003 兆候 その1
とてもじゃないが、近寄る状況ではなかった。
自己紹介の後、どこからともなくやってきたクラスメイト達は、彼女の席を包囲した。矢継ぎ早に、質問を浴びせにかかっている。これじゃあ、まるで動物園の動物状態に思える。
会話の尻尾は嗣平たちの耳にも届く。
どこから来たのか、何が好きで何がなにやら、等々……。それを受け答えする転校生――小山内柚瑠の態度は、それにしても見事であると嗣平は思った。
お決まりの笑顔に周囲もつられ、教室の隅にまで明るい空気を発散していく。感心する。この状況において、新入りが打つ手を間違えることは、即学生生活の終焉を意味するのだ。
だからこそ、小山内はきっと手を心得ているのだろう。おそらく一度や二度では済まないはずだ。自身も一度転校を経験したから、嗣平にはよくわかる。通常は、毎度緊張するのが普通だ。それだけに、引っかかるものを覚えたところ、
「おまえ、どう思う?」
和也が保に尋ねた。保が適当に答えると、次は嗣平に飛んできた。
「つぐ、元転校生の立場から、一言」
「すごいな、の一言に尽きるね」
和也も保も肯いた。
「そうさねえ。授業の合間、短い休み時間によくも人が集まるもんだ。で、」
和也が手招いている。
保と嗣平が距離をすぼめる。すると、
「好みのタイプかね?」
「――ばか」
嗣平はそう言うと身を起こした。
「お前、俺の好みのタイプ知ってるだろ」
「うん。きれいなお姉さん、だっけ?」
保が付け加えた。
「それとポニーテール」
「そうだよ。わかってるんじゃないの。だったら、もう次の移動教室行こう。遅刻しちまうぜ」
嗣平が時計を指差した。二人は猫じゃらしを追う猫のように、時計へと視線を向けた。
「あらやだ。結構な時間じゃないの。用意してねえや」
和也が急いで机をまさぐり始める。
一方、保は既に用意万端、
「次、青木だぜ。ほーら早くしないと、留年だな」
返事がない。
あれ、おかしい、ここじゃない、こっちか、と、和也はバッグに手を掛けた。
その背後。
「おっし、じゃあ行っちまうか。ほら行こう嗣平」
「おう。行くか」
二人、教室を抜けていく。むしろ早足で廊下へと逃れ、曲がり角からこっそりと教室内を窺う。はたから見れば不審者であるように見える。
その理由は簡単、二人はにやけ顔。
教室内から声が伝った。
「あったー!」
和也の喜んだ声。
しかし束の間、和也は振り向いたまま固まった。はっとして、覗く二人に気が付いた。見つかった、と慌てて逃げる二人。
「――って、おいおい、ちょっと待てよー! おいてくなよー!」
***
昼休みになったが、今日は奏は姿を見せなかった。
当然だろうな、と嗣平は思う。そして、言葉をかけてやれない自分も情けない。
運がいいことに、保も和也もそうした嗣平には気が付いていないようだった。仮に、仮にの話になるが、気が付いていたとして、何かを言ったとも思わない。だから、信用が置けるのだ――そう嗣平は実は思っている。
昼休みも佳境に入ると突然和也が喚きだした。
「腹減った」
「は?」
「腹減った」
「今食ったじゃん」
「でも、腹減った」
保がその意見に同意した。
「は?」
じゃ、こうしよう――それは解決法と言うより、強制執行に近い。要は、多数決である。
簡単に勝敗は決した。
「ほら、2対1」
和也の勝ち誇る顔。嗣平は口を尖らせる。
「はあ。ったく、まだ恨んでんのかよ。4限前の」
「ほられっつごー。はいはい教室を出ます。廊下を渡ります。階段を降ります」
あほらしい。教室、廊下、階段、次はきっと通路とでもいうのだろう。
「通路」
「恥ずかしいからやめろよっと」
バスガイド気取りの和也を保が後ろから黙らせようとしている。
その後ろ、いいぞその調子だ保がんばれと嗣平が思ったその時、
「杉内先輩だ」
久々に聞く声だった。振り向いて声の主を嗣平は捉えた。
一段下の段差。サンダルは一学年下の緑色。もちろんブレザーにスカート。
「――鈴木、か。何か用か」
鈴木。こいつも部活の後輩だった。近頃めっきり顔を合わせないのは、所詮それだけの関係だったのだ、と嗣平は考えている。
鈴木はそんなことまるでお構いなしのようだった。
「久しぶりに見たんで、挨拶をしとこうかと!」
