05 日常
4月8日の朝、嗣平が学校に到着した時には、もう既に小山内の周りには人だまりが出来ていた。今日も夏服セーラー服の小山内は、笑顔で応対している。
新学期はただでさえ、発情期の猫のような興奮を学生にもたらしている。そのうえ転校生など来たものだから、教室は血が見ることにもなりかねない盛り上がりを見せる。
青春というのは情報戦でもある。
いかに他人の知らないことをキャッチして、友達に投げるか。特に色恋沙汰ともなると、報酬はマックのポテト1つでは済まない。情報をいち早く仕入れる情報屋は、どのカーストでも重宝されている。
おそらく、包囲している者たちはそういう輩たちなのだろう。
学年を問わず、男女も問わず、生死は問われて生きているものだけ、人種のおんなじサラダボウルの群れが、小山内柚瑠の周りに集いに集った。
俗にいう、陽キャたちである。
その喧騒は3年1組12番杉内嗣平偏差値55の席にも、はっきり届いている。
しかし、嗣平は今それどころではなかった。
「み、水。水をくれ」
「はい。たーんと召し上がれ(はーと)」
和也の渡すウーロン茶をぐびぐび飢えたハムスターのように飲む。
もう2本目だった。飲み干した。
嗣平は原因をはっきりと理解している。昨日のアレは、やっぱり尾を引いていた。
じっとうつむいて、机の木目をぐるぐる見ては時々ひたいを抑える。それで多少は痛みも晴れる。水を渡されればそれをのむ。それで多少は喉も潤う。
和也はカバンに手をやり、中の物を嗣平に渡す。嗣平はぐでんぐでんで受け取れない。受け取る気がないのかもしれない。
しょうがない。和也はため息をついて、
「おかんから伝言。酒代はちゃんと払えよ、だって」
折りたたまれた領収書を嗣平の胸ポケットに、差し込んだ。
「ほんまもんの罰ゲームじゃねえか……」
そう言って、嗣平は席を立った。ふらふらと倒れそうで倒れず進むその光景に、和也は何故か感心する。
「おーどこ行くの。もうHR始まるでよ」
和也の問いに、まだ10分もあるだろ馬鹿、と心の中で突っ込みを入れる。
そして、行き先を告げた。
「トイレ」
* * *
一番奥の洋式トイレに座ってもズボンは下げずに、嗣平は割れそうな頭を抱えている。
時々漏れる蚊の泣くようなうめき声は、聞きようによってはお通じとの戦闘に明け暮れている戦士の声のようにも思える。
うーん。うーん。
その声の正体は、宿酔いの残りでしかないのだが。
別にアルコールに弱いわけではないと、嗣平は自称している。実際、いつものメンバーで同じものを同じ量飲んでいるときは、こんなことにはならない。
なのに。
嗣平は昨日を振り返っては、たまにレバーをひねって、トイレの水を流す。全部流してくれればいいのに、結局流れて行ってはくれない。ひどい。
やっぱり、あの妙な色をした飲み物のせいなのだろうか。
昨日は結局、嫌な一日だったように思えてきた。
転校生がやってきて、校内を一緒に回って、商店街には男がいて、和也の家で変なものを飲まされ。この時嗣平は、こいつめお前のせいだと和也の顔を浮かべては脳内で怒りを叩き込み続ける。
そして、そのあとはそれからどうだったかを思い出そうとして、
「そうだ」
記憶を頼りにジャケットのポケットを探る。トイレからはただ水を運ぶ音だけが轟々と鳴り続ける。
左のポケットから、出てきたのは、太い「針」だった。
あの後、家に着いたのが夜の10時。玄関には母親がいて、ものすごい剣幕で嗣平を説教した。家には上げてもらえなかった。
しょうがないので、どこかマンガ喫茶で夜を明かそうか悩んで、自分が酔っていることに気が付いてやめた。
そして思い出す。
「「ふっとーーーい針なんだよ。このくらいのな」」
どうでもいいことばかり、よく覚えているのは何故なのだろう。
おじさんが言っていたことが本当かどうかはともかくとして、あまり気分は乗らなかったし、頭痛はずっと続いていたし、そもそも行く理由がなかった。別に後で会ったとしても、「やっぱり見つからなかった」といえば、それだけで済む話だろう。
なのに、嗣平は宝探しに出かけることにした。
そして、探し物はあっさり見つかった。
家から一番近くにある、爆発物騒動のあった中古車屋の裏。ただそれだけの理由で選んだ場所が、いきなりのビンゴ。
