第一章 Ⅰ
第一章 元魔王、覚醒
彼は覚醒した。意識が途切れてからどれ程の時間が経過したのか判然としない。何の重さも感じない、何とも頼りない感覚が、全身を覆っている。
「ここは…?」
彼の視界に入ってきたのは、闇だった。しかし一様な暗闇ではなく、様々な濃度の闇が、靄の如く常なく蠢いている。視線を幾ら巡らそうと、他に視界に入って来るものは何もない。
「ここは、どこだ?我は…」
「ああ。気付いた様だね」
不意に、彼は呼び掛ける声を聞いた。
「何者だ!?」
再び視線を巡らせるが、やはり闇以外には何も発見出来ない。彼の困惑を知ってか知らずか、声がまた響く。
「驚かせた?でもまぁ、話を聞いて。まずは、ここの説明をね。ここは、まぁ、僕の研究室、かな?」
「研究室?それは何だ!?」
「研究室っていうのは、もちろん研究をする所さ。君を含めた、被造物のね」
「被造物?我を造った、とでも言うのか!?」
「そう。君と、君のいた世界もね。まぁ、君からすれば僕は造物主、ってところかな?」
微かに笑い声が混じる。その内容は、彼の予想を遥かに超えるものだった。自分が造物主とやらに造られた記憶は、彼にはなかった。
「あの人共も、我と同じく貴様が造っのか!?」
「うーん、ちょっと、違うかな。君と君の軍団は、確かに僕が造ったんだけれどね。人を始めとするあの世界の住人達は、環境を調えた後に種となる様な生物を投入した、その末裔なんだよ。僕はその様子をずっと観察してきた、ってわけ」
少し自慢げな声。それが彼を少々苛立たせた。
「観察?それにどんな意味があるというのだ!?」
「それを君に教えても仕方がないね。とにかく、僕は幾つもの世界を造っては、そこに色々と条件を変えた種を投入してその変化、進化を観察しているんだよ」
「あの世界より他に、世界があると?」
「あるよ。色々と違いがあって、なかなか面白いものだよ。でもね、時々、かなりまずい事になる世界もあってね」
声から快活さが失われてゆく。よほど気が重い事なのだろう。彼は強く興味を惹かれた。
「まずい、とは?」
「うーん。まぁ、良いかな。その世界に暮らす住人達がね、破滅への道をひたすら辿り始めたりするんだよ。例えば、君のいた世界の様にね」
「なるほど。我の軍勢に滅ぼされようとしていた事か?」
彼は納得した様に言った。しかし声の返答は、それを肯定するものではなかった。
「いや、違うよ。逆なんだよ。彼らは自ら破滅しようとしていたから、君達が必要だったんだ」
「?どういう意味だ?」
その謎かけの様な返答は、とうてい納得出来るものではなかった。魔王軍以外に彼らが破滅しうる要因など、彼には思い付かなかったのだから。
「君は覚えているよね?君を斃した、あの四人の人間の事を」
言われて、彼の脳裏にレイモンド達の姿が浮かぶ。
「くっ、あの忌々しい人共か。覚えているぞ!」
「だろうね。彼らはね、それぞれ別の国の、結構な身分の出身なんだ。それら四つの国は、ここ数十年、酷い戦乱状態でね。戦争の合間に束の間の平安がある状態だったんだ。まぁ、ここまではまだ許容範囲なんだけれど。その平安の間に、一つの国ではとんでもない大規模範囲魔術を完成させようとしていたんだ。それは、術式展開範囲内の全生物を根こそぎ消滅させてしまう、というものでね。生命力、まぁ、魔力とも言えるけれど、これを自らの分解に使用させるっていう、何ていうか、強制的に自爆させる魔術なんだよ。分解する時に大量の力が発生する様でね。実験用の村では、数頭の家畜だけで周辺が、それは酷い事になって。まぁ、色々制約が多くて、実戦にはとても使えない段階だった様だけれど。更には、その国だけじゃなく、他の国も様々な大規模魔術を開発中でね。そんなものが実用化、使用されたら、もう、彼らに未来はないだろうね…観察者としては、それも一つの結果として受け入れるべきなんだろうけれど…せっかく時間を掛けてそこまで進化した世界がなくなってしまうのは、はっきり言って辛いんだ」
「貴様の辛さなど判らんが?」
「…まぁ、そうだろうね。君は、魔王ヴォイドとして僕に造られただけだから。とにかく、僕はこの状態を解消する為に介入を決めたんだ。ただ、直接介入したら彼らの独自性を損なう危険性があってね。結局僕の指示通りにしか動かなくなってしまったら、観察の意味がなくなってしまう。だから、魔王軍という脅威を与えて、彼らが一致団結して対処せざるを得ない状況を作り出したんだよ。その結果は、まずまず満足いくものだった。どの国も、君達が入手するのを恐れ、いや、むしろ他国に情報が漏れるのを恐れて、大規模魔術の開発を止めて、全ての情報を廃棄してしまった。あとは、僕の思惑通り彼らが一致団結して君を斃す事で、当面の困難は回避出来るだろう。あの四人はいま、国に帰ってどうにか関係を修復するべく奔走しているよ。君を斃したんだ、正面から反対出来る人間は、そうそういないだろうね」
「それでは、我は奴らめに斃される為に造られたというのか!?」
怒りがこみ上げてくる。造物主とやらに、自分の意志でなく戦いと滅びを定められていた、というのだ。いや、そもそも、自分の意志とは何か?
