表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/45

08 胎動

「あれー? お兄ちゃん今日は早い?」

 夕月は、久しぶりだ、と思ったのがちょっと自分でも意外だった。

 兄がもう制服を着て玄関にいる。

 驚きよりも、懐かしさが先にやって来るとは思わなかった。

「ああ、ちょっと用事」

「あそ。じゃあいってらっしゃい」

「お前も早く準備しろよ」

 それはこっちのせりふだ――。

 いつも部屋を叩いて起こしてやっているのに、たまに早起きするとこうなのだから、兄は子供じみていると思う。それとも、男はみんなこんなものなのだろうか。

「言われなくてもわかってるよ」

「ならいい。カギ閉めといてな」

「はいはい」

 母親の靴はもうない。兄も靴を履き終え、玄関の扉を開けて出て行った。

 夕月のローファーが、なんだか出番を待っているようにぽつんと佇んでいた。


 * * * 


 昨年までこの時間に起きていたのが日常だったとは、今では到底信じられない。

 朝の1時間は、何よりも大切な時間だったのだろう。

 嗣平は寝ぼけ眼で自転車をこいで、セットもしてない頭で駅の階段を上る。

 謝ろう。

 昨日のことがなんだかんだ言っても効いたらしい。なついていた子犬がいきなりそっぽを向いたような、そんな不安は夜が更けても明けても残り続けている。

 親からは説教を食らう。奏は怒る。妹はこっそりシューマイを一個くれた。

 昨日は、どうもおかしなことばかり起きた。

 嗣平は改札を通り抜け、1番線ホームへ降りて、姿を探す。

 奏は見当たらない。

 この時間でないとしたら、先に行ってしまったのかもしれない。そんな不安が嗣平の頭によぎる。

 しかし、今度は上書きされた。

 嗣平が立ち止まった。

 後ろ姿もきれいだ。肩甲骨付近まで伸びた黒髪が、ただ時を待つ水面のように静まり返って身動きもない。

 彼女も、この時間に学校に行くのが日常になるのだろうか。嗣平はそんなことを思って、声をかけた。

「おはよう」

 足はそのまま、半身になって、嗣平のほうを振り向いて、笑う。

「あら。おはよう。杉内君。早いのね」

「小山内こそ」

 小山内柚瑠が、駅のホームに立っていた。


 * * * 


 部活に入っているわけでもない小山内が朝早くに学校に行く理由。何か子供みたいな理由だった。

 あいさつもそぞろに、ふたりは談笑を始めた。

 手始めに妹の話が出た。自分ではそうは思わないが、よくそっくりだと言われる妹は、違う高校の1年。小山内にも妹がいる。そう言っていた。詳しくは教えてくれなかった。

 そして、この時間に学校に行く理由をさりげなく探ってみると、案外あっさり教えてくれた。

「わたしね、誰もいない教室って好きなのよ」

「何かわかる気がする」

 横目で小山内を見やる。嗣平は、そしてすぐに目線を線路にやった。

 眩しい。なんとなくそう思ったからだった。

「杉内君も早いじゃない」

「いや、俺は、その」

 少女は訝し気な表情で、男の顔を覗き込む。

「だから、べつに奏ちゃんに無理して合わせてるわけじゃないのよ」

 いきなり奏の名前が出てきて、嗣平の心臓が一度跳ねた。

「……なんで、奏?」

「昨日言われたの。一緒に行こうって」

 その答えの中に、自分が含まれていないということがやけに安心感を与えてくれた。

「一緒に来てたんでしょ? 杉内君」

「まあ、大分前の話だよ」

「でも、今はそうしてない」

「うん」

「なんで?」

 小山内は嗣平に向き、口を一文字に閉め黙る

「そんな顔しないで。別に、怒ってるわけじゃないんだから。ただね」

 そう言って、線路の向こうを、どこか遠くを見ている。嗣平にはそう見える。

「奏ちゃんがその話してるとき、寂しそうだったから、気になって。気を悪くさせたのだったら、ごめんなさいね」

 対向のホームで電車が来た。

 その電車がホームを抜けるまで、二人は言葉を交わさなかった。

 電車が揺らすホームに静けさがやってきてから、嗣平が口を開いた。

「けが、したんだ」


 * * * 


 海田奏は、普段通りの時間に家を出て、いつもと変わらない景色を自転車で駆けて行って、少しも違わない駐輪場に自転車を止めて、何回数えても一致しない駅の階段を上がってホームに出て、

