護衛の恋(8)相棒
侯爵への結婚報告から一年が経とうとしていた。雪江は懐妊し、安定期には入ったものの外出を控えている。その為、ワイアットが家に居る時期にエアロンだけがアラベラ家へ送り出されていた。通い婚の実態作りだ。
エアロンは初めこれを拒否した。この頃にはナレシュも随分頼もしくなっていたので、外出しない雪江に対しての二人体制が不安だということではない。エアロンの本分が護衛だからだ。ワイアットに命令されたのなら従うが、彼が出したのは許可だった。雪江は困ったらしく、ネヘミヤを引っ張り出してきた。
ネヘミヤは高齢の富豪に身請けされている。彼はそこで後継として自分を売り込んでいた。経営のノウハウを学び歓楽街にある幾つかの店を任されるようになっており、忙しさはあるものの公娼時代よりも身軽ではある。ワイアットの居ない時間帯には彼に様子を見に来てもらうことになった。護衛を自宮者にしている為近所迷惑にならず、歓楽街でそこそこ名が通っているから一定の抑止力はある。エアロンは警護上の不安からではないと固辞したが、結局はネヘミヤに言いくるめられた。
娼館への売り飛ばしを危惧していたアラベラは雪江の懐妊を喜んで、納屋に溜め込んでいた鹿の角を引っ張り出してきた。雪江とお腹の子の御守りに加工するのだ。雪江の装身具、部屋の飾り、産まれてくる子の首飾りなど、種類は豊富だ。尖った先端部分を必要数切り落とし、アラベラと二人、納屋の作業台を囲み鑢で表面を滑らかにする作業をしていた。ハイラムも作りたがっていたので、狩りに出ている彼の分は手付かずのまま脇に避けてある。
単調な作業はなんとはなしに無心になる。暫く鑢を掛ける音だけが続いていたが、ふとアラベラが口を開いた。
「エアロン、このまま夫婦でいてくれないかい」
「構いませんよ。まだ諦めていないんでしょう」
手元に視線を落としたまま、エアロンは気軽に頷いた。
当初はほとぼりが冷めた頃に離婚する手筈であったが、それが延びたところで何ら支障はない。エアロンはアラベラが相応しい夫を見つけるまでの繋ぎのつもりでいるし、侯爵に対しての防波堤であることに密やかな満足感がある。
「そういうんじゃなくてさ」
アラベラはすっかり白くなった角にふっと息を吹きかけて粉を払い落とす。
「ユキエがさ、言ってたんだよ。夫婦ってのは最小の集団の共同経営者。困った時に助け合う相棒だって。そういう結婚ならいいなって思ったんだよ。そういうものに、ならないかい」
今の状況との違いが判らず、エアロンは首を傾げた。手を止めて顔を上げると、アラベラが真面目な顔でエアロンを見ていた。
「あたしあんたのこと結構好きなんだよ。だから紙面上だけでなく、本当に家族になんないかって言ってんの」
鈍い男だね、とアラベラが呆れたように息を吐き、エアロンは目尻がが千切れんばかりに目を見開いた。そんな言葉が自分に向けられる日が来るとは思っていなかったから、意味を咀嚼するのに時間が掛かって瞬き一つできない。
「勿論今はユキエが優先でいいよ。護衛を辞めた後の就職先が必要だろ。気軽に考えりゃいい。家族が嫌ならウチに就職するとでも思えばいいんだしさ。ほら、いつだったか言ってたろ。護衛辞めたらあたしを護ることに専念するってさ」
エアロンは夢か現か惑った。アラベラは気楽な口ぶりだが揶揄いの気配はどこにもない。それを見てとって漸く言葉が浸透し、彼女が自分に好意を示したのだと理解する。どこか冷静な部分で、彼女の好意が自分の想いとは種類が違うことも理解したが、それでも息が詰まる程の衝撃で、思考が飛ぶ程の喜びが身体中を駆け巡った。
どうしてこんなことになっているのかは解らない。ただ、こんな奇跡はもう二度と起こらないだろうことははっきりしていた。返事をしようと感情が先走る。だが、と理性がそれを阻んだ。エアロンの想いはアラベラよりずっと重い。彼女の言う夫婦に、この気持ちは不要なのではないか。ならば気持ちは隠したままが良い。そもそもが告げてはいけない想いだった。彼女の為にはならないからそれでいいとも思っていて、だから好意を得る努力すらしてこなかった。ただ一方的に彼女を想って、秘めたまま墓に入ろうと思っていた。今までずっとそうであったのに、何故今になって告げようと口が緩むのか。ここに来ての意志の弱さに辟易とする。だが言わぬまま傍にいようとするのは不誠実なのではないか。他ならぬアラベラに不誠実であっていいのか。