「そうだよ。だから、君を特別に、ここに留めておいたんだ」
「それは、何故だ?」
「ああ。君は、実によく役割を果たしてくれたからね。君がきちんと斃される事で、魔王軍を撤収させる事が出来た。彼らはもうあの世界にはいないけれど、また現れるかも知れない、という危機感は植え付けられただろうね。君を斃したあの四人が中心となって、とりあえず破滅を招く様な事態は回避されると思う」
「あの者共の国が争っているというならば、もしあの者共が争い合い自滅したら、どうするつもりだったのだ?」
その問いに対しては、声の主は逡巡している様だった。
「…一応、人選は慎重に行なったつもりだけれど。そこまで、文字通り救い様のない愚か者達だったとしたら、さすがに諦めるかな?救済する価値なんて、ないと思うよ。もし君達が彼らを滅ぼしたのなら、今度は君達を観察対象にしたのかもね」
「ふん、願い下げだな。貴様としては、そうならずに済んで上々、という訳か」
「正しくね。だから、君に贈り物をしようと思うんだ」
「贈り物?もはや無用の我にか?」
「無用、かぁ。確かに、君の役割は終わったけれど、それは君と僕との関係性には、何の影響も与えないんだよ。つまり、君は僕の被造物なんだ、あの四人の祖先達と同様にね。だから、僕は君を愛しているんだよ。是非とも贈り物をさせて欲しいんだ。辛い役割を無事果たしてくれたお礼としてもね」
「…それは、何だ?」
「ん、贈り物の内容についてかい?」
「いや、違う」
彼には、声の語る概念が理解出来なかった。
「貴様は、我を愛する、とか言った様だが、それはどういう事だ?あるいは、どういった物なのだ?」
「…」
声は、完全に沈黙してしまった。自分の質問が、それほどに返答の困難な物なのかと、彼は訝しんだ。あるいは、知っていて当然の事を知らない事に、あちらが驚いているのか?では、自分は何を知っているのか?改めて思い返し、自分があの世界について、よく知らなかった事に気付いた。その住人達の生活ぶりなど特に。最前線で陣頭指揮を摂る事もなく、軍の運営については三軍師と五魔将と呼ばれる部下達任せ、ただ報告を受け、賞罰等を采配する程度だった。そもそも、なぜその様にしていたのか?それを決定した記憶がない。全ては、あの造物主とやらの仕組んだ事に過ぎなかったか?だとすれば、何と空虚な存在だった事だろうか、魔王ヴォイドとは。
「あー、待たせてご免ね」
不意に、再び声が発せられる。
「いや。我は、自分が何なのか、判らない」
これまでは、その事さえ思考には上らなかった。
「そうしたのは、僕なんだよ。君に役割を果たして貰う為には、余計な事は考えて欲しくはなかったんだ。けれど、もはや君はその役割から解放された。これからは、君は君の為に生きるべきだと思う。そして、君には色々な事を体験し、学び、考えて欲しい。だから、君を一人の人間として、僕の造った世界に転生させてあげよう」
「転生?それは何だ?」
「うん。君は今、肉体を失った魂だけの状態なんだ。だから、君が望んだ世界の、住人の誰かの肉体に君の魂を移植するんだ。とは言っても、それは本来の魂が抜けたばかりのものだけれどね」
声の説明を聞きながら、彼はある事に思い至った。そう言えば、自分の肉体が視界に入らなかった、と。
「我に、あの人共と同じになれ、というのか?」
「うん。魔王の記憶を持つ君を、元の世界には戻せないけれど、他の世界ならば良いと思う。ただ」
不意に、冷たい手が触れてきた様な気がした。肉体を持たないのにそう感じたのだ。
「何をする!?」
「いや、君の力は強力すぎるからね。ちょっと制限を掛けさせて貰うよ」
「何!?我が霊性外殻を奪うとでも言うのか!?」
「いや、そこまでは行かないから。あれは、君の魂と不可分だからね。ただ、調整はさせて貰うよ」
暫く弄んだ後、冷たい手は引いていった。
「色々と、弱体化はさせて貰ったよ。それでも、一般的な住人よりはかなり強力だと思うけれどね」
そう説明する声は、悪戯っぽい響きを含んでいた。