お宿の跡取り息子
翔月はこの頃、既に薬剤師として働くという夢を持っていた。
薬学に興味があり、化学のテストでは常に学年トップ。
周囲や本人自身は、そのまま薬剤師の道へ進むと信じて疑わなかった。
けれど、そんな翔月の夢を良しとしない者が居た。
老舗旅館の旦那と女将、つまり翔月の両親だ。
子供を多くは授からなかった二人は、唯一の実息を後継者にすると決めていた。
勿論、従業員に承継することもできる。
それでも二人は、大切な旅館を任せられるのは息子だけだと、そう思っていたのだ。
そしてその思いは、その息子自身によって打ち砕かれることとなる。
翔月は親元を離れて寮暮らしだったため、両親との会話は殆どなかった。
故に、翔月が薬学部を志望していると両親が知ったのは、季節がだいぶん深まってきた頃だった。
夏休みが間近に迫り、帰省する予定日を伝えているときのこと。
偶然思い出したかのように、母が「あ、」と声を上げた。
「そういえば、昨日担任の先生からお電話をいただいたけれど、やっぱり学校側は就職を認めてくれなかったのね。翔月の進路について色々言われたわ。あなたの立場では言いにくいでしょうし、私が代わりに旅館を継ぐって言っておいたわよ」
なんともなさそうにそう言われ、翔月は耳に当てていたスマホを握りしめた。
(違う。言いにくい相手は学校じゃない。母さんたちだよ。先生には既に、進学するって言ってあるんだ)
急に黙り込んだ息子に、母が「翔月? 」と呼びかけた。
何か言わなければ。
その一心だった。
「俺、薬学を学びたい」
ポツリと零したその声は、しっかり相手に届いてしまったようだ。
「何のためにあなたをそっちへやったと思っているの? 」
一瞬の沈黙ののち、いつもより数段低い母の声が鼓膜を揺らした。
「え? 突然なに? 」
そう発した自分の声が、戸惑いを帯びる。
言うはずのなかった言葉を口にしてしまったこと。
そして母からの問いかけ。
それらに動揺が隠せない。
「いいから言いなさい」
静かに命じられ、翔月は力無く答えた。
「……母さんの知人が経営している旅館で色々学ばせてもらうため」
他の旅館で、色々な景色を見てきて欲しい。
視野は広いほうが良い。
そんな理由で実家を追い出され、翔月は北海道を後にした。
進学校に通うこととなった翔月だが、わざわざバイトの許可を取り、毎日旅館に通いつめていた。
そんな日常が、翔月は苦痛だった。
母と連絡をとった翌日、鬱した心を抱えて登校した翔月は、手慰みに赤本をめくっていた。
あの後、母は大きな溜息とともに、帰ってきたら話し合いましょうと言って通話を切った。
(あー、帰りたくねぇな。楽しみにしていたはずなんだけど……)
「翔月、元気ないね。何かあったの? 」
赤本の中身がバラバラと音を立てて波打つ姿をぼんやりと眺めていた翔月は、ふと話しかけられて顔を上げた。
その声の持ち主は、ヘーゼルの瞳を瞬かせ、不思議そうに小首をかしげている。
その際にさらりと揺れた髪は、これまたヘーゼル色に艶めいてた。
「神崎か。おはよう」
翔月は結奈の顔を一瞥してから、素っ気なく言った。
それというより、素っ気なく振舞ったという表現の方が正しいかもしれない。
僅かに熱を帯びた顔を隠すように、翔月はそっと俯いた。
「うん、おはよう。それで? なんでそんなにシオシオになっているの? 」
そして、その様子に気づくことなく、結奈は尋ねる。
結奈は人の「哀」に敏感だ。
それは彼女の家族事情がそうさせているのか、はたまた元からなのか。
兎に角、こういうときの結奈は鋭いのだ。
ちょっとでも相談に乗ってもらうと、とことん付き合ってくれるし、一緒に悩んでもくれる。
(……相談、してみてもいいのかな? )
ちらりと結奈を伺ってから、翔月は「実は」と話し始めた。
「うーん、なるほどねぇ」
最後まで口を挟まずに聞いていた結奈は、難しい表情で天を仰いだ。
「つまり、翔月は薬剤師になりたい。でもお母さんたちは旅館を継いで欲しい。お母さんたちの気持ちをわかっているから、翔月は進路について中々言い出せない、と」
「おう」
話を綺麗にまとめられ、なんだか面倒くさい相談内容だな、と自覚する。
実に申し訳ない。
うんうんと唸っていた結奈は、やがて何かを思いついたように背筋を伸ばした。
「ね、翔月。薬剤師と旅館のお仕事、掛け持ちってできないのかな? 」
目から鱗が落ちた心地だった。
そして8月初旬。
実家に戻ってきた翔月を待ち構えていたのは、口を一文字に引き結んだ母親だった。
「それで、あなた何になりたいって? 」
嫌な質問の仕方だ。
答えなど等にわかりきっているだろうに。
(ここで本当のことを言ったら、母さんは怒るんだろうな。だってそうだ。旅館を継ぐことは、俺が生まれた頃から決まっていたことなんだから。でも……今言わないと、俺はきっと一生後悔する)
ひきかけていた足を一歩、前に出す。
俯いていた顔を上げて、泳ぎそうになる目を真っ直ぐ母に向けて。
翔月は背筋を伸ばし、はっきりと答えた。
「俺は、やっぱり薬学の道に行きたい。母さんたちの望んだ道じゃないことはわかっている。それでも俺は、闘病している人や、怪我を負った人の苦痛を少しでも取り除いてあげたい。そういう仕事につきたい。勿論、旅館の仕事もやる。初めは難しいかもしれないけど、でもちゃんとやるから! だからお願いします!! 薬剤師になることを、許可してください!! 」
言い終わると、痛いほどの沈黙が続いた。
その空白の時間が、自分の発言を徐々に惨めなものへと変貌させていく気がして辛い。
その間にも、母は目下に影を落とし、考え込むように目を伏せている。
そうして僅か数分後。
母はふぅっと息を吐くと、息子の顔を見上げた。
「昨日ね、父さんと二人で話し合ったの。翔月のこと、家族のこと、それから旅館のこと。……母さん、今までずっと、翔月に我慢ばかりさせていたのね。学校の行事に参加したことは一度もなかった。翔月の得意分野が化学ということだって、この前担任の先生から教えていただいて、初めて知った。長期休みは稼ぎ時だからって、旅行にだって行ったことはなかったわね」
母の声が、心なしか震えて聞こえる。
いいや、本当に震えているのは、翔月の心か。
今まで必死に蓋をしていた感情が、一気に溢れ出ていく。
気づけば視界は歪んでいて、熱い何かが頬を伝って零れ落ちた。
「だからね、翔月。私も父さんも、あなたが薬剤師になることを応援しようと思うの。あなたの覚悟はよく分かった。この旅館を継ぐのだって、もう無理にしなくて良い。今更遅いかもしれないけど、私達、ちゃんと翔月のことを見ているから」
そう言って下手くそに笑う母を、翔月は思い切り抱きしめた。
何度も何度も、ありがとうを繰り返して。
こうして半年後、翔月は見事薬学部への進学を果たした。
最近結奈ちゃん以外の視点多いなぁ。
ということで、今回は翔月視点でした。
何かお気づきのことと思いますが、まあそのことに関しては、後ほどね。(それを書きたいがために、今回の話を書きました( ˊᵕˋ ;))
次回、もふもふの楽園




