しのぶれど
参った。ほんとうに参った。
寝間として借りている部屋の中で、寝具の上に広げた旅行鞄を恨みがましく見下ろしつつ、私はため息をついた。
(争論だけは誰にも負けたことがなかったのに……)
黄泉の使者しかり、神桃楽の店主しかり、どのような局面であっても、私は相手を黙らせることができた。
それだけの会話術を持っていると自負していた。
尊敬していた父にも、「おまえと対等に渡り合うには、脳がもう一つ要りそうだ」とよく言われていた。
──それなのに。
私はまた一つ、ため息をついた。
(なぜ、結奈さんにはいつも負けてしまうのだろう)
今回のことは、決して折れるべきではなかったのに、私はあっさり舌戦に敗北した。
そんな自分を情けなく思うと同時に、結奈さんに勝てないことが不思議でしょうがない。
原因はなんだろう。首を傾げる私の脳内に、ニマニマと笑うタウフィークの姿が浮かんだ。
勝手に頭の中に侵入してきた義兄は、実に腹立たしい笑顔のまま言う。
『あらら。葉月、それはまさしく、惚れた弱みというやつだよ。知ってる?この言葉。まぁ、自分の恋心にも気づかないお子様には耳慣れない言葉かもなぁ』
久しぶりにカチンと来た。
私はブンブンと頭を振って、そのにやけ顔を追い払う。
(毎度毎度、タウは私を子供呼ばわりする。たった二年しか違わないというのに)
偽タウフィークに文句を言いながら、けれど正論だと思った。
実際に、私が結奈さんを好いているのだと気づいたきっかけは、私自身ではなく翔月さんだったのだ。
ふと、帰り際の旅館の庭園で、翔月さんと交わした会話を思い出した。
【 頂点に届きそうな東寄りの太陽を、若葉で茂った木々が全身で受け止めている。
石橋の下でスイスイと気持ちよさそうに泳ぐ鯉たちを眺めながら、私は翔月さんの背中を追っていた。
表では結奈さんたちに「早く来い、遅い」と言っていた翔月さんだが、ぼそりと「まだ来るなよ」と呟いていたのを、私は知っている。
聴覚を誇る霊狐の耳は、人に化けていてもなお健在なのだ。
そんな自分の耳に、柔らかく流れる池水の音が心地よく響く。
翔月さんの真剣な面持ちにつられて緊張していた私は、少し肩の力を抜くことができた。
人気のないところまで来ると、翔月さんは足を止めて振り返った。
そして、あっけらかんと「俺、神崎に振られたわ」と言った。
「もうね、ハッキリきっぱり断られちゃってさ。……安心した?」
「……えっ?」
どう返していいか分からずにいた私は、最後の一言に首を傾げる。
「どういう意味ですか?」
尋ねる私を一瞥して、翔月さんは軽い笑い声を立てた。
「そうなんだよなぁ。問題はここなんだよなぁ。ねえ、俺見て見ぬふりしてもいい?いいと思う?」
「ええと……?」
再び要領を得ない問い掛けが寄こされる。
それに戸惑っていると、翔月さんはスッと笑顔を引っ込めた。
そして「まぁ、あいつの為に一肌脱ぎますかね」と呟いてから、私をまっすぐ見据えた。
自然と背筋が伸び、解けていた緊張が戻ってくる。
「はっきり言うけどさ、葉月くん、神崎のこと好きでしょ。俺とあいつが付き合わなかったことに安心したって、そう顔に出てたよ」
ポンと投げられた言葉を、私は否定しなかった。
確かに今、私は結奈さんが翔月さんの告白を受けなかったと知ってホッとした。
湖の一件から胸の中をくすぶっていた、あのドロリとした嫌なものがなくなって、心が晴れたのを感じる。
そして代わりに心を満たしたのは、苦しいほどの恋しいという気持ち。
すぐにでも彼女をかき抱いて、腕の中に閉じ込めたい。誰にも触れさせることなく、自分だけのものにしてしまいたい。
そんな感情に支配されて、自分のことが恐ろしくなった。
(これではまるで獣だ。結奈さんは誰のものでもないのに)
冷静さを取り戻した私は、獣じみた何かを自分の心の奥に押し込んだ。
平静を装い、口を開く。
「今、気づきました。たしかに私は、結奈さんのことを好いています」
「はは、忍ぶれどってやつだ。気づかせてやった俺に感謝したまえ」
冗談交じりの言葉とともにふんぞり返る翔月さんに、私は深々と頭を下げて答えた。
「はい、このご恩は一生忘れません」
――忍ぶれど色に出でにけりわが戀は、物や思うと人の問うまで。
誰にも知られまいと恋しい思いを包み隠していたけれど、とうとう顔色にでてしまった。物思いをしているのですかと、人が尋ねるくらいに。
この歌とは違って、自力で恋心に気づけなかった私は実に情けない。
ため息をつくと、それを別の意味としてとらえたらしい翔月さんが、「まぁ、餞別だ」と言って一つ助言した。
「あいつ、ああ見えて頑固なところあるから、粘り強くいけよ。本当に嫌じゃなければ、たぶんお前のこと拒まないだろ」 】
そのときは何を言っているのだと思ったけれど、今ならわかる。
結奈さんはたしかに頑固だった。
私が何を言おうと、けして頷いてはくれず、傷ついた顔をしながらも懸命に自分の気持ちを話してくれた。
そして私は、そんな彼女の言葉に嬉しいと感じてしまった。
「あぁ、これが敗因か」
豁然と悟って、私は苦笑した。
厄介な病にかかってしまったなぁ、と思う。
どんなに知恵を絞ったところで、この不治の病に効く薬などない。
「まぁ、治りたいとも思わないけれど」
そう一つ呟いて、私は目の前の鞄に荷物を詰め始めた。
百人一首、百首すべて覚えてみたい( ᵕᴗᵕ )




