第三章 ⅩⅢ
朝食を済ませ、自室で返却された課題をチェックし(更に幾つかあったが、特に問題はなさそうだった)、C.T.一つを持って予定より少し早く八時五十分には寮の正門を出た。道路に出れば、右側に高架の練馬駅が見える。徒歩〇分の駅まで、ゆっくりと歩く。彼は私服姿だが、紗智が用意してくれた物だった。その購入代金、更にはC.T.にチャージされている幾許かのお金も含め、久音の給料から捻出されていた。
改札を通過しホームに上がると、六両編成の池袋行きリニアコミュータが停車していたので乗り込む。やがて電子音が鳴り扉が閉まると、滑る様に走り出した。池袋駅までは十分と掛からない。改札を出、駅を横断すると東武線の改札を通過する。二十分と掛からず朝霞駅に到着した。改札を通過し駅を出ると、一台の黒いセダンを背に右手のC.T.へ視線を落としつつ、一人の男性が待っている姿を見掛けた。つと、男性は視線を上げ。
「やぁ、早かったね」
翔太だった。まだ時刻は九時三十分前だった。出る前に連絡はしてあったが、今来たばかりとも思えない。
「早く来たのか?」
「んん?そうだね、でも、十分も経っていないね?」
C.T.をチラ見し、スッ、とジャケットのポケットに滑り込ませる。
「では、行こうか?」
自ら後部扉を開け、気取った仕草で乗車を促す。一也が滑り込むと扉を閉め、運転席に乗り込んだ。人が暮らす世界中のほぼ全域で完全自動運転システムが導入されている昨今ではあるが、やはり誰か運転席に着く事が求められていた。緊急時、オートルーティングシステムがオフとなる等の事態に備えて。まして戦時中ともなれば尚更なのだ。かつての様な運転免許制度ではないが、中学一年になって間もなく最低限の運転講習を受け、修了証を発行されるのが普通だった。そういった『普通』でない車輌の運転技術が必要な場合には、また教習所が存在する(朝霞基地内にも軍用車輌用の教習所が設置されている)。
交通安全のため出している、昔のガソリンエンジンの駆動音(好みで変えられるらしい)が車内に低く響いている。腕を組みバックミラー越しに一也を眺めながら、翔太は口を開いた。
「どうだい、学校生活は?」
まずは当たり障りのない話題を振る。一也が初日から色々と(生田との一件や寮での覗きなど)やらかした情報は、ナンシー達までは降りてこない。一也が口にしない限り、知る事はないだろうが。
「ふむ、まずまず好調だ」
別に隠そうとしている訳ではない。彼にとって初日の事々は済んだ話であり、改めて話題にする必要性を感じていなかっただけなのだ。
「そうかい。うん、それは良かった」
どこか上の空の様な口調だった。
「そちらこそどうなのだ?冷却系とやらは、きちんと強化しているのか?」
「ううん?それに限らず、色々と手は加えているけれどね。やっぱり、側にいてくれた方がやり易いかな」
「我には学校があるが?」
「そうだね…ところで、これから君に協力して貰うに当たって、お互いの為にちょっとした提案があるんだ」
「提案?何だ、それは?」
翔太は短く、笑い声を漏らした。
「はは、それは主任からね」
主任とはナンシーの事だった。それきり会話は途切れ、基地正門に到着するまで二人は口を開かなかった。
正門の検問所で、窓越しに翔太は衛兵に自身の身分証と入場許可証を提示した。受け取るなり機械に掛け、それらを確認した衛兵は、後部座席の一也を鋭く一瞥すると更にストラップ付きの入場許可証を添えて寄越した。振り返りその身分証を一也に差し出す。ポールが上がり、車輪止めが引っ込んで車は走り出した。
「これが君の入場許可証だよ。来る時にここで受け取って、帰る時に返却するからね。基地内では、ブラックオーガを装着する時以外は常に首から下げておいて」
受け取った一也は、言われた通りストラップを首に掛ける。入場許可証は臍近くまで垂れ下がった。
「ストラップにクリップが付いてるよね…そうそれ。それを胸のポケットに…うん、そうして挟んでおけば見易いね」
一也の入場許可証が左胸に居場所を与えられる。それを見下ろしつつ。
「ナンシー達は付けていない様だったが?」
一也が指摘すると、翔太は苦笑した。
「まぁね。作業中に手がぶつかったり鬱陶しいから。詰所を出る時には付けるけれど」
話している間にも、車は駐車場に入り所定の位置に停車した。扉が開き、二人は車外に出た。少しバンカーから離れている様だった。
「さぁ、こっちだよ」
翔太の先導で、二人は駐車場を後にした。
見慣れた作業室に入ると、笑顔でナンシーが出迎えた。垂らされた彼の右手を両手で包み、大きく振る。
「いやぁ、よく来てくれた!待ち焦がれていたよ!」
「ここを出て一週間と少々だが?」
ゴールデンウィーク終了の翌日から、彼は用意されたホテルに移っていたのだ。そこに案内したのも翔太だった。
「充分に長いさ!こちらは日々動いている。早く君に試して貰いたくてな!」
「主任」
興奮気味のナンシーに、作業机に着いたまま、少々呆れ気味の咲が冷めた声で。
「ああ、いや、済まなかったな。試験に入る前に、一つ君にやって貰いたい事があるのだ」
