18. 疎通の壁
観劇を切り出されたのは当日だった。
一緒に草毟りをしながら午後からだと言うので、雪江は慌ててワンピースの土埃を払い、洗い終わったワンピースが乾いているか、クローゼットのワンピースに皺はなかったか確認に立つ。心配するなとワイアットから新しいワンピースを渡された時には準備の良さに驚いた。マダム・プルウィットに見立ててもらったという、ちょっと余所行きの白と若草色を使ったワンピース。定番の型とそう変わりはないが、前腕の半ばから少し広がった袖の作り出す襞が優雅で、袖口から覗くレースが上品だ。ドレスコードがある格式の高い舞台なのか不安になったが、どうやらそうではないらしい。
観劇は大衆の娯楽としても主流で、タザナのような大きな領都には劇場と劇団が複数あり、大きな劇場は女性客も来る為警備も手厚い。訪れた劇場も街の目抜き通りに面した足を運びやすい位置にあり、女性客を見越して作られたもののようで、壁際にずらりと並ぶボックス席は他の客が乱入できない安心の作りになっている。
二階のボックス席に到着するまでの間、それぞれの扉を護るように通路にずらりと並んでいる護衛達を見かけたので、女性にも人気の演目なのだろうことが窺えた。これだけ護衛が溢れかえっていれば、劇場の警備がなくとも悪さをする気になる者はそういないだろう。雪江達も護衛達を通路に残してボックス席に入った。
演目は『夜露の恋人達』。
将来を誓い合った恋人のいる少女が貴族に買われ、貴族の血を残すための結婚を強いられるが、石工職人から大商人に成り上がった恋人が政変に加担し、少女を買った貴族を没落させて取り戻すという物語だった。
観客席からすすり泣きが聞こえ、溜息がもれ、最後には拍手喝采で幕を閉じる。雪江も途中で涙ぐむほど引き込まれていたが、目端に映ったワイアットが居眠りしているのに気付いて少し笑ってしまった。会場を包み込む歓声と拍手で目が覚めたらしいワイアットがばつが悪そうな顔をしているので、くすくすと笑いが尾を引く。
「男性だけでやってるから脚本も男性目線に偏ってるのかと思ったら、意外に女性の気持ちも描けてて違和感なかったです。女性の監修でも入ってるんでしょうか」
内容は分からないだろうから作りの話を振ると、ワイアットは情報は持っていたようで頷いた。
「座長の奥方が関わっているという話だ」
「やっぱり! …そっか、そういう裏方の仕事はあるんだ……」
雪江の声が弾んだ。
「私の国でも男性が女役をやる伝統芸能があるんです。その女役のことを女形って言うんですけど、色気があって素敵なんです。ユマラテアドの女役も綺麗で惚れ惚れしちゃいました。此方では余計に人気も高そうですね」
「出待ちや楽屋に花を届けたい連中の為に専用の係員を用意しているらしい」
カーテンコールが終わると同時に観客が一斉に動き出して、紺色の制服を着た係員に誘導されているのが見えた。手に手に花束や贈り物と思しき包みが握られている。
「ほんとだ。こっちにも出待ちってあるんだ……そういえば入り口付近でブロマイドとか売ってましたよね。カメラマンって、此方ではどういう扱いなんですか? 外部委託かな、女役専属カメラマンとかいう職業あったりしませんか」
「その辺はわからないが…まだ仕事をする気なのか」
「まだ、というか。今の仕事はとても不安定なものなので。他にも可能性を探って準備をしておきたいんです。必要な技能とか、資格とか…そう、そうだ、資格。ワイアットさん、此方の資格って」
考えながら話す雪江の蟀谷にワイアットが口付けた。雪江は一瞬固まって、蟀谷を押さえてじわじわと赤くなる。
「えっ!? 今、えっ?」
────何故このタイミング!?
