護衛の恋(7)アラベラ
アラベラには三つ名前がある。一つ目は親にもらった名前。シンシア。
シンシアは十六歳で成人した年に結婚して、三年。子供が出来ず、これはおかしいと精密検査を受けさせられた。そこで判明した子供が産めないという事実に、シンシアは血の気が引いた。子が産めなくても添い遂げたいという男はこのアルグスコフ王国にも沢山いる。だがシンシアの夫は子供を欲して結婚した男だった。離縁は必至だ。元々首が回らなくなったシンシアの父親が金で決めた結婚で、この頃には一家離散しており、シンシアを引き取る余裕のある身内はいない。シンシアは直ぐ様次の夫を見つけられなければ、路頭に迷い道端で襲われる未来が待っているのだ。庇護者を見つけるまで待ってくれるよう頼んだが、夫は聞く耳を持ってくれなかった。夫に対して愛があった訳ではないが、それでも良い関係を築こうとしていたシンシアの努力は、少しも通じていなかったのだ。生産性のない女をいつまでも養う義理はない、無駄にした今までの経費を回収しろと娼館に売られた。
二つ目の名前がロクサーヌ。シンシアを買い取った娼館のオーナーが付けた名だ。
娼館では子供の産めない女は歓迎された。最奥の一等豪華な部屋があてがわれ、貴族や羽振りのいい商人の相手をさせられた。行儀のいい客を選んでいるらしく、恐ろしい思いをしたことは殆ど無い。上等な商品を壊されない為の措置に過ぎないから特に感謝はないが、図々しくも元夫が客としてロクサーヌを所望し門前払いを食らったという話を聞いた時には、ざまあみろと胸がすいた。
貞操観念が人並みにあるロクサーヌは、不特定多数の男と体を重ねることに抵抗感があった。だが路上に放り出される危険に比べれば上等な暮らしぶりだった。上等な客ばかりだから、気に入られれば足を洗える可能性だってある。
身請けを夢見て耐えた一年。ある日同じ娼館で生活している男娼から風邪をもらい、高熱で寝込んだ。ロクサーヌの為に医者が呼ばれ、その場で渡された薬を飲んで暖かくして眠った。筈だった。
次に目覚めた時。景色が一変していた。目に飛び込んできたのはいつもの清潔な白い天井の壁紙ではない。無精髭を生やし快楽に取り憑かれた男の顔。柔らかくて手触りの良い暖かい寝具に包まれていた筈なのに、板の上に寝かせられているかのように背中が痛いし、素肌が直接外気に触れていた。熱はまだ下がっていなかったから、鈍った頭では直ぐには状況が呑み込めなかった。もういっそ、何も理解できないまま昏倒してしまえれば良かったのだが、複数の男から次々に与えられる痛みに、落ちかけた意識を何度も引き上げられた。男達の卑しい顔が何度入れ替わったのかは覚えていない。朦朧とした意識の中、耐え難い恥辱に憤死しそうになった時、大音声の怒気と共に体が軽くなった。そこで漸く意識を手放すことができて、ロクサーヌは死んだのだと思った。
ロクサーヌは死ななかった。瀕死にはなったが、持ち直してしまった。急ぎ医者の元へ担ぎ込んだ男の所為で。
なんとか上体を起こせるようになった頃、一人の男がロクサーヌを訪ねてきた。医者の話によると、治療費を出してくれている男だということだ。
熊のように大きな壮年の男。声に覚えがあった。記憶にあるのは怒鳴り声だったが、独特の濁声は平素の音量でも変わらないらしい。日に焼けて真っ黒な肌、額と左頬に大きな古傷があって、目付きが鋭く凶悪な面構えをしている。山賊かと思ったら、本当に山賊だった。その山賊は大きな身体を丸めるようにして頭を下げた。
「悪かった。俺の謝罪なんぞクソの役にも立たねぇだろうが、あのクソ野郎どもは身包み剥いで追放した。他にやった奴がいるなら全部教えてくれ」
「追、放…? 何故そんなもので済むと思ったの」
自分でも吃驚するほどの冷えた声が出た。この男の謝罪に価値などない。凶悪面の山賊相手に震え上がる心は、この時点で死んでいた。