一也を離し、作業机の上からノートパッドを取り上げる。それを彼に示した。画面には、堅苦しい文章が何行にも亘って表示されている。契約書だった。表題には『試作機の試験協力に関する雇用契約』とある。
「君は今後とも我々に協力してくれる、と言ってくれたが、ここに居た間はともかく、これからは学生という身分で、という事になる。君が学校とこちらを両立してゆく為にも、ここできちんとした雇用契約を結んでおくべき、と法務部署からも言われてね」
ナンシーの言葉を聞きながら、一也はその内容を読んだ。条項には、例えば次の様なものが並んでいた。
※契約書に付き物の甲(ナンシー側)、乙(一也側)は置き換えてある。
・契約期間は一年間とする。契約満了三十日前にナンシー側から通知し、両者の合意により一年間の契約更新を可能とする。
・学業優先の為、協力は土曜、日曜、祝日とする。ただし学校の行事等により異動する場合はこれに従う。
・自己都合により一也側は協力を断わる事が出来る。ただし一年間で最低五十回、百時間の協力を行うものとする。これに満たない場合、報酬の減額、契約破棄などあり得る。ただしナンシー側の事情による場合はこの限りでない。
・報酬額は時給で換算し、別途定める。
・試験中の事故等により一也側が心身に負傷した場合には、ナンシー側の契約している保険会社より補償がなされる。ただし一也側による、ナンシー側の指示を逸脱した行為が原因の場合にはこの限りでない。
・両者間に信頼を損なう様な行為があった場合、契約の存続に関し代理人を含めた話し合いを行ない、意見の一致を見られなかった場合に提訴により解決を試みる。
などなど。その他守秘義務に関するものなど、幾つも並んでいた。
「どうかな?一応、君のお姉さんにも確認して貰ったが」
一通り読み終え、一也は顔を上げた。
「判らない所があるのだが」
「何だね?何でも言って欲しい」
「ふむ。報酬とあるが、これは金か?」
「もちろん。円建て現金でも、電子マネーでも構わないが」
「?我には特に必要はないが。これまで通りで構わない」
ナンシーの言葉の意味がよく判らないまま、一也が正直な思いを口にすると、ナンシーは首を振った。
「そうはいかない。表題にある通り、これは雇用契約なのだからな。君の協力に対し、こちらは正当な報酬を支払わなければならない。また、報酬に対し君は契約に従い我々に協力する義務を負う。それを確約するのがそれなのだ」
「もちろん協力はする。だが、我が不要と言っても報酬は支払われるのか?」
「今はそうかも知れないが、人は生きていれば必ず金を必要とするものだ。金は物やサービスの価値や富の蓄積度合いを量るスケール的な意味も持つが、人間社会を渡るパスポートでもある。これがなければ、身動きがとれないからな」
ここで一也は、金というものの人間における重要さを認識した。自分がこれからこの世界で重要なものを探すのに、否が応でも必要とするのだろうと。実際には、直接目に触れていない所で当然、それの恩恵に与っている訳だが。
「判った。合意しよう」
「そうか、良かった。では、ここに署名を。それとここに親指の指紋も貰えないか?」
指で軽く指し示すと、ナンシーは右手でノートパッドからタッチペンを引き出し一也に渡した。受け取ったタッチペンで、一也は言われた通りにした。署名しタッチペンをノートパッドに戻すと、署名欄の左横の正方形に親指を押し付ける。指紋が表示された。
「貸してくれ」
ナンシーが右手を差し出すと、一也はノートパッドを渡した。ナンシーが画面を操作しながら言った。
「金額について決めなければならない。いかほどをご所望かな?もちろん上限はあるが」
「さぁな。そう言われても、適切な金額など判らない」
「そうか…ふむ、この国の最低賃金は、時給で四千三百円ほどか。特殊技能でもあるし、その分を加味して九千円、ではどうかな?」
「別に構わない」
「そうか?まぁ、一年更新だからな。来年更新するならばその時に決め直しても良い」
操作を終えたノートパッドを一也に差し出す。先程とは別のフォーマットで、表題に『契約に係る報酬金額確認書』とあり、ナンシーの言った金額が表示されている。
「先程と同様、署名と指紋も頼む」
一也が署名と押印をする様を静かに見守り、ノートパッドを受け取ったナンシーは、満足げに頷いた。
「C.T.は持っているね?出して欲しい。契約書の控えを渡そう」
上着のポケットからC.T.を取り出す。
「ローカル通信モードにしてくれ…ああ、いや、このアイコンで…そう、それで良い。行くぞ」
C.T.に表示されていたゲージが、〇パーセントから見る間に百パーセントになってゆく。それが消えると、初期画面にアイコンが追加された。
「そのアイコンは、後で隠しておくと良い。セキュリティ解除で見える様に」
「そうか?」
相変わらず一也には理解出来なかったが、ひとまずC.T.をしまう。ナンシーもノートパッドを作業机に置いた。
「さて、これで契約は成立だ。これからはこれまで以上に頑張って貰おうか!」
力強く一也の左肩を叩くナンシーに、なぜか彼は不安めいた感情を覚えたのだった。




