14. 中隊長宅の陽だまり
「お見苦しいところをお見せしました。初対面なのにすみません」
泣ききってすっきりしても恥ずかしさが残る。雪江は濡らしてもらったハンカチで瞼を冷やし、すんすんと鼻を啜った。
「どうしたの、スカイラーさんと何かあったの?」
ルクレティアが紅茶を入れ、椅子に座らせた雪江の前に出してから向かいに腰を落ち着ける。
「いえ、彼はよくしてくれてます。凄く。ただ私、何の心構えもなくこっちに来ちゃって。本当に突然だったから…同じテラテオス人に会えて気が緩んでしまったんだと思います」
「あら、貴女選定なの? それは大変だったでしょう」
雪江はハンカチを下ろして力無く笑んだ。
「条約なんて個人ではどうしようもないし、そこはもう、割り切ってるんです。でも私、突出した何かがあるわけでもないのにあんな……手間暇費用かけて作られたものと交換だなんて……国営だなんて…おまけにこっちじゃ守られてばかりで、稼ごうと思ってもそれも入念に守られながらじゃないとできなくて。女、ってだけでこんな…そりゃ、向こうでだって、営業事務だし、私にしかできない仕事をしてたわけじゃないんですけど、でも。急に役立たずになってしまって…なんて言ったらいいか、そう、失望中なんです」
慣れなければならない事、覚えなければならない事が一度に押し寄せてきて処理しきれなくなっていた。その上いろんなものが砕かれて、心が弱っていたのだ。雪江が話そうと思ってなかったことまでするすると口から出てくる。出会い頭に醜態を晒してしまったのもあり、開き直りもあるのかもしれない。又、国は違っても基本的な常識や価値観が理解できるという前提もあるからだろう、矢張り気安いのだ。
「真面目なのねぇ」
ルクレティアが紅茶を一口含んで、しみじみとした頷きを落とした。
「…そうでしょうか」
「そうよぉ。向こうとは状況が違うの。男女比ばかりはそれこそ個人の力じゃどうにもならない。守られなきゃやってけない社会構造なんだもの、しょうがないわよ。だいたいこっちは嫁が欲しいと心底請われたから来てやった、ありがた~い天からの贈り物よ。天女なのよ。天女降臨に作物のお供物なんてこんな理に適ってることはないじゃない! ……あらやだ私今凄く上手いこと言ってない?」
滔々と語っていたルクレティアは、自分の喩えに吃驚したように目を丸くした。雪江も一緒に目を丸くして、吹き出す。
「本当だ、上手いこと言ってます」
くすくすと笑って目尻に残っていた涙を拭き取ると、雪江は肩の力が抜けたように一つ息を吐いた。
「…そっかぁ。そうですよね、嫁が呼ばれただけですもんね」
自分だけで納得させようとしても上手くいかなかったものが、気負いなく人に認められると少し気が楽になる。ただ、気が楽になって少し視野が広くなると、気付くこともある。逆だったのだ。突出した何かがあるわけではないから選ばれたのだ。選ばれたと言えば聞こえは良いが、要らないから交換に出されたのだ。急にすとんと腑に落ちた。同時に別の失望が横たわる。どうしてそんな簡単なことに気付かなかったのだろうと思うが、今、気付かなくて良いことだった。励ましてくれている人が目の前にいるのだから、今考えることではない。
ルクレティアは優しく微笑んでいる。雪江は下がりそうになった口角を持ち上げた。
「深く考えすぎちゃったのね。条件なんて確か、健康な独身の成人女性ってだけよ。どうやって調べるんだか、結婚願望とか恋人が居ないことも確かめるんじゃなかったかしら。貴女の場合勝手に選ばれて来たんだから、余計気負うことないのよ。私なんて自棄だけでこっち来たわよ」
「自棄!? ……え、もしかして志願ですか?」
「そうなの。勢いで志願しちゃった」
ルクレティアは悪戯が成功した子供の様な楽しげな顔をしている。
