005 兆候 その3
「うん、それで?」
電話口を通した渡瀬多恵の声は普段と異なる響きがある。
『まあ、元気は出た。たぶん』
「たぶんって、お前なあ……」
夜10時ともあって、声のトーンは低い。自室でベッドに寝転がりながら、嗣平は多恵と通話をしていた。
一呼吸おいて、多恵が、
『しょうがないじゃん。奏、頭すっからかんじゃないし。あんたとは違うんだから』
「このヤロォ」
『――それで、何か手がかりは見つかった?』
今度は嗣平が一呼吸、
「――いや。でも、ただ校内にはいない。これは確かだ」
何しろ探せる場所は全て探した。そもそも、校内で飼育していたわけでもない。居るにしても、外である可能性が高いはずだった。
その日あった出来事を嗣平は話した。少なくとも、放課後に校内にいるのは盗難犯と印象を与えかねない事。新谷はいい奴だという事。多恵は同調した。理由まで付いてきた。顔もいいしね、あんたと違って。
そして、話は他愛無い世間話に突入した時、そういえば、と嗣平が口にした。
「あのさ、転入生について、渡瀬多恵何か知らない?」
『何で? その人何か関係あるの?』
嗣平は、いや、と否定したうえで、でもわかんないけど、と上書きした。
「たまたま本人と話す機会があってさ。千馬に住んでたんだって」
『それ杉内嗣平と奏が住んでるとこじゃん』
「ああ、うん。でも、奏は今あんなんだろ。聞くに聞けないからさ」
『私は代わりかよ』
と言った後、多恵は、うーん、と唸り声をあげた。
『ないね』
「そっか。わかった。期待してなかったし」
『死ね』
それから二人は二、三言交わした。電話口から、誰かを呼んだ声が聞こえた。多恵が返答したらしい。
しばらく待つと、電話口で多恵がようやく口を開いた。
『とりあえず、後でご飯おごれよ。私と奏の二人分。じゃ』
「あん? って、おい!」
つー、つー、つー。
「――ったく」
携帯をスリープに。
「ま、やることやってくれたしいいか」
多恵の証言によれば、どうやら、奏の機嫌も多少は持ち直したらしい。
しかし、それで解決とはいかない。今日の様な沙汰を考えれば、明日は別の手段が必要だった。
そして、翌日、嗣平は校外を探すことに決めた。
***
朝、小山内柚瑠の態度はまさしく他人だった。
昨日多少は打ち解けたと感じたのは杞憂なのかもしれない。いつもの調子で無碍なく挨拶が返ってくるだけで、次の言葉を探すうちに、寄ってきた生徒が彼女を包囲し覆い隠した。
嗣平の席に寄ってきた保が肩をつつく。
「おい。何か進展があったか?」
「進展、ってなんだよ。小山内さんとは別に――」
「ちっげーよ。何か探してんだろ?」
そっちか。
保の顔が悪く変った。
「何だ。転入生と何かあったのか」
「ない」
「だろうな。腰抜けのお前のことだ。せいぜい取っ掛かりを作るのが限界だろ」
図星だからか、嗣平は頭にも来なかった。
和也が教室に入ってくるのが見えた。イヤホンを取り外し、プレイヤーにクルクルしながら、席に接近し、
「何の話?」
「おい聞けよ和也。嗣平、転入生と二人きりで何もしなかったらしい」
「おい」
嗣平など無視し、和也は保の話に熱く耳を傾ける。
なるほどね、みたいな表情をして、
「……春は遠いなあ」
「――遠いんですか? 春」
「だろうなあ。何しろ、嗣平は腰抜けだから」
「――腰抜けなんですか? 先輩」
「うんうん。つぐは、」
間。
三人の視線が、ようやくその異音に集中した。
そのうち、嗣平がばったり目を合わせた。
ちょっと俯いている。見た目に不健康さは見当たらない。先に多少安心したのが自分でも不思議だった。
「あの、杉内先輩、ちょっといいですか?」
「――真」
嗣平は席を立った。粕谷真は廊下へ、とジェスチャーを嗣平に向ける。
始業前の廊下は生徒もまばらとなっていた。あと数分もすれば、教師も来るはずである。真はさっそく口を開いた。
「昨日は、ご心配おかけして、すいませんでした」
「いいよ。それより、体の方は?」