「本当に悪いと思ってるんなら、あたしに戦い方を教えなさいよ。だって、あたしが弱いからこんな目に遭ってるんでしょう。あたしに力がないから。こんな風に蹂躙されて、奪い続けられる。命が助かったって、それが何? 今度はどうやって嬲られるっていうの? 皆、抵抗できないやつには何をしても許されると思ってる。あいつら…あいつら、あいつら……! あたしを哀れんでるなら、あいつらを八つ裂きにできる手段を寄越せ!」
今なら人を呪い殺せるかもしれない。それ程のドス黒い感情をその山賊、ディエゴにぶつけた。
三つ目の名前がアラベラ。鳥の王者を意味する名。勇ましい名を自分で付けた。
アラベラは全快するなり、腰まであった美しい銀髪をばっさり切り落として、ディエゴのアジトに押しかけた。ディエゴは地域一帯の山賊を率いる頭目だった。犯さず殺さず、貧乏人からは盗らずを掟とした所謂義賊だった。だからといって単純に良い人だとは思わない。山賊は山賊だ。
アラベラはディエゴの指導を受け、取り憑かれたように剣を振った。来る日も来る日も。何度打たれ転がされても立ち上がる。自らの弱い性をかなぐり捨てるが如く、血反吐が出るほどの追い込みようだった。そして追放されて散っていた憎い奴らを探し出し、ディエゴとその一味が見守る中、公開処刑した。一方的にというわけではない。相手にも剣を持たせて一人ずつ、一騎討ちで叩き斬っていった。体裁でも温情でもない。そうしなければ打ち勝った気になれないと思ったのだ。法は捨てた。だが抵抗を封じて弱者を嬲るような彼らと、同じ人間にはなりたくなかった。鬼気迫るアラベラに居合わせた者は色を失い、震えている者もいた。
一番よく見える特等席で踏ん反り返っていたディエゴの濁声が、静まり返った場に響く。
「どうだ、俺の女は強いだろう。俺が手を貸すまでもなく殺っちまうんだから、手間ぁ省けるってもんだ」
いつお前の女になったというのか。アラベラは殺意を込めて睨んだが、言葉にはしなかった。ディエゴは口角を上げたままそれを平然と受け止めた。鬼神の如き様だけでも、ディエゴの宣言だけでもおそらく足りなかった。その両方が揃って初めて、頭の出来の悪い男達もアラベラに手出ししてはならないと理解したのだ。それは行く当てのないアラベラを、ディエゴが引き受けると示す行為でもあった。
アラベラはディエゴ一味に加わり、いつしか名実共にディエゴの女になった。人を殺めた反動に苛まれるアラベラを根気良く介抱するディエゴに絆されたのだ。ディエゴからすれば、罪悪感や同情からだったのかもしれない。それでも互いの間には確かな情があって、アラベラは少しばかり正気に戻れた気がした。ディエゴが死ぬと、アラベラは足を洗うことにした。生前のディエゴの根回しによって頭目を任され直ぐにとはいかなかったが、アラベラと共に引退を希望する古参の者が十数名いたので、彼らを連れてアリンガム侯領の片隅の廃れかけた村にひっそりと引きこもることにした。人並みの暮らしを望んでいい人間かは判らない。それでもそうできるのなら、できる範囲のものを望んだ。
アラベラはシンシアとしての戸籍を失っている。存在を秘す為に娼館が手を回して死亡届を出していたのだ。だからアリンガム侯との交渉で得た戸籍の名はアラベラ。エアロンの戸籍にはアラベラ・カーニーとして名を記されている。経緯からして真っ当とは言えなかったが、アラベラはこの結婚を思いの外気に入っていた。エアロンは弁えた男で出過ぎない。職業病か形式上の夫故か、時に弁えすぎるのには苛立ちも覚えるが、アラベラの気持ちを決して蔑ろにはしない。その上なかなかどうして頼もしい。
「エアロン、このまま夫婦でいてくれないかい」
だから侯爵の件が落ち着いて暫くの後、改めてそう口にした。