エアロンは葛藤を抑え込むように片手で双眸を押さえた。鑢が作業台に転がる。
「俺……俺、は…」
綻びた思考で口を突いて出ようとした言葉を呑み込む。言うべきか判らない。ただ、判断材料を秘匿すべきではないと思った。煩悶しながら傍に居るよりは、引導を渡された方が良い気もした。
「俺は」
これから告げることへの罪悪感か、彼女の反応を恐れてのことか、声が掠れた。
「ずっと貴女に懸想しています。貴女の護衛であった頃から、ずっと」
アラベラの気配が揺らいだのが解った。動揺なのか、嫌悪なのか。どちらにしてもその反応を受け止めなければならない。エアロンはゆっくりと手を下ろし、顔を上げて彼女の赤茶色の目を見る。そこにあるのは嫌悪ではない。純粋な驚きだった。だが許されると思うのはまだ早い。エアロンは緩みかけた気を引き締めるべく息を入れる。
「それでも。貴女の言う夫に相応しいと思っていただけますか」
「………驚いた」
アラベラが呆けたように言葉を発した。口元を覆って、次第に目を泳がせ始める。言葉を受け入れる間を要しているようだった。
「……いや、うん、……いや…? それは、つまり…ああ、うん。……そう、だ、ね、まあ、うん……悪い気はしないよ」
少なくとも拒絶はされなかった。詰めていた息がほっと吐き出され、強張っていたエアロンの体から力が抜ける。アラベラは少し照れ臭いように口元を歪めた。
「うん、悪くない。同じ気持ちになるかは判んないけどさ、そういうの引っくるめて育てても良いと思える程度にはあんたを気に入ってる。じゃなきゃこんな話、持ちかけたりしないだろ」
「…はは」
力が抜けすぎて乾いた笑いが出た。瞬間的に思い詰めた反動なのか、信じ難い出来事への戸惑いか、歓喜の発露なのか、判別し難い断続的な笑いが漏れて、エアロンは両手で顔を覆う。
「ちょっとなんだい、どっちなのかはっきりしな」
気が触れたと思われたのかもしれない。アラベラが若干引いているのが声から判ったが、なかなか収まらなかった。そうしているうちに夢と覚めてしまうかもしれない。エアロンは正体の掴めない衝動を宥めて息を吐く。
「よろしくお願いします。俺は許される限り、貴女の夫でいたい」
自分で発しているのに別の世界から聞こえてきた言葉のようで、エアロンは現実を確かめたくなった。
「………貴女に触れても?」
顔を上げた先でアラベラが立ち上がった。両腕を広げるので戸惑うと、アラベラは焦ったいように眉を寄せる。
「あたしだって嬉しいんだよ、喜び合うんじゃないのかい?」
エアロンの視線が揺れた。そこまで急に許されるとは思っていなかったのだ。それでも作業台を挟むのでは遠い気がして、エアロンは気持ちが追いつかないまま回り込む。そっと手を伸ばせばアラベラから迎えられた。アラベラの手が先にエアロンの背に触れて、その温もりに勇気付けられるように恐る恐る両手を彼女の背に回す。囲っても逃げていかない身体を抱き締めると、アラベラという存在を熱として実感できた。それは想像よりも生々しくていけないことをしているような気分になったが、同時に満たされもする。直ぐ隣にある銀色の髪に吸い寄せられるように頬をすり寄せると、ぽんぽんとあやすように優しく背を叩かれた。おそらくこれが、今の二人の温度差だ。それでも許された。想うことも、触れることも。
雪江にはどう報告しよう。きっと驚くだろうが、間違いなく喜んでくれる。作業台に転がる鹿の角が、滲んでよく見えなかった。
「なんだいあんた泣いてんのかい。意外と泣き虫だねぇ」
「……俺も今、知りました」
アラベラが笑ってまた背中を叩いてくれるから、鼻声もそう恥ずかしくはなかった。