「大丈夫です。なんですけど、萩原先生は来週まで安静に、って」
真が笑みを見せる。
「萩ちゃんがそう言うならそうなんだろ。まあ、気分転換って思えば?」
「そうします」
そして、真が逡巡した。
目の前にある男子トイレに入った生徒が出てくるまで、真は押し黙ったままだった。
やがて、
「――あの、たかこから聞きました。先輩、右肩」
「肩?」
「私を庇って、打ち付けたって」
「ああ――」
右肩をまわしてみる。痛みはみじんもない。
「大丈夫だって。もう完治してるんだから」
なるほどな、と嗣平は思う。
真が言い淀んでいた理由に心当たりはある。確かに、数日前にその件が元で口論に発展した。昨日の一件で忘れていたが、真とは確かに交戦状態だったのだ。その時に口にした言葉を思い出す。
気にもしないでいいのに、と思うが、そうもいかないのだろう。
嗣平自身罪悪感を持ったくらいだ。真はもっとに違いない。数日間のやりとりを真の性格を踏まえて考えれば、きっと自身への怒りもあったはずだ。謝罪欲求とぶつけどころのない怒りを、自身を痛めつける方へ使った、というのも真らしいと思う。
粕谷真は、昔からそういうやつだった。どこか危なっかしい。
だからこそ、これまで一後輩にしては嗣平は世話を焼いてきた。妹に似ている部分があるからじゃないか、と以前和也にからかわれたのは、客観的に見れば正しい。似てはいないが違いとは本人も自覚している部分もあった。
しかし、それも続かないだろうとは、頭のどこかでわかってはいた。
「先輩、私、もう別に強制とかしませんから。もう進路も決める時期ですもんね」
寂しそうだった。
だから、笑ってみせた。
「それは大丈夫。俺天才だから」
「どの口が言うんですか。平々凡々もいいとこです」
粕谷は苦笑した。嗣平もつられて笑う。
「と、言うわけなので、私のことで心配してたら、大丈夫です。気にしないでください」
「そっか。ま、無理はするなよ」
「はい」
始業前の鐘が鳴った。
その音が鳴りやまないうちに、真は踵を返す。
鳴りやむ間際、振り向いて、嗣平に言った。
「言い忘れてました。ありがとうございました」
廊下には、嗣平一人取り残された。
***
さすがに昼に外に出るわけにもいかない。何しろ近場は既に奏が捜索し終えていた。それ故に昼休みに嗣平は奏に会いに教室へ赴いたが、奏は嗣平の姿を認めるや否や隠れてしまった。渡瀬多恵が言うには、「あんたが来ると猫の事思い出す」らしい。
理不尽だと思う。
不合理だと思う。
だが怒りは自然とわいてこなかった。
一応、多恵の後ろからこっそり窺う奏に、放課後にうろちょろしないようにだけ告げ、嗣平はいつもどおり和也と保と飯を喰った。
学校が放課後まで生徒をしばりつけておくのが体罰なのかどうかとか、ばっかみたいな妄想で暇をつぶして、奏からどの辺の捜索を終えたか詳細を聞くのを忘れていた事も思い出して、じゃあ結局一人で人海戦術のようなことをしないといけないのかと落ち込んで、嗣平は本当に放課後を迎えた。
一人で、というのにもだいぶ慣れてきた。
保は親父さんの手伝いで大抵は早く帰る。曰く、「バイト代がないとデートもままならん」のだそうだ。
和也とはどうもまだ完璧に修復しきっていない感じだ。保について行って、バイトの手伝いをしているらしい。
奏に関しては、まあ、しばらくは放っておくべきだと思う。
まあ、慣れたからと言って、順調に事が運んでいるわけではないのだが。
猫が居そうなスポットを虱潰しに探す他なかった。
雑草の繁る手入れの行き届いていない空地。石ころばかりで猫はいない。いつまでも終わらない工事の現場。立ち入るなという雰囲気に負けた。ぶらぶら歩く。餌を漁れそうな、狭い路地の青いポリバケツ。今日日簡単にふたを開けられないように対策してあった。
そして、ものすごい手がかりを見つけた。
それなりに大きい第一公園の滑り台を下ったところ。多少の窪みに、砂場は人が見当たらない。普段であればむしろ逆の行動をとっただろうが、嗣平は近づいて、ゆっくりと覗き込んだ。
