002 はじまり その2
4月10日、時刻は既に14時を回っていた。
翌六限開始時刻までは30分。何事もなく事が運ぶと仮定して、しばし、時間的余白を取ることができる。
閑散とした登り方面の電車は、通常通りの運行を続けていた。
杉内嗣平が今いるこの車両は全15両編成の10両目に位置している。習慣というのは恐ろしいものだ。無意識にも、降車駅で階段に最寄となるような車両へと乗車、座席に腰掛けている。よくもみみっちい生活感が身についたものである。
その意識の根源に、少女の涙が刻まれていた。
思う。
――あれは、欠伸による不可抗力だったのではないか。
しかし、思う。
――あれは、目にゴミが入ってしまったのではないか。
いや、思うに、
――あれは、……。
つまりは、堂々巡りである。
しかし、結論は得られた。すなわち、己が見た涙の理由、それは何ら特別なものではない、という結論である。
考えすぎだと思う。いろんな物語の見すぎだ。お前は探偵にでもなったつもりか。自分だってあくびくらいするではないか。変な恰好の女だからとて、中身が変とは限らない。
どこかで、気持ちの整理をする必要があった。
嗣平は嘆息した。
「やめやめ」
思考を中断し、電車内から窓の外を覗いた。既に一度帰宅を終え、しっかりと課題を回収し、何ら問題なく6限の青木の鼻を明かすことはできる体勢が整っている。
電光板が点滅、次の駅名を表示し消えた。そのもいっこ先が高校の最寄駅である。
しかし疑念は後になるほど冴えわたる。
そもそも、あの後の対応を考えてみろ。
夏服の少女は目を覚ますと自分と目を合わせた。その眼に涙など露知らず。目元をぬぐう代わりに、見事な笑みを浮かべた。それはもう戦場の兵士であれば間違いなくネタに使うほどの魅力的な笑顔だった。
だがその表情の裏に見えたものがある。
――不安?
だから、次にとられた態度に少々違和感を嗣平は持った。
少女は足元の荷物を順繰りに持ち直し担いだ。リュック、キャリーバッグと順を追って、最後の手提げバッグに手を掛けた際、
「何か、顔についてます?」
なんとも情けないことに、自分がなんと言ったのか覚えがない。
きっと、「え、い、いや、無いです」とか、「用とかそんなんじゃなくて、ただベンチに座ろうかと思って」だとか、脳より先に口を動かしたんだと思う。
そして次の風が室内を舐めるように吹いた、その時には――
「……だれも、いなかったんだよなあ……」
閑散としている車内は珍しい。その分、広い座席を活用できるのはよかった。嗣平はポケットの中を探った。指先を数回あそばせる。触れた。簡単に見つかったので、拾い上げつかんだ指をゆっくりと開く。今、手の中にあるもの。
四角い細長いストラップだった。
ホテルや旅館のカギについているような形状とでも言えばいいのか。縦10㎝、横3cmほどで、角が一つ潰れて丸い。見れば見るほど、その目的がわからない。おもてうらでもあるのだろうか。
彼女の残した、唯一の手がかりも、こうなってしまうと形無しである。
あれだけの荷物だ。両手がふさがっていた上、足元はよく見えなかったのだろう。ぽつねんと四角いストラップは落ちていた。本来であれば、落し物として届け出るべきだったし、嗣平は当然そう思った。だから、別に言い訳をするわけでもないが――と脳内で一人釈明をする。
――駅員に渡そう。
少なくとも、その時はそう思ったのだ。
その時だった。
スピーカーから機械音声が流れる――『ホーム内に電車が参ります』。
そこからは早かった。
嗣平は振り向いて、電光掲示板を眺めた。既に二十四分。急いで改札を抜けた。その手に握りしめた四角を持ったままと気が付かず、気が付けば電車に乗り込んでいた。
釈明終わり。今に至る。
と、いうわけで、手元には四角がある。眺めながら、嗣平は再びごちた。
「どうすっかなあ」
景色の移ろいが段々と緩慢になっていく。嗣平のつぶやきなんか存在しないかのような音量で、アナウンスが告げた。
