第三章 Ⅹ
葛西あやね。三十代半ばに差し掛かる、国立東京職業訓練学校学生寮の寮母をしている。この数日間は何かと慌ただしかった。何しろ開校以来初の男子学生が入寮するというのだ。当校は共学なので、当然寮にも男子の居住区画はある。男子専用の寮を建てる程の学生数は当初から見込まれなかったため片隅を、壁を設け一応公序良俗を保てる様にしてある。廊下をはじめ敷地内の至る所に設置された防犯カメラが、異性の部屋の出入り等をAIで判別し、不埒な行為があれば寮母に連絡が来る。もちろん、これまでその様な事例はなかった訳だが。まず彼女がしなければならなかったのは、男子部屋の片付けと清掃だった。何しろ二十年以上、実質的な物置状態だったのだ。比較的隙間のある部屋を割り当てたとはいえ、ほぼ一人で清掃(床は機械のみでやるが)、物の移動を行なったため、心身共に疲労した。当然ながら移動先の整頓も行なわねばならなかったのだから。これならいっそ、生徒用のP.E.を半日でも貸して貰おうか、と思った程に。そう、彼女は元イクイッパだった。更に言えば、当校の卒業生でもあった。つまり一也達の先輩に当たる。危なげなく、とはとても言えないがともかく卒業出来た彼女は、念願だった警視庁に採用され、一年余り警察官としての訓練を受けたのち機動警察隊に配属された。五年近く、タフでハードな生活を送ったが、とある事件に遭遇し大怪我を負う。L.E.E.を装着していなかったならば即死だったろう事態から生還を果たしたものの、脊椎を損傷し現場復帰は絶望的と思われた。それでも彼女は、そんな事はないと再生手術に臨み、半年余りの、血の滲む様なリハビリに耐え、生活に支障のない歩行が出来る様になるまで回復した。しかし、そんな彼女を待っていたのは、『L.E.E.適性を充足せず』という最後通告だった。事件後低下していた彼女のB.E.適合値は、結局リハビリを経ても戻りきる事はなかったのだ。もちろん、警察内には彼女一人くらいの受け皿は存在したが、結局彼女は辞職という道を選んだ。生活に支障はないとはいえ左右で歩幅が揃わず、少々バタつく歩き方になってしまった(これもまたL.E.E.適性未充足の原因だった)。これではハードな警察勤めは難しい、という判断もあった。辞職後、のんびりした生活を送りながらもリハビリを続ける日々が四ヶ月近く続いたが、次に何をしようかと模索していた彼女に声を掛けた者があった。校長の諒平だった。寮母が退職するので後任にどうか、と、彼女にとっては願ってもない申し出だった。母校に関わる場所で第二の人生をスタート出来るなら、と、二つ返事で引き受けた。以後八年近く、彼女はこの寮で、多くの寮生達と共に時間を過ごしてきた。戦争が始まってからは、時として耳を塞ぎたくなる様な悲しい噂にも接したが、それでも自分に出来るのは笑顔で寮生達を見守る事だけと、彼女は鏡の中の自分に言い聞かせる事もあった。
一階の自室で夕食を摂り、あやねは食後のハーブティーを嗜んでいた。特に拘りがある訳ではないが、ミントティーがお気に入りだった。地下の食堂は学校同様全自動になっている。夕食の時刻前に食堂からパックを持ち出し、自室のレンジで加熱調理する。基本的に寮母は食堂で生徒と顔を合わせない。食堂にも何台もの小型防犯カメラが設置されており、彼女は食事風景を、それを通し見守っている。それは、彼女の目の前では現れ難い生徒達の問題を発見する為でもあった。元警察官だった彼女は、そういった訓練も受けていた。もっとも、彼女自身がそれ程深刻な場面を目撃した事はないが。今は二年生が食事を始めたばかりだった。夕食の時間は午後六時~八時。基本的に四年生から三十分ずつ時間を割り当てられている。割り当てられた時間帯に食事を摂れなければ、下級生と一緒に摂る事になる。食事が済めば入浴の時間。食後休憩を挟み、午後七時から。やはり四年生から更衣の時間を含め三十分。そろそろ四年生が降りてくる筈だった。地下一階にある大浴場は一つのみ。男女共用で、男子に関してはもちろん女子と重ならないよう、という程度の決まりしかない。あやねは、一也には不便を掛けると思いながら、『寮生活のしおり』に午後九時以降、と記入しておいたのだが。
学習室の防犯カメラでは、約束通り澄玲達は午後七時十分前には部屋を出た。そのまま玄関まで行く様が、カメラ映像でトレース出来た。一方の一也はといえば、学習室に残りノートパッドを弄っていた。頭の陰で良くは判らないが、何かを調べているらしかった。食堂の前では、食事を終えた三年生を、廊下で列を作り交代を待っていた二年生が会釈で見送っていた。一也を除き、いつもの見慣れた光景だった。やがて、入浴時間を告げるチャイムが鳴った。そこから、少々不穏な空気が流れ始める。何事か、という風に一也が顔を上げた。暫く周囲を窺っていたが、スクッ、と立ちノートパッドを手に廊下へ足早に出た。その頃、四年生が続々と地下の大浴場へと階段を降りて来ており学習室前の廊下の、少し離れた曲がり角からその様子が見えた様だ。何を思ったか、一也は足早に階段へと向かって行った(当然ながら、廊下は走ってはいけないのだ)。
