2. 婚姻は抑止力(微弱)
テラテオスもユマラテアドも、互いの世界を正式に認識してから付けられた名称である。
本来なら交わらない二つの世界が交流するのは簡単ではない。それが可能になって大分経つ。敵対意思が無いことを確認しあい、細々と情報交換をするうち、二つの世界が抱える最大の問題を補い合える可能性に気付いたのはテラテオスだった。
テラテオスでは医療水準が高くなり、多くの国で人間の死亡率が低下し長寿化した。人口増加により資源の枯渇が危ぶまれ、徐々に進む砂漠化や海面水位の上昇で居住可能地域や農地の減少も相まって移住先を探していた。対してユマラテアドでは元々低かった女児出生率が著しく低下し、原因究明が進まず先細りの未来を憂う状態だったのだ。
ただ、世帯ごとの大規模な移住はユマラテアド人の血筋の根絶や植民地化の懸念、移動技術の問題で実現しなかった。その後も協議を重ね、ユマラテアドが食糧支援を提案し、テラテオスの独身女性の移住を打診した。一度世界を渡れば二度と帰れないことを筆頭にテラテオス側の懸念がいくつもあり、これも揉めた。
最終的には折り合いがつき、異世界間条約が締結され約三十年。当初は志願制だったが希望者が少なく、条件の合う者の中から選ぶ選定制も取り入れることになった。それでもテラテオスの人口からすると宝くじに当たるより低い確率で、条約締結当時に流行った「いつまでも独身でいるとユマラテアドに飛ばされる」という若い娘への脅し文句は冗談でもあまり聞かれなくなっていた。
だから雪江も自分の身に降りかかるとは思っていなかった。義務教育で習った条約の詳細もおぼろげであったから、何故事前通達もなく飛ばされるのかもわからない。子供心に理不尽だと思った記憶がある程度だ。こうなると知っていたらもっと真面目に授業を受けていた。
寝間着代りのTシャツにショートパンツ姿だった雪江は、目の毒だからとワイアット・スカイラーと名乗った男によってシーツでぐるぐる巻きにされベッドの端に腰掛けていた。体裁を整えたいが、顔を洗わせてもらった他は肩にかかるくらいの黒髪に手櫛を通して寝癖を整えるのが精々だ。
カーテンが開けられた窓から差し込む光は朝日の角度なので、時間が同じ場所に飛ばされたのだろう。寝具や机等の家具はテラテオスのものとそう違いはなく、言葉も通じる為異世界にいる実感も湧かないまま目前に立つワイアットを見上げる。
短い黒髪に濃藍の目。日に焼けた肌。眉が太く、顎のしっかりした少し彫りの深い顔立ちは端正だが、目つきが鋭く少し怖い。太い首に広い肩幅、今は立襟シャツを着ていて見えないが立派な大胸筋と割れた腹筋があるのは確認済みだ。先程まで上半身裸だったから見えただけで、見ようと思って見たわけではない。落ち着いた雰囲気から、二十四歳の雪江より年上の二十代後半から三十代半ばくらいだろうと目する。
「それで…あの、早い者勝ちってどういうことなんですか。こっちの人ってそんなに危ないんですか」
互いに名乗り合い落ち着いてくると、蓑虫状態でいるのも居心地が悪くて両腕を出し胸元にシーツを巻き直した。下着をつけていない無防備な胸のラインが人目に触れるのは、雪江とて抵抗がある。
「すまん、動転して言葉が足りなかった。皆が皆直ぐ盛るわけではない、理性はある」
直接的な物言いに少し怯んだ雪江に気を使ったのか、ワイアットは壁際まで下がった。
「ただ、嫁不足は本当に深刻なんだ。女が一人で歩いてたら既婚者でも拐われる。テラテオス人に関しては落下先の男に優先権があるが、それを拒んだら機会は平等だ。奪い合いが発生する」
「奪い合い!?」
先程から内容が穏やかではない。治安の良い場所で平穏に育った雪江には身近ではない単語に青くなる。不器量というわけではないが、ごく偶に、数にしたら十人に二、三人くらいにそこそこ可愛いと言ってもらえる程度の自分を巡って奪い合いが発生する状況というのは相当なのではないか。
