第一章 Ⅶ
一時、途切れていた彼の意識が戻ってきた時、最初に感じたのは窮屈さだった。まるであの拘束魔術が続いているかの様な身動きのとれなさ。ゆるゆると瞼を開くと、目の前に白い天井板があった。天井の一部が崩落したのだ。首を巡らせば、ベッドの上に横たわっているのが判った。その肉体を感じるが、動かない。手足に力を込めてみても、多少手首や足首を捻る事が可能な程度。彼には理解出来なかっただろうが、天井板が崩落した時点でその少年は死亡し、魂は肉体を離れた。そして転生を許された彼、元魔王ヴォイドだった者の魂が、その肉体に宿ったのだ。曲がりなりにも元魔王の魂は強力で、死に至るほどまで破損した肉体の修復を事もなげに完了、満を持して覚醒したのだ(実際に修復したのは損傷だけではなかったが、彼はまだ、その事を知らない)。
「何なのだ、これは?」
肉体にのし掛かる邪魔な天井板を押し退けようと両手を動かす、が、容易に持ち上げる事が出来ない。魔王だった頃ならば容易かったろうが、これも造物主とやらの施した制約のせいかと、少々苛立つ。そこで彼は、改めて自分について再確認してみる事にした。霊性外殻は、感じられる。造物主とやらの言った通り、この能力は彼の魂と不可分の様だった。新しい肉体の表面を、ごく薄く覆っている様が見て取れた。今は通常、つまり物理、魔力いずれの外力も弾く状態だった。試みに、これを上方へと広げ天井板を取り除こうとするが。彼のイメージに反し霊性外殻は殆ど広がらない。これも制約の様だった。
「ううぬ、小癪な」
仕方がないので、左肘で天井板を押し上げようとする。重いが、ゆっくりと力を入れてゆくうち、腕一本は充分通りそうな空間が胸の上に出来た。本来ならば、それ自体とうてい人では不可能な業だったが、それを彼が知る筈もなかった。その空間を通し、右腕を頭上まで持ってくる。
「さて、どうしたものか」
こう口にしたものの、実際にとれる手段はさして多くはない。腕力で排除出来ない以上、この天井板を『分解』で寸断し、脱出する。その考えが浮かんだとたん、嫌な記憶が同時に甦る。あの英雄達にしてやられた、『分解』を利用しての罠の記憶を。あれで大きく魔力を消耗し、とどめを刺されたのだ。まして制約の掛けられた現状で、どこまで使えるのか?この窮状を脱するのに不可欠とはいえ、ならばせめて限定的に展開出来ないか?例えば右手のみで、この邪魔者は切断出来るかも知れない。と、彼の右手が変化し始めた様な気がした。正確には右手を覆う霊性外殻が。彼の思考を受けて状態変化をしようとしている様子で、むず痒い感覚が走る。しかし状態は変化せず、やがて感覚は治まった。何かが必要だったのか?思考に反応したというなら、あるいはより明確な命令調で行なえば良いのか?試みに、彼は思い浮かべてみた。
『分解、右手』
とたん、あのむず痒さが戻って来た。と同時に、左目がぼうっ、と青みがかった視界になる。右目は変化がない。間もなくむず痒さは消えた。右手を目の前に持ってくれば、確かにそこだけ状態が変化しているのが判る。彼は魔王だった時、この様な使い方をした事がなかった。自分がいかに大雑把に能力を使用していたかが判った様な気がした。
「出来る、か?」
静かに、天井板に手刀を当てる。問題なく手刀は僅かな粉塵を落としつつ天井板へと食い込んでゆく。突き抜けると、今度はまた別の硬さの塊に接触する。それは上階の床の構造材だった。床が丸ごと落ちてきた様だった。そのまま問題なく切断してゆく(彼にとって、天井板と殆ど変化はなかった)。ある程度まで切断すると自重で構造材はベッドの上から落下し、圧迫感が軽減した。『分解』はまずまず使える様だ。
「うむ、良かろう」
一旦右手を引き、今度は天井板を切り刻んでゆく。視界が拓けてきた。
