フォー・ザ・デビル
悪魔に魂を売ってでもと、当時の僕は思っていた。よくある慣用句の本当の意味は、結局それは自分の人生を掛け金にしても、大穴を狙いたいという意味だ。
だから、僕は12月6日に何の前触れもなく現れた悪魔に対して大きな疑問を抱かなかった。むしろ腑に落ちた。ああ、世の中にいる成功者は皆彼女のような存在に触れたのだろうと解釈してしまった。陳腐な表現だが、月の光をこぼしたような銀色の髪と浅黒い肌という容姿に説得力があったせいもあるだろう。
「5年」
ある日、僕の失敗作が散乱するアパートで彼女が言った。耳が聞こえなくなった今でも、その音色だけはいつでも思い出せる。
「5年後に死ぬけど、あなたは稀代の天才画家として歴史に名を残す。どうする?」
一浪して美大に入学したものの、二年間大きな賞を逃し続けた僕にとってそれは朗報でしかなかった。安定した生活など、この道に進む時に諦めていた。ただ僕の絵を多くの人に見てもらえるなら、後の事は全てどうでもいい事だった。
「わかった」
二つ返事でそう答えれば、彼女はもう何も言わない。むしろ僕が頷く事がわかりきっていたかのように、ほんの少しだけ微笑んだ。その時僕は、僕自身を初めて理解されたような気がした。
「1年に1回、会いに来るから。利子はその時にもらう」
利子について問いただす前に、綺麗さっぱり彼女は消えていた。先程の出来事は夢だったのかと、たったの五分程度で訝しんでさえしまう。スランプで幻覚さえ見たのかと思い始めたのは仕方のない事だろう。こういう時、人はいつだって他人からの保証が欲しくなる。僕は携帯電話を取り出し数少ない友人に電話をかける。
「なんだ朝倉、こんな夜中に」
いや、悪魔に合ったんだけどと笑い飛ばして欲しかった。だが、出来なかった。
悪魔に支払った利子は、僕の声だったからだ。
声を奪われた僕の絵は、良くなる事などなかった。失ったおかげで今まで感じられなかった物がなどという脳天気な魔法は無い。天才に必要なはずの才能は、相変わらず水平線のまま推移している。
変わったのは周囲の目だ。僕自身出来栄えが変わらないと思っていた絵に、ぽつぽつと高い評価をつける人が出始めた。その目の色に同情があったのは知っている。それが実力ではない事など、僕自身が知っている。それでも僕はその年初めて、学内で小さな賞を取った。
1年目は直ぐにやってきた。悪魔は何の前触れもなく、契約した12月6日にふらっと現れ直ぐに去った。翌日耳が聞こえなくなった。絵を書くのに支障はなく、相変わらず完成度はそのままだったが同情の数は増えていった。数ヶ月して、奇跡の美大生として小さなニュースに取り上げられた。募金感覚だったのか、僕の絵はそれなりに売れ始めていた。
2年目以降は繰り返しだった。味覚、触覚、嗅覚と視覚以外を順番に悪魔に支払い続けた。その代金として僕の画家としての人生は進んでいく。絵の出来栄えは当然変わらず、メディアに露出する機会は増え、もはやただのスケッチでさえ軽自動車が買えるぐらいの値段がついた。だからもう、僕は真面目に書くのをやめた。たった一つ、寝室に立てかけたイーゼルに残ったキャンパスを除いて。
5年目の12月6日。僕は鼻歌を歌いながらキャンパスに筆を走らせていた。聴覚を失ったせいで誰が聞いても不協和音だったのだろうが、どうでも良かった。自分の絵が売れ始めて、他人の評価など相対的な物だと知ってしまったからだ。だから僕の人生最後の日に描いている絵は趣味の集大成でしかなかった。
この絵に価値など無かった。美術館に飾られるべきでも、教科書に乗せるべきでもない。ただひと目見て欲しい人がいただけだ。
「5年目……約束は果たした」
ようやく筆を置いたその時、いつものように前触れもなく彼女は現れた。聴覚がなくなった僕だが、彼女の声だけはよく響く。恒例行事になれていたはずなのに、僕は最初の時みたいに驚いていた。照れ隠しで僕が笑うと、彼女が訝しんだような目で僕を睨む。
「何? 不満があるの?」
僕は首を横に振り、目の前にある絵を指差す。少しだけ不思議そうな顔をしてキャンパスを覗き込む。それから一瞬目を丸くして驚いた後、少しだけ恥ずかしそうに言葉を漏らす。
「……私、こんなに美人じゃない」
書いていたのは彼女の絵だった。一年に一回しか会えないせいで筆が進まず今日まで時間がかかってしまったが、何とか完成にこぎつけた。彼女を恨む日は当然あった。絵が認められたかったのだと、同情などほしくなかったと恨んでいた日があった。だが、結局僕は僕のために絵を書いていると気づいてからは、筆を握るのが楽しくなった。
だから走り書きで絵の隅に英語でありがとうと書き込んだ。彼女は目を逸し尖った口で、どういたしましてと答える。その時僕は随分と久しぶりに後悔した。
恋する彼女の珍しい表情をどこにも残せなかった事と、名前を聞き出す勇気が僕には無かったという事が。