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条約の花嫁  作者: 十々木 とと
第一章
22/114

22. ささみの活用法


 二週間の休暇を終えて、ワイアットは仕事に戻った。真紅の軍服で騎乗する姿はいつも以上に凛々しい。そして威圧感が増している。

 その背を見送りながら雪江は困惑していた。

 観劇以来ワイアットは午前中家を空けるようにはなったが、変わらず娼館には同行してくれていて、接する態度にも全く変わりがなかった。雪江が家事をしている様子をじっと見ていることがあるが、それは以前からだ。おそらくユマラテアド女性が言わないだろうことを言ったのだから、咀嚼する時間が必要だろうと思って黙っていたが、彼からも全く触れられることがなかったのだ。まだ時間が必要なのか、理解したが何か考えがあって触れないでいるのか、全く読み取れない。もう暫くしたらまた自分から切り出した方が良いのだろうと思うが、互いの為にも準備をしてからの方が良い。左手首に視線が落ちる。ワイアットのところに落ちてきて以来、ずっと自分の手首にある腕輪。場合によってはこれを返さなければならないのだから。


「…あれ?コスタスさんは?」


 家の者総出でワイアットを見送ったつもりが、一人足りなかった。


「魔法医のとこ行ってます」

「ああ、今日でしたっけ」


 出勤時刻には三人揃っていたから、まだ居るつもりでいた。実は出かける時に一声かけられていたのだが、雪江が上の空で記憶から抜け落ちていた。

 自宮者専門の魔法医がいて、護衛達はそれぞれ定期的にホルモンバランスを整えてもらっているという。保安業に就く者は強い肉体が必要だから、筋肉の維持にも関わっているとのことだ。彼らの立派な肉体は本人の努力とこまめなメンテナンスで出来ているのだ。ワイアットやセオドアに比べれば細身でも、自分よりも確実に質の良い筋肉を持つ二人を改めて見上げる。


「凄いなぁ…」


 彼らも一度は切り捨てられた人間だ。世界と家族という違いはあるし、失ったものも違う。少なくとも雪江は五体満足だ。だから彼らの気持ちが解るとは言えないし、彼らにも雪江の気持ちが解るわけではないだろう。だが粉々に砕かれただろう自尊心を持ち直してしっかりと立っている彼らを見ていると、無意識に呟きが漏れた。勿論、雪江には見せないだけで、今でも苦しんでいることがあるかもしれない。雪江に刻み込まれた劣等感は、いつか克服できたと思っても何かの折に顔を出すような、そういう類のものだ。その付き纏う劣等感と付き合い続けた何年もの歳月が彼らにはあるのだ。


「よし、三人揃ったら腕によりを掛けて昼食を作ります!」

「どうしたんですか突然」


 雪江は急に奮起してナレシュを戸惑わせた。エアロンも不思議そうに見下ろしている。


「美味しいご飯で筋肉と元気を作るのです」


 彼らに敬意を表したくとも、雪江はご飯を作るぐらいしかできないのだ。自分も元気になりたいから、ご飯が美味しくなったら丁度良いのだ。筋肉といえばささみとしか知識がないが、鶏肉多めの献立を考えていると、いくらもしないうちに近所の馬が逃げ出したと聞いてエアロンが助っ人に出て行った。残ったナレシュが門に立ちに行く。

 護衛が一人きりなのは初めてだ。雪江は居間の床にモップがけをしながら窓の外に見えるナレシュの背を見た。エアロンは職務に忠実で融通を利かせてくれそうにはない。コスタスは納得できる理由があれば協力してくれそうな気がする。ではナレシュはどうだろう。ちょっとした秘密を共有してくれたりしないだろうか。彼の経歴に傷がつくような大きなことではないから、大丈夫なのではないか。報告義務はあるが、彼らは護衛であって監視役ではないのだ。