嬉々とした。狂喜に震えた。目が爛々と輝いた。
その視線の先。
そして、そこにはあった。
かぴかぴの、うんこ。
だが、ふと冷静になって、気が付く。
嗣平は肩を落とした。頭を抱えてフルフルと振った。
誰もいなくてよかったと思う。
猫はどいつも、うんこをする。
気づけば、また振り出しに戻っていた。
***
やはり、疲れているのかもしれない。
何しろ、9日、10日、11日、そして今日12日と休みなく動いている。授業中に体力回復に努めたとはいえ、問題の解決に近づけないという焦りが日に日に募っていく。猫の飼い主を見つけるどころか、猫まで消える。体がメンテナンスを欲しているみたいに、嗣平は時々つんのめっては持ち直していた。
と、
『みゃお』
この呪いの声は、忘れた頃にやってくる。
あの子猫の模様が浮かぶ。しろに茶に黒。三毛猫だった。
嗣平はズカズカと歩き始めた。
それらしき猫は一度も確認できていない。
『みゃお』
可哀相に鳴きはじめる。その声に応えるように、こちらへおいでと念じてみる。 記憶の中にいる子猫は、その問いかけに、ぷいとそっぽを向いた。関心がないわけではないらしい。返事がない。まるで、その小さな背中は何か違う物に立ち向かおうと――
「そいつ捕まえろ!」
肩口から切り込むような大声に、嗣平は引き戻された。
夕方のT字路の手前、交差路にあたる道。ふと背後に気配を得た。思考が判断を下すより早く、動く何かを視界が捉え、動作を留めるべく手を下す。
もこ。
――もこ?
「みゃお」
――みゃお?
突如、上から声が降ってきた。見上げる。
太陽と重なり逆光となってはっきり見えないが、男が覗きこんでいる。
「おー。ナイスキャッチ」
さきほどの声の主であると、声色から判断が付いた。
「え、ええと。どうも。それで、なんですかこれ」
その男は既に2匹猫を抱えていた。無茶苦茶暴れまくられたらしい。スーツが毛だらけのみならず、ほつれた痕が妙に生々しかった。あ、噛み付かれた。
男は気にもしてないようだった。
「見ての通りだよ。子猫」
「――あの、そうじゃなくて」
屈んでいた嗣平はそう言いながら、立ち上がり膝を伸ばした。
男の身長は思ったより高い。180は確実にある。無精ひげにタバコがよく似合っている中肉で、髪が真ん中で別れている。
「聞け」
有無を言わせぬその凄味に、嗣平は一歩後ずさった。
「いいか。こいつは橘台のはずれにある研究施設から脱走した兵器だ。いやあ、こいつがやばい。対人殺傷用に生育された連中だ。逃がしたらしゃれならん。お前の右手なんか一瞬で消し飛ぶ」
「け、けしと、」
抱え込んでいる子猫を落としそうになる。
見ると、男の手に噛み付いていた猫が、男に威嚇を始めた。
「さらに、なんとすごいのが、敵を自分で認識する。その対象には徹底して攻撃を繰り返す。そうなったらそいつが生命活動を終えるまでは解決しない。こんなのが野生化してみろ。国が一つ滅ぶぞ」
「そんな話! 信じられるわけ、」
ない、と言おうとして、
「ま、ないわな」
男は急に相好を崩した。
「何本気にしてるんだよ。あるはずないだろそんな話」
嗣平からは返答がない。プルプルと震えている。手に持った子猫がその顔をじっと見つめているのに気が付いていない。
への字にした口をおっぴろげて、
「馬鹿にしてんのかおっさん!」
「うん」
「う」
「ま、怒るなって、後でお礼はする」
膨れた嗣平が男を睨みつける。
「さっきの話」
「ああ」
「おじさん、めちゃくちゃ猫に嫌われてる」
「あはははは。女には苦労しないんだがな!」
「真っ先に、腕、無くなるよ」
その男は噴き出した。
「そこ、笑うところなの?」
「いやあ、お前なんだか昔の俺に似てる」
うれしくない。
「おじさん、猫返すよ」
「ちょっと待て、お礼何にするか考えるから」
人の話を聞いちゃいないし。
え、なに、若いころのこの人と似てるって、俺将来この人みたいになるの?