『次は、橘台、お出口は~』
***
「よろしく」
奏のその言葉に、嗣平は無言を貫いている。放課後を迎え、荷物を持ち帰ろうと教室を一歩出たとき、
「よ・ろ・し・く」
お前は週刊誌の記者か。
先回りした奏に、嗣平はグイと身を乗り出し避け置き去る。また前に現れる。素早く右に避けて通りぬける。させじと、今度は横に並びかえる。
それ以来、昇降口へ向かう廊下を二人進んでいた。
奏は練り歩く嗣平を肘でつつく。
「ほら、約束は約束でしょ。男らしくなさいな」
無言。
「ねえ、聞いてる?」
無言。
「あ、青木先生」
ぴく。
奏は鼻で笑った。
「ほら、やっぱり聞こえてるじゃん」
なぜだろう。相手にしたら負けな気がする。
それだけの理由で、意地を張るのはガキだと自分でもわかってはいる。
もちろん、駅での件のこともある。夏服少女は奏よりもう少し背は高かったと思う。声はやや冷たい感じがした。奏は明るいから正反対だ。こいつはどっちかっていえば「かわいい」タイプだが、向こうは「綺麗」って感じがする。この男、いつの間にか始めた幼馴染との比較に自分で気が付いていない。奏の全身を舐めるように見ていた。ふむ。こいつも成長してきおるな、などと思っていたのだから救えない。
階段にさしかかったところで、横に会った気配が消えた。
背中越しに視線を感じるようになった。奏は立ち止ったらしい。何となく不気味だ。
すでに階段の踊り場にまで来ていた嗣平も立ち止る。
間。
そのとき、ぷっつんという音がした気がする。何を感じ取ったか、奏の表情がひきつったのではないかと想像が及ぶ。それが極一瞬で表情は上書きされたのは、恐らく間違っていないだろう。
笑む奏に見下ろされている――?
嫌な予感。
間。
嫌な間だ。恐る恐る見上げると、奏が口を開いた。
「……あんまり黙ってると、10歳の頃、夕ちゃんにお医者さんごっこと称して」
「ストーップストーップ! 何でも申し付けください奏さんだからそれは勘弁」
直立不動。背筋が伸びる。降伏宣言は魔の呪詛だ。
高圧的に奏はほほ笑む。
「相変わらず、死ななば治らない性根――略して死す根」
「――もしかして、シスコン、っていってる?」
「妹に甘いよね」
「……それよか本題はなんでしょうか奏さん」
後で覚えとけ、と視線でなじり、嗣平が右手を伸ばす。奇妙なポーズで固まる。
「……その格さんみたいなポーズ、止めて。なんかやだ。ああ、もう」
ため息づく音。不快さはない。話がずれてっちゃうしっかり私、とぼやき、
「で、何か、いいアイデア思いついた?」
そう言った後、奏は歩くのを再開した。
が、
「あ」
カックンとしたのが見えた。
奏は足を滑らせこけた。前のめりに宙に浮いたような一瞬。のち、
「うお」
運が良かった。下にいた嗣平は手で支え、奏の体重を肩代わりできた。踊り場まで一段のところ、奏はゆっくり体勢を立て直す。
「痛ったあ」
「おいおい。大丈夫か。それで昨日高松が病院送りなったってHRでも言ってたろ」
「大丈夫大丈夫。怪我してない。それより、さっきの続き!」
もちろん、奏の言う「さっきの続き」とは、猫の飼い主探しについてである。
実は、電車内で既に奏からの連絡があった。新たな飼い主となる人は未だ現われていないらしい。だから放課後までに何か考えておいて。
当然考えてるわけがない。
まあ、考えてもいい案は思い浮びやしないだろう。だから嗣平は、
「前も言ったけど、確認はした方がいいんじゃないか」
「と、言うと?」
「ほら、保健管理所まで行かなくても、役所行けばIDの確認できるって、向かいの佐々木のおばさんがペルの話をしてる時に、ぽろっと言ってた記憶ある」
前日にもおんなじ話をした記憶がある。奏からしてみれば、された記憶だろう。奏は奏で幾人かに猫の貰い手をかけあっている。一応奏が当った人の中に、似たような答えをした同級生もいたはずだ。だからこそ、
「――ほかにないの?」
嗣平、