 雪江は暫く悩んで掃除用具を片付けた。エプロンを脱ぎ、生活費にと渡されているお金と自分で稼いだお金を持って家を出る。


「ナレシュさん、鶏肉買いに行きます」

「えっ、お昼までまだ時間ありますよ。エアロンが戻ってくるまで待ちましょう」


 ナレシュは常識的な判断をしたが、雪江はゆっくりと首を振る。


「下拵えに時間が掛かるんです。それにエアロンさんは馬が相手だからいつ戻ってくるか判らないし、コスタスさんもきっと腹ぺこで帰ってくるのに何も用意できてないんじゃ、私の立場がないじゃないですか」


 ナレシュが言葉に詰まった。もう一押しだ。


「私こっちじゃ料理ぐらいしか役に立ってないので、ちゃんとしたいんです」


 雪江は目に力を込めて真摯に訴えかける。ナレシュは弱ったように眉を寄せ、暫く唸って渋々ながらに頷いた。


「…わかりました。但し、辻馬車を使ってください。俺一人なんで絶っっっ対に逸れないでくださいよ」


 雪江は念の為エアロンに行き先のメモを残し、街に出かける。真っ直ぐに目的地に向かい鶏肉は買ったが、まだ用事がある。


「ワイアットさんに黙って行きたいところがあるんですけど、内緒にしてくれます?」

「ぇえ…? 危なくないとこなら?」

「この通りのすぐそこですから危険じゃないです」


 大通りに並ぶ店はどこも真っ当な商売をしている。頷くナレシュを連れて雪江が訪れたのは不動産屋だ。買い物に出た時に何度か通りかかって目をつけていた店。躊躇いなく足を踏み入れると、ナレシュが狼狽えた。


「ユ、ユキエ様、これはどういう…」

「うーん……相場が知りたくて」

「…その…今の家に不満が…?」

「特にありません」

「じゃあどうして」


 女性客単体というのが珍しいのか、店員が驚いた顔をしたがそれも一瞬で、個室に通してくれる。雪江がナレシュに部屋の外で待つようお願いすると、それだけはできないと断固として拒否された。


「本日はどういった物件をお探しで」

「2LDKの賃貸だと一番安くてどれくらいですか?」

「そうですね、安いとなると郊外で交通の便も悪くなりますが、こことここがこのお値段になりますね」

「うーん…街まで徒歩三十分以内だとおいくらになります?」

「それだとここがこのくらいのお値段ですが」

「では1LDKでは?」


 会話の内容にナレシュの顔色がどんどん悪くなっていった。ナレシュの頭の中では一つの事柄がぐるぐる渦巻いている。


 ────何これ旦那様何したの。


 雪江は値段を聞き出しただけで何も決めずに店を出たが、ナレシュの顔色があまりにも悪いので可哀想になった。


「もしね。もしもの話ですよ? 自活するならこっちではどれだけお金かかるのかなー、って、気になって。気になっただけでワイアットさんに心配かけたくないし、内緒にしてくださいね」


 明るい笑顔で話したが、内緒の時点で何か思うところがあるのだろう、ナレシュの顔色はあまり良くならなかった。


 それから雪江は無事家に戻り三人揃った護衛達にササミ料理を振る舞った。午後からは劇場に赴き、劇団情報を仕入れ歩く。脚本監修の話が聞きたくて有名なホールデン夫人に面会を申し込んだが、これは相手にされなかった。自宅の住所も当然のように教えてもらえなかったから、ただのファンとしてあしらわれたのだろう。


「楽屋に手紙を届ける方が、本人の目に触れる可能性があるかもしれませんね」


 ここはエアロンの助言に従うことにした。

 次の日はティーグ家へ。ルクレティアの持つ店で従業員の空きがないかを訊いた。


「試着室係は女性を雇ってるんだけど、老齢の女性限定なのよ」


 此方も色良い返事は聞けなかったが、他に何か見つけたら教えてくれると約束してくれた。美味しいささみ料理のレシピを聞き出せたのは収穫だった。






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