 それから、いつもと違う光景に出くわした。

 ブレザーのポケットにあるメモを無意識のうちに握った。くしゃくしゃになる感触がして、あ、まずい。そう思う。

 しかし、目の前にある光景は、いつもと違っていて、でも去年まではいつもとおんなじでもあった。

 小山内柚瑠と杉内嗣平の二人が一緒にいた。

 あやまろうあやまろうあやまろう。

 奏は昨夜、ベッドで何度もそんなことを考えていた。口を小さく開けながら、謝るときの練習までやった。だからきっとつぐちゃんも聞いてくれるはずだ。

 なのに、今ではそんな気持ちも吹き飛んでいた。

 なぜか二人が一緒にいるのが腹立たしかった。楽しそうに笑っているように見えたのが悔しかった。

 接近していく。二人はまだ気が付いていない。戦争であれば全滅してしまうだろうが、ここは戦場でもなければ、武器もない。

 しかし。平和な時代でも、つまらないいざこざはいつだってどこでだって起きてしまう。

 高校生ともなれば、それが全てを変えてしまうことだってある。

 そして――


 * * *


「向こう言ってて」

 いきなり右手をつかまれたかと思うと、強い力で引っ張られて、嗣平の体はのけぞった。

 気が付いた時には、嗣平のいた場所に奏がいた。

 柚瑠ちゃんの声も、つぐちゃんの言っていることも、奏ちゃんには全然頭に入っていない。つっけんどに、頑なに同じ言葉を繰り返す。

「いいから」

 奏は、初めからいない者として扱おうとしたがっている。

 当事者にはそう思えた。

「向こう言ってて。つぐちゃんは」

 しぶしぶ、嗣平はベンチに向かって歩いて行った。

 謝ろうと思ったのに。

 嗣平はそんなことを考える。しかし、実際に顔を見合わせてみると、向こうは許してくれそうにもなかった。タイミングはそのうち来るだろう。そんな呑気に考える。

 大口を広げたベンチに腰掛け、跡が残るくらいに己の足を支点として頬杖をついた嗣平の視線の片隅で、小山内と奏の背中が映った。

 顔を見合わせることもなく、ただ肩を並べている。

 電車来訪のアナウンスが鳴った。

 電車に、二人は乗った。

 嗣平は乗らなかった。乗れなかった。どちらも正しい。

 電車が動き出す。

 その時、小山内柚瑠は不安そうな顔で嗣平を電車内から見ていた。

 しかし、嗣平にそのことは知らない。

 ベンチの隣に、思いがけない人がいたことに、ただ驚いていた。

「よお。偶然だな」

 若槻がいた。


 * * * 


 ご丁寧に、下駄箱の中にまで、綺麗に折りたたまれたメモが入っていた。

 今日の夜10時、千馬駅下のロッカー。

 もう忘れかけていた約束は、酔いが見せた夢ではなかったのだと思うと、急に嗣平に厄介ごとに巻き込まれているという実感がわいてきた。

「そんな几帳面にはみえないけどなあ。おっさん」

 メモが入っていたということは、若槻の協力者でもいるのだろうか。でないとすれば、不法侵入したのかもしれない。

 いずれにしても、素面の嗣平には恐ろしく感じる。

 約束なんっかほっぽりだしてしまえばいい。その方がいいと思う。

 でも、気にはなっている。

 あの男――若槻は言った。

「小山内っていうのか。女は知り合いか。あいつは危険だ」

 と。

 確かに言ったと思う。そんなことを。「あんたのほうがよっぽど危ねーよ」と思うが、どうしても若槻の言葉が心の隅にこべりついて引っかかってしまう。

 それから、こんなことも言った、と思う。

「近いうちに、テロ対策として、4段階目のフェーズに移行する可能性がある。もう一度、爆発騒ぎが起これば、の話だが」

 現実味のないような騒ぎが起こる。こういう風にとらえるのは、そうハズレてもいないはずだと嗣平は思う。

 小山内とテロ。この二つが、どうあっても結びつかない。つけたくもない。

 開けっ放しの下駄箱の扉を閉める。扉は馬鹿になっているらしく、押し込み過ぎると開けるのに苦労するくらい深くきつく閉まる。

 だから、閉めるときには、家のリビングの扉を閉める時くらいの力加減でいい。

 そんなこと気にも留めず、フタを叩きつけた。

 嗣平は教室に向かう。

 廊下で女子生徒が話しているのが耳に入った。

 小山内のことではなかった。テロのことでもなかった。


 あの時、平和な駅のホームで、小山内もいなければ、爆弾なんかしかけられてもいなかったはずである。

 一方的にまくしたてる男に、嗣平はようやく言葉を一突き繰り出すことができた。

「あんた、何者なんだよ」

 そう聞いた。声は震えていなかったと思う。

 眉をあげ、首をあげ、自分を指さし、ああなるほどというリアクションを取って、それから、

「おいおい、忘れたのかよ」

 そう言って、大きく陽が射しこんでいた目が、死んだ魚のような目に変わり、太陽に雲がかかった。

 顔が一瞬暗くなり、雲がすり抜けたタイミングで、口を開いた。

「知ってるだろ?」

 それが最後だった。


 * * * 


 小山内柚瑠は、学校にいる間、所在なさげだったと3年1組30番の鳥羽紗枝は語っている。隣の席から、その横顔の美貌を独り占めしているから、よくわかる。

 29番の千葉里香は、優しい奴だと周囲からよく言われてる。だから、その優しさをいかんなく発揮しようとして、4限終わりに小山内柚瑠に近づいてた。

 その優しさが逆効果だった。

「こないで。触らないで」

 水を浴びせられたように打ちひしがれる千葉里香を前に、小山内柚瑠は一度、まずいことをした飼い猫のような顔をした。

「ごめんなさい。大丈夫だから。悪気があったわけじゃないの。ちょっと、保健室行ってくるわ」

 鳥羽紗枝はついて行こうか尋ね、突っぱねられ、空いた手が何だかみっともないような気がして、今度は千葉里香を慰めに走る。

 小山内柚瑠はその日、それきり教室に姿を現さなかった。

 早退したと生徒には伝わっている。


 通学カバンは、主亡き机の横でぶら下がっている。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