「別に、もう上下関係特にないだろ? 俺は部活抜けた人間だぞ」
「うわ、冷た~」
鈴木という女子生徒の顔がむくれている。
「じゃあ、ちょっと一つだけなんで、聞いていいですか?」
階段の下では、保も和也も既に後姿が小さくなっている。
「早く頼むな」
鈴木が踊り場まで上がったので、嗣平もそれに倣った。
「で、何」
「真と何かあったでしょう?」
――話が早い。
話が伝わるのも早いが、鈴木のノータイムでの返答も早い。
その割に嗣平は、考える限りベストの返答に成功できた。
「何もないけど」
「うっそだあ。だって、真、めちゃくちゃですよ。暇さえあれば練習、練習。付き合うこっちが持ちません」
「練習熱心でいいじゃないか」
「現状が問題なんじゃありません。その原因について聞いてるんです。解決するには違う手段が必要なんです。いいですか? あの子がああなるのは決まって先輩関連です。中学もそうです。高一の時もそう。だから、何とかしてください」
だから、と言われても困る。
と、伝えたところで意味はないと嗣平は思う。階段の向こう、既に背中も見えない和也と保は後回しにせざるを得ない。この場を逃れる答えは一つ。そして、自分もそうするつもりだったのだから、別に嘘をつくでもない。
鈴木の顔を直視する。
「ま、考えておくよ」
うんうんと鈴木は肯いて、
「本当ですね? じゃあ、」
「ねえー。たかこー。いつまで待たせる……」
聞いたことのある声。
鈴木のやっちまった、という表情の後ろ、階段の下に姿を現した真の表情が曇った。無言でつかつかと歩み寄り、鈴木の手を掴み、無碍なく、
「行こ」
「ちょ、真、先輩にあいさつくらいしなよ」
鈴木は顔を嗣平に向けたまま真を留めようとする。顎で絶えず合図を送る。
いきなりあてにされても困る。嗣平は首を振る。
それでも、鈴木の努力が勝ったらしい。
ぱっ。
真が手を放した。ゆらり、一度だけふらついたが、すぐに姿勢を取り戻した。
踊り場にいる鈴木を見、それから嗣平を睨みつける。
「どうも」
「……おう」
「じゃ」
こうなるとお手上げである。
意識の外であの日、保健室の衝突が蘇る。俯く。昨日にしてもそうだ。朝、校門での無視。鈴木がその件まで知ってるとは思えない。彼女は、あくまで練習に打ち込む真からその原因を探ったに過ぎない。だから、その原因を突き止めたとて、それは原因でしかない。
――だから、まず、鈴木には先にその辺の事情を理解してもらおう。
そう嗣平が考えて、面を上げたときだった。
「真、あぶない!」
粕谷真が宙に浮いている。
否、落ちているのだ。
鈴木の驚いた表情をとらえたとき、既に嗣平は落下地点へ回り込んでいた。腕を折りたたみ、重心によるタメを腰元に迎える。スローモーションに映る、足を滑らせた真の体を迎えるに、一秒も余裕はない。
衝撃。
間合いが遠かったのもあってか、耐え切れず嗣平は背中から地面へ落ちた。
「っつう。……真、大丈夫か!?」
肯いた。意識はある。
「先輩、右肩!」
――右肩。
鈴木の口にしたその単語に、あの日の光景が呼び起される。抉り込み引き裂かれるような刺激、差し込まれたナイフが咥えた肉を噛み千切る、そんな痛みが、
――ない。
「大丈夫。それより!」
「はい!」
急いで真を運び降ろす。保健室まで、二人で肩に背負う形でタイミングを合わせる。
「――だ、だいじょうぶ、ですって」
か細い真の声。鈴木が睨む。
「いいから。何かあってからじゃ、遅いんだってば!」
嗣平も声をかける。
「ちょっと我慢しろよ」
その問いに、囁くように「はい」という声がする。
階段の上では騒ぎを嗅ぎつけた生徒が集い始めていた。中には関係者を見、もつれ話だと茶化す生徒、本気で心配そうな女生徒、遅れてやってきたことを嘆く生徒、さ迷いはじめる事故の全貌に収拾はしばらくつかなかった。
その中から一人、流れをかき分け、階段を下る生徒がいた。
踊り場、段差、何かを視線で追う。
数度、指で地面をなぞった。降り注ぐ視線を感じたか、踊り場から見上げ、ほほ笑んだ。
そして、その眼を引く格好の少女は、何事もなかったようにその場を離れた。
***
「寝かせて」
萩原のその指示に従い、二人で協力しベッドへと真を運び入れた。
「あのー。大丈夫ですって。ちょっとたまたま――」