否、タイミングが問題なのでは無い。
雪江はワイアットから距離を取るように上体を傾け、咎めるような、問うような視線を刺す。ワイアットは何かを呑み込むような苦い顔をして目を逸らした。少なくとも色事を仕掛けようとした顔ではない。何に対してどういう感情の口付けだというのか。疑問は盛り沢山だが、雪江は今度こそ言わねばならない。
「ワイアットさんはスキンシップが過ぎると思います」
「嫌か?」
ワイアットの目線が雪江に戻って来た。
嫌ではない。嫌ではないから困りもするのだ。
「こういうことは恋人同士じゃないとしないものです」
「……どうしたら恋人同士になれる」
「どうしたら!? え、そこから!?」
大の大人からの思ってもみなかった質問に、雪江の思考が停止しかけた。だがそうだ、ここはユマラテアド。生涯女性と縁のない男性が大勢いる世界だった。雪江はなんとか思考を取り戻す。
「ど、どう……心が通じ合ったらではないでしょうか」
「通じ合わせたい」
「ん、んん…?」
これを愛の告白と受け取っていいのかどうか微妙だ。ワイアットの目は真剣だが、色めいたものは窺えないから単なる方法の問い合わせかもしれない。照れも見せず平素の顔のまま口付けたりする男なのだ。ただ結婚したいだけなのか純粋に好意があるのかの判断が、雪江には難しい。ここでなあなあにしてしまうと、判らないままスキンシップを受け続けることになりそうな予感がして雪江は覚悟を決めた。
「わ、たしは…。私はワイアットさんのことが好きです」
そう、この短期間ですっかり惹かれてしまっている。だからこそワイアットの真意が解らないのが辛い。
ワイアットはゆっくりと瞠目した。その先を言葉にするには勇気が必要で、雪江は挫けてしまわないようにワイアットの目を睨み上げる。
「でも。ワイアットさんは選択肢がないから私に拘っているだけですよね。落ちてきたのが私でなくても、娶るんでしょう?」
ここはそういう世界で、そういう価値観の人もきっと多いのだ。そんなことは解っている。ワイアットなら男女の愛ではなくてもたっぷり情を注いでくれるだろうし、それはそれで幸せなことなのだと雪江は思う。だけどきっと、ふとした折に虚しくなる。元の世界に恋しくて仕方ない肉親がいるわけではない。それでも。自分を培ってきた何もかもから切り離されて、身一つで此処にいる心許なさがある。生まれ育った世界から、不要なものと見做されたやり切れなさが蟠っている。
事情は解る。人口過多なのだ。いつかの時代にあった口減らしのように弱者をただ切り捨てるより、需要のある人間を移住させる方が余程救いがある。移住先で幸せになれる可能性があるのだから。だけど理屈ではないのだ。切り捨てられた事実は暗い影となって身の内に残る。女性不足を解消するためだけの、女児を産むためだけの存在だと思わずにいられる自信はない。せめて愛されているという、拠り所が欲しいのだ。
「ああ」
面食らったように止まっていたワイアットが一つ二つ瞬いて、現実に戻って来たように頷く。
彼は雪江でなくてもいいのだ。答えを予測していても雪江の胸は軋む。ワイアットはこんな時でも嘘をつかない。これも誠実と、言うのだろう。
「だが落ちてきたのはお前だ。仮定の話は意味がない」
「…そういうことを訊いているのではありません」
ワイアットは断固として言い切ったが、雪江はそれで納得する女性がいたら見てみたいものだと思う。否、彼を特別好きでなければ納得したかもしれない。こうして踏み込むこともなかっただろう。
「仕事は選択肢でもあるんですよ、ワイアットさん。今はまだ、安全まで買えるほど稼げるわけではありません。でも。全くの無理ではないことは判りました。…一人では生活していけないから、仕方ないからで結婚を選びたくないんです。だってそんなの、失礼でしょう。私は沢山の選択肢の中から貴方を選んだんだって、胸を張って言いたい。私もちゃんと、私を選んで欲しい」
ワイアットの瞳が戸惑ったように揺れている。彼にとって初めて触れる価値観なのかもしれない。
「………貴方に愛されたいと思うのは、我儘なんでしょうか」
目を伏せ、小さく呟いた雪江の声が少し震えた。自信がないのだ。食糧と交換という建前があっても、世界から捨てられた女だ。自分の価値をどう持ち直したものか判らない。ワイアットが保証してくれた雪江の価値も、子供が産めるという価値だろう。
雪江は言い終わると同時に席を立った。言葉の足りない人だから丁寧に聞き出す必要があるのは解っているが、それ以上掘り下げる気力がなかったのだ。