「落下先、ということは…ワイアットさんが私と結婚するってことですか…?」
「嫌か?」
肯定前提の問い返しに、雪江の言葉が詰まった。
「嫌、もなにも……会ったばかりですし、突然のことで私……貴方にだって選ぶ権利があるじゃないですか。貴方は嫌じゃないんですか?」
「俺は構わない」
「ご、ご両親は反対とか…」
「大喜びする」
即答に次ぐ即答に大きな温度差を感じて、全面的に受け入れられているのに突き放された気分になる。
「そんな…なんで………なんでそんなに直ぐに受け入れられるんですか。私のこと、何も知らないのに…私…、帰れないんですよね?どうしよう…仕事もあるのに…引き継ぎもしてない…プレゼン資料…誰にも連絡……」
心理面に至るまで即時態勢が整っているのは、ユマラテアドの事情の為せる技だと頭では理解できる。これは世界間を跨いだお見合いなのだ。ただのお見合いだと思えばそう大それたことではない。但し片道切符。後ろ盾もない。
雪江は半ば独り言になる益体も無い言葉を羅列するうち、都合を無視され身一つで放り出された実感が湧いてきた。心細さに耐えるように俯いて唇を噛むと、そっと大きな手が頭に乗せられた。いつの間に近づいていたのかワイアットの靴先が直ぐそこに見える。雪江がおずおずと顔を上げると、躊躇いがちだった手の感触は直ぐに離れた。
「直ぐに飲み込めない者もいることは聞いている。急がなくていいが、安全対策は必要だ」
ワイアットはサイドチェストの引き出しの奥を暫く探り、銀製の腕輪を差し出した。
「婚姻の証だ。多少の抑止力にはなる。左腕に身に付けておいてくれ」
「い、急がないのでは?」
「役所に届けなければ婚姻は成立しない」
ワイアットは真面目くさった顔のまま、一貫してあまり表情が動いていない。表情から感情は読み取れないが、実直で端的な物言いからすると人を騙すような狡猾さはないように思えた。
「…ありがとうございます」
雪江は争奪戦から守る意図には違いないと判断して受け取る。腕輪には鳩のような鳥が二羽寄り添う意匠が施されており、裏にはワイアットの名が彫られてあった。物珍しげに一通り見てから装着する。
「フードを目深に被って顔を隠せ。手続きをして必要なものを揃えに行く」
フード付きのローブを渡されシーツの代わりに着ると、雪江の足先まで隠しても尚引きずる。ここにはワイアットのものしかないのだろう。
「なんの手続きですか?」
「お前が無事到着したことを届けて戸籍を移す。二日以内に届けがなければ捜索隊が出る」
「…届けない人っているんですか?」
「いる」
「……急すぎて、仕事を休めない人もいますもんね」
「違う。嫁より金が欲しい者もいるんだ。女を売るのは大罪だが、上手くやれば大金が手に入る」
「う、売るってまさか…」
「表立って宣伝はできないが、会員制の客に都合をつけているようだ」
「わぁ…」
女性が貴重な世界でも違法な風俗嬢が存在するということだ。貴重だからこそというべきなのか悶々としていると、話しながら上着を羽織りブロードソードを腰に佩いたワイアットが雪江を抱き上げた。
「ひぁえ、あの、私歩けますよ!?」
お姫様抱っこではない。片腕一本、左腕に座る形で抱き上げられている。ワイアットは百九十センチ近くある。急に高くなった目線に慌てて彼の肩に掴まった。百六十センチもない雪江はワイアットに比べれば随分小柄に見えるのだろうが、出るところは出てそれなりに脂肪があるのだ。羽のような軽さではない筈なのに、重さを感じていないかのような安定感に雪江は目を白黒させた。
「靴がない」
「それはそうですけども!? ですけども、…うぅ、すみません、お世話になります」
いい歳をして子供のように抱えられて移動することに羞恥がわかないわけがない。だが他に案も無く、雪江は頰に赤みがさすのを隠すように顔を背けた。