今手に持っている針は、KEEP OUTの近くに落ちていた。というより、刺さっていたというのが正しい。
針というには大きすぎるし、杭というには小さすぎる。とりあえず泥を掃けてから、ポケットに突っ込んだ。
その針らしきものは今、嗣平の手の上にある。
「針、だよなあ。本人がそう言ってたし……」
さて、どう渡したものか。嗣平は考え、結局ポケットに針をしまった。
そして、反対のポケットに手を突っ込む。
すると、
「ん?」
こちらの問題も、未解決だったことを嗣平は思い出した。
トイレから出ると、いつのまにかHRの時間は終わっていた。
* * *
「おっそーーーーい!」
ちなみに、昨日嗣平は結局家には帰らず、知り合いのバイト先のスタッフルームでソファを借りて一夜を明かした。
朝、嗣平が学校に来ると、靴箱の中にメモが入っていた。今それは嗣平の右ポケットに入っている。
「別に約束してねえだろ」
「女を待たせないのは常識じゃないかよーー!」
「待ってたんじゃなくて、呼び出したんだろうが。で、なんだよ奏」
メモの最後には、K.Kの文字があった。嗣平には、校内でのスマホの使用禁止を律儀にも守っているような奴に2人心当たりがある。が、K.Kはこっちだ。
海田奏。呼び出し人の名前はもう省略しても、お互いに分かる。
二人はもうずっと嗣平が引っ越して以来の幼馴染だった。斜向かいの近所ということもあって、お互いのことについてはピンとくることがあるらしい。
「はいこれ、あと、こっちも」
嗣平は渡された「これ」を見る。容器にはウコンと書かれている。そして、奏が指さした「こっち」は、いい匂いがした。
「……味噌汁?」
「ピンポーン!」
奏はうんうんうなずく。少し赤味がかった茶色いショートカットの髪が弾んだ。
「だって、今朝おばさんが言ってたよ。つぐ、来てないよねって。理由聞いたら、頭冷やせるために放り出したって。そこで、ピーンときたわけだ! タカやんのところで悪さしたんだなって!」
その時、タカやんこと高杉和也は、教室でくしゃみをした(らしい)。富田保は、彼が風邪でも引いているのではないかと心配したが、あえて無視した(らしい)。
嗣平はというと、調理室の机に座りどこからか割り箸を持ってきて、説明中に既に味噌汁を2杯飲み干していた。
「人聞きの悪いこと言うなよな」
ずずーと味噌汁をすする。
「うまい」
気分を良くした幼馴染の顔はどこか誇らしげで、言葉尻にも「どうだ」と言わんばかりの自信をのぞかせる。
「でも悪さをしたのは事実でしょ?」
「いや、逆、逆。昨日は人助けをしたんだよ」
「うそだー!」
「いや、マジ」
奏は身を乗り出す。3杯目を飲み干した嗣平の目の前に、奏の顔があった。
くりくりな目は、吸い込まれそうな小山内の目とは違って、逆に何かを放出しているような気がする。ポジティブな何かを。
嗣平は箸を置く。
「ごちそうさま」
「お粗末様」
「やっぱりお前料理上手いな」
「ま、あたしがやんなきゃ誰もやってくれないからね」
嗣平が手を伸ばせば届く距離に、奏の顔がある。
たしかに、奏がやらなきゃ誰もやってはくれないのだろう。自分とは大違いだ、と嗣平は思う。当たり前の日常。その意味は人それぞれで、嗣平にとって、少し寂し気な奏の感じはあまりいい意味を持たない。
だから、
嗣平は両手を奏のほっぺにやる。
奏は視線をまず伸びてくる右手にやり、それから押し寄せる左手にやる。
気が付くのが一足遅かった。
つねった。嗣平が。
「はは。変な顔ー」
むりやり笑顔のような顔を作る。
「いひゃい。いひゃい。ほんをはだへかえふなー(恩を仇で返すな)!」
手を離した。
「何すんだバカー!」
「サンキューな」
嗣平が言った意外な言葉は、奏の言葉を引っ込めた。
奏はそれから、一度大きく息を吐いて、
「……別にいいけどさ」
それを見て、嗣平は笑顔になった。
「おうおう。げんき出たぞ! ほらこんなに!」
嗣平は足踏みをして、ぐるぐる机の周りを一周。
「助かったよ! もう大丈夫だから心配すんな!」
そう言って、嗣平は足早に調理室を出て行った。
取り残された奏は、しばらく呆然としていたが、気を取り戻して片づけを始める。
しかし、その途中で、洗い終わったお椀を置いて、うつむいた。
奏は蹴り飛ばすように足を軽く振って、それから、
「……うそつき」
昼休みももう終わる。