のまま着替えもせずに長椅子に腰掛けている。
「お帰りなさい。寝ないんですか? お腹空いてるなら手早く何か作りますけど」
台所の椅子に掛けてあるエプロンを取りに踵を返すと、雪江はいつの間にか追ってきていたワイアットに抱き上げられた。
「わぁ!?」
雪江が抵抗する間も無く、ワイアットが食卓の椅子に腰かけるのと一緒にその膝の上の住人となる。彼の太腿を跨ぎ、対面する形で。
「な、な、な、…ワイアッ…? こ、この体勢は、ちょっ、どうっ」
「自活する気なのか」
真っ赤になって慌てふためく雪江に対して、ワイアットは真っ直ぐにその目を射竦める。ワイアットの厚い胸板を両手で押して逃れようとしていた雪江の動きが止まった。
「は、えっ…?」
混乱しているところに思いがけない言葉を投下されて、思考も停止する。
「部屋を探しているんだろう」
雪江は数秒見詰め合って、言葉が浸透すると何を問われているのか理解した。意図しない時期に伝わってしまったようだ。
「…ワイアットさんが何も言わないのは、まだ考えが纏まっていないからでしょう?」
問い返すと、ワイアットは虚を衝かれたような顔をしたが、否定の言葉は出てこない。雪江は淡く微笑んで、両手を彼の腹部の位置まで下ろした。ワイアットの手は雪江が落ちないように背を支えているだけだと気付いたからだ。この状態の意味は解らないが、話し合いをする気でいるのだと解した。
「あまりにも近くにいすぎると、気持ちが見えなくなることってあるんです。時には距離を置くことも必要ですし、少し、離れて暮らした方がワイアットさんも気持ちを整理できるんじゃないかなって思って」
「勤務中は離れている」
「そ!? うですけど、そうじゃなくて」
話が真っ直ぐ刺さらないのはよくあることだ。雪江はどう説明すべきか考える間を置いて、気を取り直して口を開く。
「帰ったら必ず居ると、それが当たり前になって安心してしまうんです。その安心を手放し難くなってしまってずるずると関係を続けてしまったり……逆に愛し合って一緒になった人達でも、いつの間にか一緒にいるのが義理や義務みたいになっているのに気付けないこともあるんです」
「…そういう経験があるのか」
「いえ。知人の体験談です。……ワイアットさんには、一人にすると危険だから手放せないっていう、保護しなきゃっていう、義務感もあるんじゃないでしょうか。捨て猫を拾った時みたいな。……今すぐ自活するのは無理です。でも」
まだ何も準備ができていない段階では紡ごうとしている言葉に説得力を持たせられなくて、雪江は言い淀む。だけど問われてしまっているのだから、言う他ない。
「でも。いずれは自活できるんだ、っていう………これは、ワイアットさんにとっても選択肢ができるってことなんですよ。ワイアットさんが養わなくても、私は生きていける。だから特に好きでもないのなら、私を放り出しても問題はない。結婚しない選択肢が、ワイアットさんにも提供できるという話です」
保護対象だからきっと、ややこしくなっている。できることなら余計なものを取り払って、雪江自身を見て欲しいのだ。それに自活できるようになる頃には、きちんと声に出して愛を乞えるようになっているかもしれない。雪江の自信を多少なりとも取り戻す作業でもあるのだ。
雪江は努めて事務的な声を作って話す。切なさが情けない表情となって溢れ出てしまわないように、目に力を込めて顔を引き締めた。同情を引いてはいけない場面だ。それでも真正面で目を逸らさないワイアットには、眉が下がっているのが見えてしまっているかもしれない。彼は彼で、話の途中からぐいぐいと眉間の皺が深くなっていった。
暫くは互いに何も言わない時間が流れてゆく。やがてワイアットが深く息を吐き出して雪江をきつく抱き締めた。雪江は息を呑んで目を見開く。両手が二人の間に挟まれてしまって身動きが取れない。
「だっ、から! こういうことは! 控えてくださいって!」
一体全体どういうつもりなのか説明して欲しい。雪江は一方的に心乱されるのが腹立たしくてならない。
「…直ぐにではないんだな?」
例によってワイアットには抗議を聞く気がないようだ。雪江の髪に顔を半分埋めたまま喋るので、耳に唇が当たって雪江の心臓が跳ね上がった。うぅ、と小さく呻いて幾度か呼吸を置き、雪江は心を落ち着ける努力をする。
「護衛を雇えないので。……あ。でも。男装という手がありますね」
「中性的な男がいたらそれはそれで襲われる」
秒で否定されては雪江は沈黙せざるを得ない。
「不甲斐なくてすまない。直ぐに決着をつける」
この人は何を言っているのだろう、と雪江は思う。決着をつけたいと思った時につけられれば、人間関係が拗れたりはしないのだ。宥めるように彼の背を撫でたくなったが、雪江は依然として身動きが取れない。
「…こういうことは結論を急ぐとろくなことにならないので、じっくり考えてください」
雪江は焦らせてしまったことに気付いて言い含めた。矢張り彼には時間が必要なのだ。
ワイアットの腕の中は暖かくて、心臓の音は煩いのに安心する。抱き締める力の強さで必要とされていると錯覚してしまいそうになる。ワイアットはエアロンが来るまで雪江を離さなかった。エアロンがノックの際に「そろそろいいですか」と発したので、事前に人払いをしていたのを察した。
ワイアットが就寝して直ぐ、いつもより早めに出勤してきたナレシュが秘密を守らなかったことを雪江に謝った。自分が報告を促したのだと、エアロンも一緒に頭を下げている。
「いいんです。雇用主はワイアットさんですもん。私の方こそ悩ませてしまってごめんなさい。板挟みで辛かったでしょう?」
雪江には必要だったことだが、彼の職務上伏せられないことだと判断したのなら責める筋合いはない。エアロンに相談したのだから悩んだのだろうと謝れば、物凄い勢いでナレシュが頭をあげた。
「ユ、ユキエ様…!」
目をほんのり潤ませて喉を詰まらせているナレシュに驚いて、雪江は思わず半歩下がった。
「俺、俺っ…、護衛人生ユキエ様に捧げます…!」
「んん…!?」
感極まった様子の重い台詞に、雪江は慌ててエアロンを見た。エアロンは苦笑いで首を振る。処置なし、ということだろうか。
「もしも自活するってなった時、護衛雇えなくても俺を呼んでください。無給で勤めます!」
「それは駄目だね!?」
「えっ。やっぱり俺のこと、もう信用できませんか…?」
雪江が反射で返すと、ナレシュが目に見えて落胆した。
「そういうことじゃなくて。私が心苦しくて病んじゃうから無給とかそういうのやめましょうね」
「夜間警備の仕事に就けば食っていけるから大丈夫です」
「過労死するからやめなさい」
ナレシュが凛々しく言い放つものだから、雪江も強めに叱りつける形になった。
過労死、ダメ、絶対。