将来を悲観し始める嗣平に、その男は笑って、言おうとした。
「だから――」
場の空気が一変した。
男がT字路の横棒の書き出しに視線を向ける。その腕に抱えられた二匹の猫が射抜くような視線でその男に倣っている。
気づけば、嗣平の手の子猫も同様の方角を見ていた。
嗣平も見ようとして、
「動くな」
首筋に刃物の冷たさに似た、ひやりとした感触があった。
横目で男を見る。
子猫を持っていない左手で首筋に触れる。何もない。
「――お前、そいつとここにいろ」
返事もできずにいるうち、男は横を通り過ぎる。
声を掛けようとようやく思えたとき、その姿はすでになかった。
間。
「はあぁぁぁぁぁ」
大きなため息が先、それから嗣平は腰から砕けた。べっとりと、女すわりのようにして地面に、すとんと落ちた。
――なんだなんだなんだなんだ!?
何なんだあの変な男。笑えないジョーク言ったかと思うと急に殺し屋みたいな据わった目をして脅迫してきてしかも、
「みゃお」
急に冷静になるのも考え物である。
――この猫、どうすればいいんだろ。
まさか、この猫を連れて奏に「代わりです」なんて言うわけにもいくまい。三毛ではないが、白と茶のメインクーンも人気はある猫だ。だからと言って、そんなこと言えば、「一つ一つの命に代わりもクソもあるか」とかまされること間違いなしだ。
ようやく腑抜けた体のコントロールが戻ってきたことを確認し、嗣平は立ち上がった。何が動くなだ。ここにいろだと? あのおっさん、勝手なことばかり――
刺された、耳を、2回――
肉がはじけるような破裂音がつんざいた。
肉がはじけるような破裂音がつんざいた。
――ような気がしたが耳は無事だった。
2回生じた破裂音を例えるならそうとしか嗣平には思えなかった。その音に驚愕し、しかし本能的にか子猫を守るように身を丸めて抱え込んだ。
――お前の右手なんか一瞬で消し飛ぶ。
嘘であると決めたはずの言葉が蘇る。まさしくその音の根源は肉だと決めつけていた。ふと思う。あの男の両手、あるはずのモノがない、辺り一面に散らばる赤
右肩に、抉り込み引き裂かれるような刺激、差し込まれたナイフが咥えた肉を噛み千切る、そんな痛みが。
恐ろしくなって、自分が逃げ出していたことに気が付いたのは、30分経ってからだった。
全力疾走をしたせいだけではあるまい。動機と呼吸は未だ整う見込みがまるでなかった。肺に砂を詰め込まれたようにくるしい。咥内が粘ついて何度も唾液を飲み干して、また呼吸を整えた。汗が全身を舐めるように溢れつくして未だ止まない。
今、狭い飲食店の裏の路地に左手をついて、嗣平は思い返した。
何一つ理解できなかった。
「みゃお」
いつの間にか、白茶の子猫は足元に寄ってきていた。スラックスに手を出した。嗣平はそれを気にせずただ手をついたまま呼吸以外の動作をしない。
仄暗い薄い空気を、ただ取り入れ吐き出すだけに、その1時間は費やされた。