上体を起こし見回してみれば、そこは病室だった(もっとも、彼にとっては用途も判らぬ見知らぬ部屋に過ぎないが)。他に三つベッドが並んでいるが、それらに横たわる人影はない。白い壁に一つ、五十インチ程の極薄モニタが設置されているのに気付く。そこには様々な風景が映し出されていた。その右上隅には、『2087/04/24 (Th)』と表示されている。今日の日付だが、彼は興味もなかった。それの意味も判らず、たとえ判ったとして、そもそも日付を気にして生活した事はないのだ、いずれにせよ無意味だった。彼の視線は更に上がった。天井が、というより上階の床が落ちてきたのは窓際の、彼のベッドのみだった様だ。何という不運!しかし、彼にとってはむしろ幸運だったかも知れないが。と、それはともかく。
「ここは?」
天井に開いた穴から球状のガラス質の物体が覗いている。それは一発のみ撃墜に失敗した地対地ミサイルの頭部だった。どうやら起爆システムの故障により爆発しなかった様だ。もちろん、その様な事は彼の知るところではないが。
「何なのだ、あれは?」
戦闘の事など知る由もない彼は、下半身を拘束している瓦礫を切断した。
『通常、右手』
胸中で唱えると右手は『通常』状態に戻り、左目の視界も元に戻る。右手を暫し見詰めつつ、彼は考えた。この調子で、『反転』や『吸収』も使えるのか、と。右手がまたむず痒くなり始めるが、直ぐに治まる。
「さて、どうしたものか」
ベッドを静かに降りる。スリッパがあったが無視する。霊性外殻に包まれた彼の肉体には、本来履き物は無用の長物なのだ。もちろん足の裏などは『分解』を展開しては不都合なので、特に意識しない限り常に『通常』状態なのだが。改めて自分を見下ろしてみる。身長は百七十足らず。簡素な病院着に包まれた肉体は貧弱で、酷く頼りなげだった。もちろん彼の魂が宿った肉体ならば、少なくとも生身で彼を斃せる者など存在しないだろうが。たとえナイフや拳銃、重機関銃でも傷一つ付ける事は叶うまい。状況を判断する情報もない彼は、ひとまず部屋を出る事にした。扉へ向かい、その前ではた、と困ってしまう。右手で押してみたが開かない。ドアノブは上下に動く大きなトグルスイッチ状で下げれば開くが、どうやらロックされていた。しかしそれが判らない彼は左手も添え更に力を込めた。金属の悲鳴が上がりだし、ついには断裂音と共に扉が開いた。自分が扉を壊したという自覚もなく、廊下に踏み出す。そこには誰の姿もなく、静まり返っていた。ミサイルが爆発していれば火災警報が鳴り響いていただろうが爆発せず、僅かに残っていたロケットモータの燃料も、窓外で燃焼し尽くしたのは幸いだった。
静かに周囲を見回す。彼は生物の宿す魔力を見る事が出来た。これは無機物を透過するので、たとえ壁の背後に隠れようと見逃す事はない。カークの使用していたローブの様な魔道具でも用いない限りは。それでも他に感知する方法はあるが、今はそこまで気が回らなかった。まずは霊性外殻が不完全ながら健在な事で満足するしかない。静かな廊下を、彼は右へと当てもなく歩き始めた。実際には、あの病室には彼一人しかいないタイミングでの事態だった。他の病室からの退避は既に完了していた。ともかく、この時点でその階以上は、彼を除きもぬけの殻となっていた。彼は死亡したものとして、遺体はミサイルの処置後回収される予定だった。万が一、それまで入室する者の無いよう、扉もロックされていた。数十メートルも歩くと、左側に階段が見えてきた。防火壁が閉じられていたが、その向こうから階下の喧噪が聞こえてくる。そこでは未だ患者の退避が完了していない様だった。このまま階段を降り誰かに状況説明をさせるため、再び『分解』を展開しようと考えて、ふとある懸念点が急速に浮上してきた。自分が魔王だと、否、魔王だったと気付かれては不都合ではないか?この世界もかつての世界と基本的に同じだという。ならば、魔王と呼ぶに相応しい存在もあるのではないか?そして、それを看破しうる者も。そういった者と遭遇した場合、戦闘となれば甚だ頼りない現状でせっかく転生したとたんに斃される、などという無様な事になりかねない。ひとまずはこの世界の住人との接触は避けるべきではないか?しかし、ならばどうやってこの建物を出るか?そもそも、この建物を出る必要があるのか?