「私よく浮気されたのよ。なかなか会えなくてもこっちは一途に想い続けてるってのに、寂しいだけで他の女に手を出すってどういう了見なのよ! って話じゃない。男の生理が、なんて免罪符にもなりゃしないわ、意志ぶれっぶれなだけじゃない! そんなことが続けばもううーんざり。私を軽く見てるテラテオスの男なんて纏めて捨ててやるわ! ってなるわよね。女不足ならべろっべろに愛して離れないでいてくれる男の一人や二人、見つかると思って一思いにやってやったわ」
途中から拳を振り上げ身振り手振りで熱が入り、最後には誇らしげに胸を張って鼻を高く掲げた。おそらく十は年上の女性の生き生きと正直な様に、雪江は自然と笑みを浮かべた。
「素敵な旦那様を捕まえたんですね」
一切の後悔が見られないルクレティアに確信する。セオドアは彼女にとって、良い夫なのだ。
「そうなの! 鬱陶しいくらいに愛してくれちゃって、大満足よ。来て良かった、めちゃくちゃ満たされてる! ……でもねぇ。まさか外で働けないとは思わなかった。確かにこれはがっがり案件よね。スラム街でもないのに一人で出歩けないって意味が解らなかったわ」
「私もです」
「でしょう!? まぁでも。そこは本当に、慣れなきゃやってけないわ。なんせ貞操の危機だもの。命の危機だもの」
ルクレティアは実感の籠った吐息を吐き出した。雪江の背中にひんやりとしたものが過ぎる。
「…その。実際に危ない目に遭ったことが?」
「九年間で五度あったわ」
「五!」
「優秀な護衛達のお陰でこの通りだけどね!」
ルクレティアは青褪める雪江に対して、少し離れた位置で背を向けて控えているティーグ家の護衛達を目線で示し、両手を広げて健在を主張して見せた。
すっかり忘れていたが、雪江の護衛達も同じように控えている。大泣きした現場を見られたと思うと今更ながらに恥ずかしい。ああいう時は空気技能を発揮せず存在を主張して欲しいものだ。もしかしたら踏みとどまれたかもしれない。
「慣れるまでの我慢ですね」
複数のことをひっくるめて神妙な顔で雪江は頷き、冷めてしまった紅茶を飲み干した。
「おかわりはいる? そうだ、忘れてたわ。パイを焼いたのよ。うちの子達が苺ジャムのパイが好きでよく焼くのだけど、大人の口にはちょっと甘ったるいかと思ってチーズでおさえてみたの。お口に合うかしら」
ルクレティアは紅茶を注ぎ直すといそいそとパイを切り分け、雪江に勧める。手作りパイなど振る舞われたことのない雪江は、喜んで口にした。
「丁度良い甘さです。美味しい」
控えめで優しい甘さに気持ちも和む。ルクレティアも満足そうにパイを口に運ぶ。
「ルーシーさんは働けない鬱憤はどうやって晴らしてるんですか?」
「片っ端から内職やりつくしてブランド立ち上げてやったわ」
「ブランド!?」
「女性用の下着とアウトドア用の服のね。パンツスタイル取り揃えてるわよ。興味ある?」
「はい! 私普段はジーンズやパンツスーツだったんです。手に入るなら嬉しい」
「今度連れて行ってあげるわね」
雪江は目を輝かせ、ルクレティアは上機嫌で請け合った。
「ママ、カミールひるねしたよ」
「あら、ありがとう」
子供の声がして家の方を振り向くと、セオドアと同じ髪色をした小さな少年が駆け寄って来ていた。ルクレティアが座ったまま身を屈め、抱き寄せて蟀谷に口付ける。
「ユキエ、次男のジャーヴィスよ。今年六歳になるの。ジャーヴィス、これユキエちゃんがくれたの。お兄ちゃんが帰って来たら皆で分けて食べて」
「なかみはなに?」
「マフィンだって」
「やった!」
「ほら、お礼は?」
「ありがとう!」
マフィンの包みを大事そうに両手で抱えて笑顔を向けるジャーヴィスに、雪江も笑顔になる。子供の可愛さはそれだけで癒しになるから不思議だ。
「ユキエちゃん、めとはながまっかだよ、だれかにいじめられたの?」
そして子供は正直だ。笑顔では躱しきれなかったらしい。
「ジャーヴィス君のママに会えて嬉しくて泣いちゃったの」
「ママがだいすきなの? ぼくといっしょだ!」
嘘ではなかったから、ジャーヴィスも打てば響くように返してくれた。ティーグ家の庭は和やかで暖かい。