小さな希望
「思いのほか遠くに流されてしまいましたね」
苦笑混じりのその言葉に促されて、私は辺りを見回した。
てっきり浜辺の傍だとばかり思っていたが、どうやら葉月さんの言う通り、かなり陸地から離れてしまったらしい。
凪いだ海面からして、波の影響ではないのだろう。
そうなると、もっと別の怪異的な何かが原因ということになる。
例えば魔法、例えば術、例えば転送機。
あのオオカミもそういう類だった。
滅入って荒んだ心では、浮かんだ感情すべてをドロリとしたものに変えてしまう。
見渡すかぎり海と夜空が広がる光景は、平常時ならばきっと綺麗に見えただろう。
しかし今は、ゴールのない迷路に迷い込んだような、そんな言い知れぬ不安が込み上げてくるだけだった。
泣きそうに歪んだ顔を見られたくなくて、私は葉月さんの胸に顔をうずめた。
一瞬驚いたような反応をされたが、構わず顔を隠す。
そんな私の肩を抱く葉月さんが、腕の力を少しだけ強めた。
「大丈夫ですよ、結奈さん。海に飛び込む前に、翔月さんに助けを呼ぶよう頼んでおきましたから。ただ、発見まで少し時間がかかりそうですし、休めそうなところを見つけたので、そこに向かいましょう」
いつも以上に優しい口調でそう言われて、私は素直に頷いた。
それから少しの間、葉月さんは無言で泳ぎ続けた。
本当は私も自力で泳げたら良かったのだが、四肢は 鉛をつけたように重いし、声を出すのも億劫なくらい疲弊している。
私にできることと言えば、なるべく体を葉月さんによせて、邪魔にならないようにするくらいだ。
「結奈さん、ほら、見てください」
不意に、葉月さんが明るい声を出した。
何事かと顔を上げて、私も顔をほころばせる。
「島……」
咳き込みすぎて酷く掠れた声で呟くと、「そうですよ」と嬉しそうに返答された。
小さな島に上陸すると、一気に重力が全身を襲った。
冷たい岩の上にヘタリ込み、横になりたいと叫ぶ体を何とか支える。
ぼんやりと靄のかかった頭は、強い眠気によってグラグラと揺れていた。
正面に跪いた葉月さんが、おもむろに私の右腕をとる。
「ちょっと失礼します」
そう言って服の袖をたくし上げられた。
何やら真剣な面持ちの彼に、私もつられて視線を下げる。
すると、前腕部分に大きな噛み跡がくっきりと浮かんでいた。
感覚が鈍くなっていて気がつかなかったが、わりとひどい具合のようだ。
「何か手当のできる道具があったら良かったのですが……」
そこまで言いかけて、葉月さんは周囲に目を向けた。
時折目を細めたり耳を澄ましたりしているので、恐らく音や気配を探っているのだろう。
(キツネって夜行性だし、夜目もきくんだろうな)
そんなことを考えながら、葉月さんの横顔をじっとみつめる。
しばらくして、葉月さんが顔をこちらに向けた。
「そう遠くないところに洞窟があるようです。そこまでお運びしてもよろしいですか? 」
もはや歩けるかどうかを聞く気のない尋ね方に、私は苦笑しつつ首肯した。
石や枝で海岸に目印を作ったあと、葉月さんの背中に乗せられた。
グンと地面が遠ざかって、心做しか高層ビルで聞くような細い風の音が聞こえる。
(うわぁ、葉月さんの目線ってこんな感じなんだ。私と全然違うなぁ)
170センチ後半だと言っていたが、ここまで視界に差があるとは思わなかった。
「それにしても」と、あることに気づいて息を詰めた。
(……もう少し食べる量を抑えておけば良かった)
この旅行中に体重が増えたことは、旅館の浴場に置いてあった体重計で確認済みだ。
いいや、体重が増えたなんて可愛い言い方はよそう。つまりは太ったのだ。
お風呂上がりにフルーツ牛乳を飲もうと用意していた二百円を財布に戻すくらいには、太ったのだ。
息一つ乱していない葉月さんだが、もしかしたら「重たいなぁ、太ったなぁ」などと思っているかもしれない。
ひとたび想像すると、もうダメだった。
「あの、葉月さん。やっぱり私、自分で歩きたいです」
懇願するようにポツリと呟くと、せかせかと歩いていた足運びが僅かに遅くなった。
「あ、すみません。揺れましたか? 」
申し訳なさそうに言う葉月さんに、私は慌てて頭を振った。
「いえ、それは全然大丈夫なんですけど……そうではなくて……」
口にすることすら恥ずかしくて言い淀む。
そんな私に不思議そうな顔をしつつ、葉月さんは再び足を速めた。
「それでしたら、このまま洞窟を目指しますよ。ここは随分と足場が悪いですから、疲弊した状態では足を挫きかねません」
おそらく、葉月さんにとって今の私は常世の患者と同義なのだろう。
有無を言わせない物言いが、まさに聞き分けの悪い患者さんに応対する彼そのものだった。
そのことに気づいて、どういうわけか、普段は抑えているはずの私の我儘な部分がひょっこりと顔を出した。
「だって」と口をとがらせて、私は拗ねたように目をそらす。
パキッと枯れ枝の割れる音に紛れて、そっと呟いた。
「私、重いですよ? 前よりずっと」
前というのは、セドリックの屋敷から脱出する際に横抱きされたことだ。
あのときは数日まともにご飯を食べていなかったので気にならなかった。
(というか、そんなことを考えている余裕もなかったし)
とにかく、そのころと比べられていると思うと羞恥心がむくむくと湧き上がってくるのだ。
しかし、不貞腐れた私に、葉月さんはふっと笑い声をもらした。
「良いと思いますよ。ちゃんとそこに居るのだと感じられて、私は寧ろほっとします」
完璧な回答に胸をキュンとさせてから、ハッとして体を起こす。
「それってつまり遠回しに太ったって言っているじゃないですか! やっぱり降ります!! 自分で歩きます!!」
ポカポカと背中を殴ると、葉月さんが声を上げて笑った。
火照った頬を塩の混じった夜気が撫でる。
つい先ほどまで寒くて仕方がなかった体は、いつの間にか温まっていた。
お風呂上がりのフルーツ牛乳……美味しいですよねぇ。
あぁ、景色の綺麗な露天風呂に入りたい。
和が足りないのですよ、和が。( ˙^˙ )スン