しかし、ここに留まっても自分がどの様な世界に転生したか、判明するとも思われない。当面は、極力住人との接触を避けつつ、この世界の情報を収集するという、困難な作業が必要になるだろう。そんな事が可能かどうかはともかく、彼は建物を離れる事に決めた。背後の窓辺に移動した。窓は引上げ式で、コンピュータ制御により普段は換気の為などで自動的に開閉するが、今は制御が切られていた。自動かどうかは下方に設けられた取っ手のランプ点灯で判り、今は消えている。窓を眺めていた彼は、窓枠の注意書きの絵でおおよそ開け方を理解し、取っ手を右手で摘むと、ロックを外し持ち上げた。手動ではかなり重い筈だが、軽々と窓を押し上げる。外の喧噪がそよ風と共に入ってくる。頭を乗り出し見下ろせば、そこから右手、数十メートルも離れた正面玄関先に何台もの救急車が停車し、患者を囲み医師や看護師、ヘルパーロボット等がひしめいているのが彼の注意を惹いた。
「何なのだ、あれは?」
やがて搬送先の調整が付いたのか、一台の救急車がサイレンと共に走り出した。馬車の一種かと、彼は理解した。馬の姿はなかったが、魔術により術者の魔力で走行する車を人が開発したと、あちらで耳にした事があった。その時には、移動するには転移魔術なり何なりがあるものを、人共は全く下らない事に魔力を使用する、と嘲笑したものだったが。と、数台の高機動車にトラックが正門から入ってくるのが見えた。救急車の横に停車した車から、数人ずつの人影が降りてくる。野戦服姿の最初の一人を除き、みなグレーの全身を覆う防具を装着している。P.E.の一種で耐爆防護服だった。彼らは地対地ミサイルを処理しに来た連合軍の爆発物処理部隊だった。何かを医師と話し合いながら、野戦服姿の男性、部隊長が医師に倣って上を指さしている。地対地ミサイルがどの付近に突入したのか教えて貰っているのだろう。もちろんその様な事の判らない彼は、爆発物処理部隊が様々な道具を手に建物内に突入してきたのを見、自分に害意があるのではないか、元の世界の人共が騎士と呼ぶ者達同様、自分と戦いに来たのではないか、と考えた。耐爆防護服が金属鎧の様に見えたのだ。今のこの不完全な状態で、一人で対処出来るのか?不安の残る現状では、ひとまず逃走すべきだと、彼は判断した。逃走するにはどうすれば良いか?そこは四階で、階段は使用出来ない。ならば窓から飛び降りるしかないか?魔王の時だったならば、何ら問題ない高さだったろうが…。
「…出来るか?」
暫しの逡巡ののち、窓枠の上へと身軽く上る。一度、全身を見回し。
『吸収、全体』
胸中で命じると、足の裏も含む全身が『吸収』状態となり、右目の視界が緑色を帯びる。こうなればあらゆる物理、魔力による外力を飽和状態となるまで吸収でき、それは自身の魔力に変換される。問題は、飽和状態となる外力の総量だった。今の状態で、はたしてここから飛び降り着地した際の運動エネルギーを吸収しきれるのか?出来なければダメージとして返ってくるだろう。が、こればかりは、やってみなければ彼自身にさえ判らない。中腰となる。やると決めればさして躊躇もせず、弾みを付け中空に身を躍らせた。浮遊の感覚を味わう間もなく着地は成功、膝のバネも使わず駐車場に佇立した。着地のとたん、足元からピリピリとむず痒い電撃が這い上がってきた。これまで未経験の感覚だった。足を軽く動かしてみるが、特に問題はない様だった。
「ふむ、行くか」
『通常、全体』と、『吸収』状態を解除する。右目から緑色のフィルタが外された。救急車の方を一瞥し、駐車場を塀へと歩いてゆく。二メートルほど手前で立ち止まると、一.五メートルはある塀を、僅か身を沈ませただけのバネで跳び上がり、越えた。塀の向こうには、広々とした歩道が左右に伸びていた。その向こう、片側二車線はある道路には、彼にとっては大小様々な、あの奇妙な馬車が、ずらりと縦列駐車していた。焦っていたのか、かなり乱暴に斜めに駐車してあるものも見受けられた。周辺を見回し、彼はひとまず正門とは反対の左側へ歩き始めたのだった。