第三章 Ⅸ
一年二組の前では、澄玲と麻寿美が一也を待っていた。
「ちょっと遅かった?」
澄玲が訊ねる。実技場から真っ直ぐ戻って来たにしては、どう考えても二十分近くは遅かった。
「保健室に。相談する事があった」
紗智に、一日の事を報告するよう指示されていた。
「あ、そうなんだ。さ、寮へ案内するから早く帰り支度してきて」
澄玲は上機嫌だった。にこやかに声を掛けてくる。何か良い事があったのか、と一也は怪訝に思いつつ教室に入った。室内は既に人影はなかった。帰り支度といっても、教科書も筆記具もノートパッド一台あれば事足りる。授業で他に必要な物は、体操着くらいのものだ。寮に入れば、回収場所に出しておくだけで翌日には洗濯済みで部屋に配達されるらしい。ノートパッド一台入った薄い鞄と、体操着のバッグを手に、足早に教室を出る。
「待たせたか?」
そう問われて、澄玲達は首を振った。
「じゃ、行こう?」
澄玲を先頭に、三人は廊下を歩き始めた。
校庭を見下ろす三階建ての教室棟は、渡り廊下で繋がれた実習棟と並んで学校敷地の西側に配置されている。実習棟の裏は駐輪場と、寮とを結ぶちょっとした遊歩道があった。幅八メートル余りの道路一本を跨ぐだけの遊歩道だが、必要以上に外部との接触をさせない目的があるらしい。その階段を三人は上がってゆく。高い塀を越え、橋梁部を澄玲を先頭、麻寿美を殿に一也達は渡り出した。半ば程まで来たところで、澄玲は立ち止まった。
「どう、あれが寮よ!?」
目の前の建物を指さす。こちらも高い塀に囲まれた敷地の奥まったところに四階建ての、十九世紀のアパルトマンを模した様な佇まい。もちろん中身は現代のテクノロジーで構築されているが。もちろん一也にそういった点は全く判らないし興味もない。
「地上四階、地下二階。学習室は一階にあるわ。城田君の部屋は一階ね。二人部屋だけど、一人で独占出来るんじゃないかな?詳しくは寮母さんに訊いて」
言いつつ再び歩き出す。遊歩道を降りると、寮の玄関は直ぐ横にあった。
「ちょっと待ってて」
言いつつC.T.を取り出す澄玲。学校アプリを起動するとスワイプし、現れたアイコン群から一つを選ぶと、表示された人名表の中から『葛西 あやね(かさい あやね)』をタップする。高度な暗号化の施された学校LANを介し通信を行なう為のスレッドで、アクセスポイントから位置情報のみを送る事も出来る。一分程で両開きの玄関扉、その片方が開かれた。
「あれ、早かったですね」
異様に早いな、と思いながら、扉に向かって声を掛けるが。姿を現したのは、私服姿の少女だった。百六十足らずの身長に比してぽっちゃり目の体型。可愛らしい顔立ちに、しかし表情は暗めだった。澄玲達へ、睨み付ける様な目を向けてくる。
「あ、スーさん…」
狼狽する様な澄玲に向けられている目が、余計にきつくなる。
「言ったでしょ、そう呼ぶのやめてって」
感情を失った声で、少女は言った。
「あ、周崎さんは、出かけるの?」
前に出た麻寿美が微笑と共に問うが。
「アルバイト、許可は取ってある」
余りにけんもほろろな答え。視線も合わせようとしない。
「そう。そうだった」
さすがの麻寿美も苦笑するしかない。
「じゃあね。楽しくお喋りとか、そんな閑ないから」
言い捨て、少女は足早に正門へと立ち去った。麻寿美と澄玲は視線を交わし、辛そうな表情をした。
「知り合いか?」
二人の様子を忖度する気配など微塵もなく、一也が問い掛ける。彼にしてもそれ程興味がある訳でもなく、一応の情報収集程度の意味合いだった。
「うん、小学校時代の幼馴染み。周崎 亜矢って言って、小学校の時に転校していって、偶然ここで再会したんだけれど、ね」
澄玲は語尾を濁した。入学後間もなく、偶然の再会を喜び合おうとした時の、素っ気ないどころか敵意すら滲ませる様な態度が思い返される。自分が一体何をしたのか、彼女には心当たりがなかった。
「私にとっても幼馴染み。三人とも、同じ小学校に通っていたから」
麻寿美の追加説明。一也は澄玲と麻寿美の関係性について、初めて知った。
「そうか」
一つ頷いたところへ、再び玄関扉が開かれる。姿を現したのは三十代の女性だった。長身にメリハリあるボディラインを備え、モデルと言っても通用するだろう。愛嬌のある顔立ちをしている。寮母のあやねだった。
「ごめんね、植阪さんと、朝野さん…あ、そっちが編入生かな?」
順番に顔を巡っていたあやねの視線が、一也の上で留まる。自己紹介のタイミングの様だと、一也は察知した。
「城田一也です。本日からお世話になります」
基地内でアドバイスされてきた挨拶をしてみせた。これも勉強の一環か、と納得しながら。