そんな真の駄々を萩原が嗤う。
「たまたま。あ、そう。大丈夫ねはいはい。でも、それを判断するのが私の仕事だから。堪忍なさい」
萩原は口もそうだが、手もよく動く。二人から事情を聞き取りしながら、真の脈を図り、意識を問い、姿勢をいじくり痛みのないことを確認した。手際よく動くその振る舞いが普段と違い、真剣さを帯びているように見える。
「はい」
終わったらしい。
仮病ではないね、と萩原は言った。嗣平を見て、
「あんたはよく仮病使うけど」
「大丈夫なんですか? 真」
意外そうな表情、のち、
「まあね。軽い貧血症状。どうせ若さに余って自分を痛めつけてんでしょ」
――なぜわかるのだろう。
そんなこと構わず、嗣平の横に突っ立っていた鈴木が一歩進み出た。
「すぐ、治りそうですか」
「うん。でも、今日は安静にしとかないとね。出来たら明日も。一応、こっちで後は引きうけるから、あんたたちは授業戻りな」
時計は既に、昼休みの終わりを告げている。
真の方が気にかかる。視線を移せば、やはり顔色はよろしくない。時折ため息の混じる呼吸に、ふと大きいものが混じっている。萩原の言葉を信じないわけではないが、少々不安は残る。
「じゃあ、私、行きます。真、ゆっくりしていきなね」
鈴木が戸を開いた音。
萩原が立ち上がり嗣平を掃き出そうとする。
「ほら、あんたも早く――」
背中から手の感触が離れた。
「――ああ、そうだ」
「?」
「杉内、あんたはちょっと用事があるからやっぱ残って」
鈴木が戸を閉め切った音。
萩原に促され、ベッドからほど遠い、窓際のオフィスチェアに腰掛ける。萩原はパイプ椅子を隅っこから持ち出し、ギシリと座った。
「ちょっと、聞きたいこと。まず、最近変なことなかった? 何でもいいから」
「変っていうと? 不審者とかですか?」
「うん。まあそれもそうだけど、何かが消えたとか、何かが増えたとか」
萩原はそういうとペンとメモ帳を取り出し、笑みを浮かべる。
「最近大変なのよこっちも。盗難だの、防犯対策、見回り、面倒臭い手続き、その他もろもろ」
「は、はあ」
「困ってることとか、心配事とかでもいいの」
「えーと、じゃあ、あの、まあ、」
「あるなら早く」
口にする前に整理すべきだ。嗣平の把握している分だけをゆっくりとなぞっても、そう時間を取る必要はなかった。和也の件はおそらく解決だ。真の件は、……今はそんな状態ではないだろう。となると、当面の問題はやはり奏の持ち込んできた件だ。
「あの、猫って、どう思います?」
「猫? 食うには不味いって聞くけど」
「違いますよ。ええとですね」
嗣平は掻い摘んで萩原に話した。野良猫がいること。その飼い主を捜していること。IDの確認には大人の合意を必要としていること。新たな飼い主は見つかっていないこと。そして、
そこまで伝えて、嗣平は押し黙った。
昨夜の声、表情、その肩の震え。
昨夜の奏が突如脳裏をかすめる。
「――どうした?」
萩原に顔をぺしぺしされた。
「いや、それが」
「じゃあ、ちょっとこっちからも聞いていい?」
「……はい」
萩原が再び腰掛けると、パイプ椅子がしなりを上げる。
「その猫は一匹?」
「はい」
「柄は?」
「三毛、のオスです」
「初めて見つけたのはいつ?」
「えーと、いつだろう。あれは――」
「ほかに、誰かにこのこと言った?」
「え? あ、俺が見つけたのは9日、9」
「あなた、誰かに見つめられている気配とか感じる?」
「うん? 何をいったい――」
「もしここでテロリストが侵入してきたら以下のうち何を手に取る? はさみ。椅子。薬品。金属バット」
無言。
「今朝見た夢は? 悪夢? 思い出? フロイト夢分析による類型に当てはまる?」
「先生――?」
「今の自分を形成するものは何? 身長から体重を引いた残りは? 十年後、自分は何をしていると思う? 転校の時、なんて言って、自己紹介したか覚えてる?」
「そ、それは、」
「ポケットの中の物、全部出して」
昨日の朝以来、ジャケットの中に、あれが入っている。
汗が伝う。萩原の質問の意図がまるでつかめない。そして、最後の言葉以来、一言も発しないという異常空間に、普段の萩原とは別人がいるのだと錯覚をするにまで嗣平は至る。
しかし、あれ――四角い拾得物は、どうあがいても萩原と結び付かない。
