休暇計画おまけ:いつものひとたち
「気にするな」
旅の疲れを癒して落ち着いた頃、ワイアットの体面まで考えていなかったことを雪江が謝ると、一言だけ返ってきた。言い方が頗る軽い。これは故意に言わなかったのではない。彼にとって大したことではないから意識の外だったのだ。雪江は却って困ったことだと思う。
「ワットが気にならなくても、私はワットが不当に貶められたら嫌な気分になるよ。大切な人なんだもの、当たり前でしょう? もっと良いやり方はなかったのかって、なかったとしても、気遣えなかったことを後悔するの。っていうか、してるの。今」
ワイアットがほんのり喜色を浮かべて雪江を持ち上げた。雪江は失敗したと悟った瞬間、最近長椅子に常備しているクッションを素早く掴み取る。対面で膝に乗せられると同時にそれを二人の身体の間に入れた。いつまでも同じ手は食わない。力で敵わないなら道具を用いればいいのだ。雪江は学習できる子兎である。
「だーかーらー真面目な話なんだってば!」
ワイアットは分厚く硬めの抱き心地が確実に悪いクッションに距離をあけられて、不服そうに双眸を細めている。
「お前に必要なことだっただろう」
「うん。知ってても仕事は探してただろうけど、あれこれ悩み尽して納得して行動に移すのと、やった後に知るのとじゃ、全然違うんだよ?」
不服度なら雪江も負けない。目力を込める。彼は理解が遠いのか、黙っている。
「事前に教えてくれてたらやり方を考えることもできるでしょう? 例えば仕事で名乗る時はミドルネームまでにするとか。…うん、そうだ、次からはそうする」
雪江の旧姓をミドルネームとして残してある。何も知らなければそれを名字と受け取ってもらえるだろう。劇団メテオルドゥスの面々にはもう知られてしまっているから口止めをして、エルネスタが紹介してくれる次の劇団からそうしたらいいのだ。玉簪の方は工房街はもう手遅れだが、購入者には特に広がることもないだろう。
「俺が付き添うのにか」
「そうでした」
雪江の目から光が消えた。そもそも自分の妻だと積極的に主張しているのはワイアットだ。何も隠せやしない。
「こ、この件はもうしょうがないけど、兎に角! 私にも考える頭があるの。なのに情報が貰えなかったらそれを否定されてる気分になるよ。気にするな、考える必要はない、っていうのは、人格を否定されてるみたいで悲しい。そうじゃなくても蚊帳の外に置かれてるみたいで寂しいよ」
ワイアットは虚を衝かれたように瞼を持ち上げた。
「すまん。そういうつもりではなかった」
「うん」
雪江を軽んじる意図ではないことは解っている。説明が不足するのは今回のように大したことではないと思っていたり、彼の中で解決してしまっているからなのだろう。それを雪江がどう感じるかまで思い至っていなかっただけなのだ。
以前コスタスが、出会って間もない上に現場も見ていないのに、ワイアットを仕事ができると評していたことがあった。何を見てそう判断したのか訊いてみたことがある。剣技に加え、素早く的確に無駄のない結論を口にするからだと言っていた。逐一何故何など説明していては、刻一刻と状況を変える戦場では生き残れない。現場で兵を率いる者として必要な能力だという。
ワイアットは成人して直ぐに入隊して十数年、散財する程遊ぶこともなく軍隊にどっぷり浸かっていたのだ。骨の髄まで軍人脳になっていてもおかしくはない。優秀なのは素晴らしいことだ。ただ、戦場での兵隊の運用と平時の人間関係の構築は違うと雪江は思う。
「今度からは教えてくれる? ワットに関わることだから余計に私も一緒に考えたいの。ちゃんとワットに関わらせて」
「解った」
ワイアットは神妙に頷いた。雪江はほっとして眉を下げる。
「私も自分で気付かなくてごめんね」
ワイアットにばかり改善を要求するのは公平ではないだろう。彼だけの所為とも言い切れないのだから。
「私が頼りない所為もあるよね」
「それは仕方ない」
「こ、肯定の仕方…」
あっさり頷かれて雪江はがくりと肩を落とした。そのまま顔をクッションに預ける。そんなことはないと言われても納得はしなかっただろうが、あまりにも自然すぎて哀しい。ワイアットの中ではそういうものとして定着してしまっているようだ。
出会った頃の雪江はとんでもないお花畑の住人に見えていただろうから、それが大きく影響しているのかもしれない。その上自分のことで手一杯の人間を頼ろうとは、誰も思わないだろう。それ以上負担をかけないようにと気も遣うだろう。慣れない世界に突然放り込まれた人間に対して、それはごく常識的な扱いだが、雪江はいつまでも甘えてはいられない。これは人を駄目にする包容力だ。
「うう…ワットにとっては子供みたいなものなのかな…いや、違う…甘やかすだけなんて最早…ペットなのでは…。あれからお花畑からは少し足を踏み出せたと思うんです。余裕もちょっと出てきました。そろそろ妻への昇格をお願いしたい…ううん、お願いじゃ駄目だよね、自然とそう思ってもらえるようにならなきゃ……欲張り過ぎました、頑張ります…」
現状、雪江が頼られているのはチタニアの対応くらいだった。それも自分から申し出たものだ。挫けそうになるあまり駄々漏れた独り言がクッションに吸収されていく。
「何を言っているんだ。俺に子供やペットを抱く趣味はないぞ」
ワイアットが不本意且つ不可解げな声で妻認識を主張する。くぐもっていたのに聞き取っていたようだ。
「しょ、証明の仕方ぁ…」
性的嗜好を疑ったのではない。ボタンの掛け違い方が酷すぎる。
もっと根本的なことから話し合う必要がありそうだ。雪江は夫婦とは家庭の共同経営者だと思っているが、此方の夫婦事情を考えると、そもそもが対等な関係ではないのだろう。女性が庇護対象なのは揺るぎない。結果、何もかもを夫が握っていて、夫の立場が上と考えられていてもおかしくない状況だ。ただ、エルネスタやチタニアを思い出すとそうとも言い切れず、チタニアの元で育ったワイアットはまた違った感覚かもしれない。先ずはそこを聞き出すところからかと思考を巡らせていると、太腿を撫でられる感触がした。
「証明ならいくらでもできる」
彼は夜の営みがあれば夫婦だと思っていないだろうか。かつては恋人になる方法を聞かれたくらいだ。常識は後回しで良い。二人に最適な夫婦の形を探すのだ。その為には先ず。雪江は官能を引き出そうとするワイアットの手をぺちりと叩いてクッションから顔を起す。
「夫婦のあり方について話し合うのが先です!」
ベッドに連れ込まれないよう、毅然とした態度で臨むのだ。