「すいません、寮母さん。もうすぐ中間なので、城田君も含め三人で学習室を使いたいんですが」
「あらそう?ちょっと待ってね…ええ、大丈夫、空いているわ。今から予約を入れておくわ。七時十分前には退室してね」
C.T.を取り出し操作しつつあやね。
「はい。それで、あの、周崎さんの事なんですけれど」
C.T.をパンツのポケットに押し込もうとしていたあやねの手が止まる。
「周崎さん…んん、悪い子だとは思わないけれどね。ちょっと、問題になっているわ」
「どんな!?」
澄玲が勢い込んで訊ねる。麻寿美も心配そうだった。
「その、届出の帰宅時間より遅くなる事が多くて。届出には二十二時になっていても、酷い時には一時間近く遅くなる事もね。学校側でも、許可を取り消そうか、っていう話が出ているの」
「そんな…」
「親からの支援は一切受けない、っていう条件で入学したらしいし、例えば休日のみ、みたいな条件付きで就業許可を出し直す事になるかしらね」
「でも、何でここでそんなに働かなくちゃならないんでしょうか?」
「少し話したけれど。もしここを退学になった時支払う経費は、全部彼女持ちらしいわ。それと、卒業後の事も考えて、ですって」
その内容から、よほど家が厳しいのか、あるいは確執があるらしいと推測出来た。
「そうなんですか…」
「何だったら、彼女も勉強会に誘ってみたら?余り得意じゃないみたいだし」
冗談めいた口調で、明るくあやねは提案した。互いに難しいとは判っていたが、敢えて澄玲もそれに乗る。
「名案ですね。お休みはいつですか?」
「えーと、火、木だったかしら?本人に訊いてみて」
サーバにアクセスすれば今にでも判る様な事だが、対話を促す様に水を向けた。
「判りました。それじゃあ」
「そうね。私は城田君を案内するから、二人は学習室でね」
「はい」
「判りました」
二人は一也を残し、あやねに会釈をすると玄関の中へ消えて行った。二人を見送り一也に向き直ると、あやねは爪先から頭の天辺まで興味深げに眺めた。
「何か?」
その問いに、彼女は少々慌てた。
「あっ、気を悪くしたならご免なさい」
「そんな事はありませんが」
「そう?でもね。まさか、この寮に男子生徒を迎える日が来るとは、考えた事もなかったから」
「問題なのですか?」
「ううん、ううん、違うの!もちろん男子の区画もあるから、ちゃんと寮のルールに従って生活してくれれば、問題はないの!」
「そうですか」
「そう!それじゃあ、寮内を案内するから付いてきて!」
目一杯の笑顔で、あやねは一也を寮へと誘った。
玄関を入って直ぐ、大きな青いマットが敷かれている。毛足も長く、この上を一メートル少々歩くだけで靴の汚れや水分、微生物に到るまで九十九パーセント除去してしまう。学校でも、体育館で専用シューズに履き替える以外は靴のままだが、これがあればこそだった。マット自体の清掃は、ロボット掃除機が寮内清掃の度に行う。二人がマットを越えると間もなく、そのロボット掃除機がやって来た。幼児の乗る玩具の車の様なサイズ、形状。車体の下から左右へと回転式ブラシを伸ばし、マット同様絡め取った埃を集塵袋に吸い込む。ゴミ類はボンネット部のカメラが捉え、サーバシステムのAIがゴミか落とし物か判別し収納パックに収める(落とし物は、発見場所や時刻と共にサーバに登録されるので、アクセスすれば直ぐに発見出来る)。マットの上では、車体下の吸入口がマットを加熱しつつ埃や水分を回収する(集塵袋で凝縮されブロック状になる為、取り出す時も埃が立たない)。そんな様を、立ち止まって振り返り一也が眺めていると。
「どうしたの城田君、早く行くわよ」
あやねの声に前を向き直り、一也は再び歩き出した。そうして、彼はある事に気付いたのだった。あやねの歩くリズムが少々おかしい事に。歩幅が違うのか、バタバタして見えるのだ。
男子の居住区画には、二人部屋が六室あった。つまり最大で十二人の入居が可能、という事だ。女子の五分の一余り。共学ならば、本来同数が用意されて然るべきだったろうが。あるいは別の建物を建てるか。
「まぁ、君は想定外だからね。ここもこの前まで物置状態だったから」
頑丈そうな壁に設けられた、これもまた頑丈そうな扉を潜り、左右に並ぶ部屋の一番手前、左側の扉をあやねは開けた。広さは八畳ほど。左の壁際に二段ベッドと、奥の窓際に二つ並んだ学習机。右の壁際にはクローゼットという配置で、非常にシンプルだった。
「机とベッドはどちらでも好きな方を使って。トイレは共同で外にあるから。一番奥の右側ね。午前六時には時報が鳴るわ。廊下と勝手口の扉は午後十時にはロックされるから、何かあればC.T.でも連絡を頂戴」
廊下の突き当たりには扉があった。あれが勝手口だろうと一也は考えた。