萩原の命令に理屈をこねれば、恐らくこうだ。
杉内嗣平は、盗難事件の容疑者として疑われている。
そう考えると、さっきの質問は全部ブラフだ。ポケットの中身を出し、あの四角い奴だけ何か別に理由をでっち上げればいいだろう。適当に和也が作っただの、おまじないだので乗り切ろう。
嗣平は一つ一つポケットを探り、四角い奴以外、机の上に並べた。
「本当に、全部?」
その質問が来た時漸く、嗣平はジャケットの内ポケットに手を差し込んだ。
右手の指先で拾い、握りながら、その言い訳を考えようとする。言葉を選ぶ。
その必要はなかった。
「――ッ!!」
声を上げることもできなかった。
その代わりに、締まるような音が嗣平の喉から漏れた。
異変は右手。万力の様な力は女性の物とは思えない。
萩原は恐るべき速さと力で嗣平の手首をつかみ上げている。
「それ、どこで入手した?」
――間違いない。
四角のことを萩原は知っている。
「正直に言いな」
締め上げる力が強まるたび、嗣平の表情が苦痛にゆがむ。
「言う! 言うから! 痛い、痛いって!」
「どこ?」
「いたい! 手。右手痛い!」
「違う。入手場所は?」
鬼のような表情が萩原の顔に張り付いている。
「駅! 橘台!」
萩原は圧迫を少し緩めた。
「時間は?」
「1時半くらい! いたいいたい!」
緩める。
「入手経緯」
「お、落し物だよ! ほらあの、セーラー服の!」
口にしてから、嗣平は気が付く。
もし、萩原が転入生のことを知っていなければ?
知っていても、セーラー服だなんて知らなければ?
その先は右手のさらなる痛みを伴う。だから、慌てて付け足した。
「あの! 俺の! クラスの転入生! あいつが――」
「そう」
離される。
力を失った飛行機のように、嗣平の右手がだらりと垂れた。その手から四角が落ちる。
萩原はしばらく眺めたのち、拾い上げあげた。
「そういう事なら、これは、私が預かっておきます。いい? このことは他の人に言わないこと。わかった?」
嗣平は何度も首を縦に振る。いまだに表情が歪んでいる。
「よろしい。それと、ごめん。痛かったでしょ?」
そう問いかける萩原の表情は、いつもの萩原だった。
「痛――あれ?」
右手首に包んでいた指を花弁のように開いていく。
ない。
あれほどの痛みに対して、痣も、赤くうっ血してもいない。
嗣平は視線を再度萩原へ向ける。
「痛くない」
何か腑に落ちない。
おかしい。自分は何かマジックに引っかかったのだろうか。
不思議そうに何度も手首に巻いては緩める。が、まったく変わるところがなかった。そのうちに萩原が口をはさんだ。
「ま、忘れることね」
「――はい」
そうとしか今の嗣平には返答できなかった。
「で、その、さっきの猫の件だけどさ、それであんたと海田さん、校内うろちょろしてたの?」
いまだに手が気になるそぶりを見せつつも、嗣平は向き合った。
「うん」
「ま、ほどほどにしときなよ。知ってるだろ? 校内で盗難が相次いでるって。だから、あんまり放課後にうろちょろしないこと。いいね? 言い訳できないから。今ピリピリしてんだから先生方も」
「そ、それは、ええと」
萩原が次の言葉を待っている。が、嗣平がその先を口にせずにいる。
「――別に他人に言いやしないよ」
「え?」
「それに、IDの確認したいなら、私の名前を貸してもいい。だから、」
「いや、そうじゃなくて、」
「うん? ……何、思いつめた顔してんの?」
自分ではわからなかった。薬品の戸棚を鏡に自分を見てみる。確かに思いつめている男がいた。
「言いたくないなら、いいよ」
萩原はそう嗣平を諭した。
上が下に対して見せる、譲する態度は17,18のガキには到底出せない。萩原的には、それは自分がもう若くはないという事の裏返しであると思うこともある。時折落ち込む。だが、そうして見る若人はウェルテルを見ているようで嫌いではない、と思う事の方が今は多い。
だから、返事はないならないでよかったのである。
しかし、ちゃんと返ってきた。
「逃げたんだ、猫」
嗣平の声はどこか憂いを感じさせるものだった。
だが、萩原は次の言葉の方に深刻さを読み取った、とのちに回想している。
「俺、何もしてやれなかった。奏に」




