006 ディテクト その1
短めです。
毒気に当てられたに違いなかった。
きっと男の与太話は本当だったんだ。猫は敵と判断した男を始末した。だから次は自分を始末する。この子猫がその目印で、遅効性の毒かなんかで体力を奪ったところで本隊がやってくるのだ。本で読んだことがある。東の軍は秘密の生物実験で怪物を作ったのだと。それは世にも恐ろしい姿をしていると。想像上のキメラがイラストで掲載されていた。あれはデマだ。猫じゃないか。いや、それが狙いなのか。一度取り入るために愛玩動物に見せかけているのかもしれない。きっとそうだ。何も地雷を埋めて「ここに地雷あります」なんて看板を立てる馬鹿はいない。ゴキブリホイホイの様な手口。まさしく奴らがやりそうだ。
そして次は眠気だ。なぜこんなに眠い。体が熱を持っている。薬でも盛られたかのように火照る。熱と言えば、猫はどうも体温が高いらしい。4月の夜はまだ冷える。子猫の温度が胸で蠢く度、不思議な安心感があった。保護欲にも似た温かさだろうか。鼻血が出てきた。ベッドから動く気力が湧かない。話がずれていく。思考にノイズが乗る。流れを変えなければ、とは思うが瞼が落ちていく。
みゃあ。
――なあ、お前、どう思う?
最後に、自分の目を覗き込む子猫の顔を嗣平は覚えている。
次に記憶がはっきりとしたのは、翌々日の昼過ぎに目を覚ましてからだった。
記憶にはない前日の土曜に食した残骸が散らばっている。嗣平はその中をゆっくりと立ち上がった。全身がまどろっこしいのか、手をわきわきさせ、二日分の背筋を伸ばした。ふと、ベッドの横にある小机から、一枚の紙が落ちるのを目にとめた。拾い上げて見ると、そこには夕月の言付けらしき文字がある。
猫預かる。まかせて。だから寝てろ。
「――そっか」
部屋を見渡すと確かに猫はいない。
よかった、と思う。
猫の件が落ち着いたのなら、と、嗣平は汗臭い自分に気付いた。適当に放り投げてある着替えを手に取り、風呂場へと向かおうとする。どうせならお湯を張って湯船につかろうなど、爺くさい考えに気をとられ、気を抜くとしなだれそうな足の代わりに、壁に手をついて歩いた。
玄関の戸が突如開いた。声からするに一人ではないらしかった。
一人が身を滑らせて三和土に登場した。
妹の夕月だった。
「ほら、入って入って」
「ちょ、ちょっと夕ちゃんってば」
「いいからいいから、ん?」
嗣平と夕月の視線が交錯する。
掴んでいた夕月の手が離れた。妹は悪さをした猫のような表情を嗣平に見せている。
そして、嗣平はその隣にいる姿を見て小さな声を上げた。
「あ」
頭頂部でわかる。
奏だった。
ボーダーのカットソーに、薄藍のデニムの恰好をしている。何が入っているのかわからないが荷物がデカい。
奏も全身をすっぽり玄関に収めぶつぶつ小言をつぶやくと、夕月のように嗣平の存在を見つけた。
「――あれ、ええと」
次が来ない。
そこで嗣平の足が止まる。奇妙な違和感に襲われる。普段の奏であれば、何か気の利いた一言でも口にするはずだ。それがない。未だに不安を抱いている。そうとられてもおかしくはない態度に思える。
奏は不審な笑顔を維持していた。
やや遅れて、まるで他人に向けるような口調で、
「――誰?」
直後、言葉を遮るように、奏はハッと口を手で抑えた。
信じられない様な表情をどこにともなく向け、首をふり、
「――なんか今変なこと言ったね。私」
夕月がにやりと笑う。やーねえ、でも今のすごいボケ。私的にぐー。もっと言ってやんなよ。
一人盛り上がっている妹へ嗣平は、
「なあ、俺、そんなひどい顔してんの?」
問いかけに夕月が満面の笑みで答う。
「もちろん。いつも通り」
***
カーテンを開けた。
シャワーで汚れを洗い流し終えると、夕月の姿を嗣平は見つけられなかった。奏に問うと「用事」を急に思い出したと口にする。そのまま会話が途絶えた。どうしようもないその思考を処理することもできず、嗣平は自室へ奏を誘った。
まるっきり手つかずのままだった。
カーテンを開けても問題は山積みだ。
空の容器が雨の後のように臭っている。うへあ、という顔を奏がするのも無理はない。嗣平だって辛い。換気のために窓をしばらく開け放った。
清い空気が多少凪いでから嗣平は切り出した。
「あのさ、今日はどしたの」
「夕ちゃんだよ。つぐが病気だから、だってさ」
わかってたんだけどねそんなことくらい、って感じの表情をして、
「そんな大層なもんじゃないって。ちょっと調子崩しただけだから。でも、それよか」
その方角を嗣平は見た。
「それだけで来たわけじゃない。そうだろ?」
視線を奏も追いかける。
荷物だ。
奏は頷いた。袋に手を突っ込んでその中身を床に並べ始める。
「その――夕ちゃんがね、兄貴が猫拾ったって」
黒色の折りたたみのキャリーケージ――以前は被服準備室にあった物。奏が先に貰い受けていたまま、奏の家に保管されていた。
「まあ、拾ったっていうか、なんと言うか」
そこまで言って、嗣平は迷う。
真実を口にするのは容易い。
だが、自分自身どこまで正気だったのかという疑念は未だ根強い。なんせことがことだ。変なおっさんに押し付けられた爆弾がその猫だ。だから近づかない方がいい。なんせそれでおっさんが死んでるからな。俺だって危なかったんだぞ。だからそいつは危険なんだよ危険。
明日から病院暮らし間違いなしだ。頭の。
だから、嗣平は、
「まあ、拾った、だな。ほらまだ子猫だし」
「でも――」
そこで奏は思い直すように首を小さく振った。
「なんでもない。子猫、それで、預かるのでいいの?」
「うん? お前、夕月からなんて言われた?」
「兄が今ああだから、ちょっと面倒みられないかって」
奏の声のトーンは低い。
おそらく、夕月の言葉に悪意はなかったはずだ。
ケージを持って来いと杉内家の人間が口にする。それを紐解けば何となく推察ができる。
きっと、奏が最初に抱いたのは「あの猫が見つかった」ことだろう。その家に行けば会えると思ったのかもしれない。
そして、違う子猫を見た奏を嗣平は思う。
落胆を夕月に見せはしなかったはずだ。なぜなら夕月はそんなこと知りもしない。嗣平が拾ってきたのが、一匹目だと決め込んでいる。
そんな妹のような存在に、きっと奏は微笑みかけたに違いない。
所詮、それは思い込みでしかないのかもしれない。
奏は何を確かめるでもなく嗣平に伝えた。
「別にいいよ。家で面倒看ても。一時的に、ならだけど」
少々、予想外の態度だった。
違和感すらある。
声色に憂いを感じさせない。むしろ――
「いいのか?」
「うん」
そして、奏は親指と人差し指で、顔の横に丸を形作った。
「お返し、期待してるからね」
戻った、とその時嗣平は思った。
奏はもう吹っ切れたのだろう。だがあきらめとは違う笑みだ。
嗣平の顔にも徐々に笑みが浮かんだ。
そして、二人して笑った。
考えすぎではないと、その時理解していたら。