「え、ちょっと、何?」
ティーカップを置いたあやねを後目に、地下へと階段を下りてゆく…。
「ちょっと!待って、待って!」
椅子を後方へ弾き飛ばし立ち上がると、あやねは部屋を飛び出した。
地下に降り、早足のまま数メートル先を行く四年生最後尾の背中を一也は追った。角を曲がり、その姿が数メートル先の扉に消えるのを確認する。数秒遅れでその扉を開け、彼は中に入った。
「!?」
眼前に広がる光景といえば二十人以上もの、ロッカーに向かい脱衣している半裸、全裸の四年生達の姿だった。間違いなく、そこは脱衣所だった。何気なく視線を向けてきた女子生徒達の表情が、瞬く間に強張る。それはたちまち周辺に伝播した。誰かが悲鳴を上げようと、息を吸い込んだ時。
「ちょっと何してるの!?」
声と共に、不意に一也は背後から羽交い締めにされた。振り向けば、あやねの凄絶な形相があった。
「どうかしましたか?」
ずるずると引きずられながら、一也は訊ねた。扉がバタン、と閉じられる。本気になれば振り解く事なぞ造作もなかったが、自分が何かしでかしたかと、なすがままになる。
「何言ってるの!?自分が何をしたか判らないの、それともとぼけているつもり!?」
階段の近くまで引きずり、ようやく一也を離す。右手で左肩を掴み、強引に振り向かせた。
「貴方、覗きをしたのよ!全く、初日から何を考えてるの!?」
殆ど額が付くかと思われるまでに顔を近付け詰め寄る。しかし一也は全く動じない。眉根一つ動かさず。
「覗き?避難施設に入る事を、そう呼ぶのですか?」
「…え?」
余りに脈絡のない返答に、あやねの頭上に『?』が大きく浮かぶ。この少年は、一体何を言っているのか?確かに、地下に避難施設はある。しかし、今は警報も発令されておらず関係ない。
「彼女達は、避難施設に入る為に更衣していたのではないのですか?」
「そんな必要ないわよ。滅菌処理する訳じゃあるまいし」
「そうなのですか?」
「あそこは大浴場の脱衣所。避難施設はこの下。貴方、一体どんな勘違いをしていたの?」
避難施設が地下二階にある事は、『寮生活のしおり』にも書いてあった筈だった。
「なるほど。では、少々説明が必要ですか」
「なら、私の部屋で聞くわ。付いてきて」
一也の手を取り、ずんずんとあやねは階段を上がっていった。
澄玲達が学習室を後にし、一人残った一也はそういえば、と、ノートパッドで『寮生活のしおり』を見始めた。真面目に寮の概要から読んでいると、入浴時間を告げるチャイムが鳴り始めた。寮生活の時間割に手を付けていれば気付けただろうが、彼は何が起きたかと暫く様子を窺った。しかし何の動きもない様子で、仕方なく彼は学習室を出、そして地下へと降りてゆく四年生達の姿を見掛けた。地下に避難施設がある、と書いてあったのを思い出した彼は、避難すべき事態が発生した合図だったかと、女子生徒を追いかけ、脱衣所の扉を開けたのだった。
話を聞き終えたあやねは、内心頭を抱えた。あんなのどかなチャイムが警報の筈なかろうが!、と突っ込みたかった。しかし、その点を除けば彼女の目にしたカメラ映像と彼の説明に矛盾するところは見当たらない。彼が元来病弱で、幼い頃から入退院を繰り返していた、という話は聞いていたので、少々常識外れなところはあるのかも知れない。まして今日は、人生初だろう寮生活の初日なのだ、不安や緊張で精神的に少々常軌を逸していたとしても、咎め立ては出来ないか。
「はぁっ、話は判ったわ。私も最初に、この寮の時間割について簡単にでも説明しておけば良かったわね」
「そうですか?」
カメラモニタの並ぶ机の横に置かれた椅子に腰掛けた一也は、小首を傾げた。どうやら自分の行為が軽率だったらしい、という事は理解出来た。これと同様の状況は、基地で生活している際にもあった。インナースーツに着替える時、更衣室に隊員達がいた場合だ。はじめの頃こそ彼女達は驚いた顔をして全裸の背中を向ける様にしていたが、余りに平然としている彼に慣れたか、やがて彼が入ってきても気にしなくなっていった。むしろ彼の方を盗み見る様になる者さえいたのだ。だが、どうやらここはそうではないらしかった。
「とにかく。悪いけれど、この事は記録させて貰うわ。たとえ故意でなかったとしてもね」
「そうですか」
何が悪いのか、判然としないながらも頷く一也。
「それと、もうすぐ四年生の入浴時間が終わるから、貴方にはきちんと謝罪して貰う。良いわね?」
「構いません」
一也は再び頷いた。