「ここを一人で使って良いのですね?」
「二人目の男子が入ってこなければね。他に食事の時間とか、生活に必要な事はノートパッドで検索して。『寮生活のしおり』っていうアプリがある筈だから」
「そうですか」
「とりあえず、こんなところね。鞄だけ、置いていったら?」
あやねに促され、一也は机に近付いていった。何とはなしに左の机の上に鞄を置き、ノートパッドを取り出す。
「ついでだから、学習室まで案内するわ。二人を待たせているし」
一也が扉まで来ると、あやねはさっさと歩き出した。一也も静かにその後に続いた。
学習室は各階にあり、二十畳程の広さに四人掛けテーブルが六つ設置されている。ウォーターサーバやドリンクコーナーも併設され談話室の様な役割も持ち、文化祭の様な学校行事の際には作業スペースとして開放される事もある。あやね達が入って行った時には、奥のテーブルに着いた澄玲達の姿があるばかりだった。二人並んで何事か話している。
「待たせたわね。さっきも言ったけれど、七時前には退室する事。良いわね?飲んだ後等はきちんと片付けておいて」
そう言い置き、あやねは出て行った。一也は麻寿美の向かいに座った。
「それじゃ、始めましょうか。あと三時間もないわ。まず何から手を付ける?」
言いつつ麻寿美が自分のノートパッドに触れる。初期画面の時刻表示が消え、アイコン群が出現した。教科書や問題集、板書データ等がずらり、並んでいる。またその中に、あやねの言っていた『寮生活のしおり』も含まれていた。
「何でも良いが」
「そう?じゃあ、数学からでも良い?」
麻寿美の言葉に、横の澄玲が露骨に嫌そうな表情をした。
「あー、数学って聞いただけで眠たくなっちゃうんだよねー。あんなの人生の役に立つの?」
「もう、植阪さんたら。子供みたい」
「だって子供ですもーん」
拗ねた様に澄玲。麻寿美も苦笑するよりない。
「ふむ。我も疑問だ。あれは一体、どういう役に立つのだ?」
一也も同様な事を言い出し、麻寿美は内心溜息をついた。しかし、直ぐに澄玲とは違う事に気付く。彼女の様な出来ない事への愚痴ではなく、真面目にその意義を知ろうとしている様な表情なのだ。彼も試験勉強で問題を解く訓練をしながら、はたしてこれがこの世界を知るうえでどの様な役割を果たすのか理解しかねていたのだった。
「…そうねぇ…生きてゆくうえで役に立つかどうか、それは人によると思う。例えば電子機器の設計や開発をするとすれば、数学や物理の知識は必要だろうし。けれど、私が考えるには、ここで学ぶ事の意義って、きっと私達が現代を生きる文明人になる為なんだって。歴史は、今私達がここに居る理由を教えてくれるし、語学は、今ここに居る人々との対話の手段を教えてくれる。数学や物理等は、私達の文明が成り立つ理由を教えてくれる。そうね、例えば…数学のフーリエ変換とか、デジタル文明を支える重要な要素ね」
「フーリエ変換?何だ、それは?」
「ええと、三角関数の一部なんだけれど…まぁ、とりあえずはそういうものがある、とだけ覚えておいて。まずは三角関数の基礎が判らないと」
「そうか。ではまず基礎からお願いしよう」
「あ、ごめん。三角関数を置いておいて。試験範囲は」
二人のそんな遣り取りを横目で見ていると、澄玲は一人取り残された気分になった。麻寿美が昔から勉強が出来たのを、彼女はよく知っていた。それは優等生になる為でなく、知に対する探求心が強かったからなのだろう。それは特に理系に向けられ、中学三年に進級する頃には、高校三年間のカリキュラムは履修済みのレベルだった。もっともそれは電子図書館で入手可能な書籍データをかき集めた結果であり、修了証が与えられるものではなかったが(だからその範疇を超える知識も多分に含まれる事となった)。だからこそ彼女はこの学校に入学する必要があったのだ。もちろん高校課程修了証が与えられるならばどこでも良さそうなものだが、澄玲のチャレンジする学校の話を聞き、彼女の好奇心、闘志に火が点いたのだった。もちろん学力だけで入学を許される学校でない事は判っていたが、幸運にも彼女は合格した。否、彼女にとっては不運な事に、かも知れない。ともかく、クラスは違えど二人は同級生となれたのだ。ならば二人して無事卒業しよう、と二人は誓い合った。ここで新参の編入生に後れを取る訳にはいかないだろう。
「ねぇ、試験範囲ってこれよね、朝野さん!?」
わざとらしく大声で、自分のノートパッドを麻寿美の前に突き出す。授業記録を表示した。
「え?ええ、そうねぇ」
驚きを隠せずに麻寿美が答える。
「確認は済んだか?なら始めよう」
いつの間にか一也が主導権を握り、かくして勉強会は始まったのだった。