「ない」
こうなると平行線である。とはいえ、手当たり次第、っていうわけにもいくまい――そう奏を回心させるのは比較的容易かった。いくつか言葉を交わすと、奏は一言、
「わかった」
各自の下駄箱に向かうと、嗣平は上履きのスリッパを乱雑にしまった。スニーカーに履きかえ追えた時、奏が先に校舎外へ出たのが見えた。ほどけた靴ひもに気が付く。屈んで窺い見ると、何やら様子がおかしい。
何かを思い出したらしい。
奏はふわりと振り向きかえった。
何度か逡巡したのち、悪戯なほほ笑みを嗣平に向けた。
「あ、あのね」
「おう。何か作戦変更かー?」
「ちがくて、」
そう尻込みする奏の目に切実な色があった。やがて嗣平が言葉を口にしようとするまでは押し黙ろうとしているようにも見える。キョロキョロ挙動不審だ。誰も周囲に居ないことを確認したらしい。うん、と肯いた。
――何を、口にするんだろう。
嗣平まで緊張し始めた。
身じろぎすると、奏は髪を耳にかける所作をした。はらりと髪が落ちると嗣平に視線を向けた。子供みたいに奏は言った。
「階段で助けてくれて、ありがと」
……。
「そ、それだけ! 言い忘れてたから!」
それきり二手に分かれ、奏は駆け足で離れていく。
――ガキかよ、まったく。
嗣平はすくっと立ち上がる。靴ひもは結べていない。役所へと赴くバスへ向かい歩き出す。ただただ歩く。
誰にも見られてはいなかったはずだ、と思う。
よかった、と思う。
ニヤケ男、ここに極まれり。
***
高校を出たのち、100mほどを道なりに進めば、国道に出ることができる。バス停はさらにそこから60mほど北にある。向かうと「高校前」という名前と出会う。制服姿はあまり見ない。というのも、たいていの生徒は自転車、もしくは駅から歩いてくるためだ。なにしろこの路線、不思議なことに駅を経由しないという、狂気を孕んだ設計である。それで時間当たり3本走っているのだから、採算の方が非常に気になる。
今はそのダイヤがありがたい。
嗣平は5分ほど待って、そのバスに乗車した。
高校前から6つ北上したバス停に「市役所前」がある。徒歩で行けば30分くらいはかかると思う。バスなら10分もかからない。
そのとおり、約8分で「市役所前」のアナウンスがあった。
200円を支払う。他に降車する人はいなかった。
「さて」
それなりに巨大な省庁を前にして、そのわりに寂しい印象を持つのは、あまり人の出入りが激しくないからだ。周囲にはコンビニもないし、飲食店もない。あるのはただ閑静な住宅街と、これまたうらぶれた公園だけある。駐車場にはそれなりに高価な車が見える。いったい誰のものだろう。
庁舎の入り口へ、嗣平は向きかえる。
「それじゃ、行きますか」
建物に、嗣平は一歩踏み入れた。
つまり、保護者、もしくは、担当の方の署名が必要なのね。
ほら、一応行政機関によるナンバー制度の一環として、ペットのIDも取り入れられているのね。うん、わかるよね。
だから、まず、申請者本人の署名、住所や連絡先もそうだし、印鑑。あと、保護者の署名、印鑑。プラスで、その猫との関係――拾ったのであればその旨を記載して、今後の計画を立てたうえでないと、その書類を受理できないんですよね。
計画って何かって?
ええと、簡単に言うと3つ。
1、拾った場合。それを飼うことに決まったのなら、去勢とかワクチン接種とか、
――つまり、動物病院ですか?
うん。まあ、そういうのができることの確証を取れ次第、IDを新しくすることができるの。しないこともできます。けど、変更する人が多いね。
2、もともと飼っていたが、他人に譲渡する場合。その場合も同様。行き先があるから、権利関係の処理が終われば、IDを変えるも変えないも自由ね。まあ、めどが立ちやすいから、これは問題になりにくいんだ。
そして、一番多いのが、3、拾ったけど、飼わない――つまり、保健所行き。一応、IDを確認して、所有者が資格を喪失している場合、公募で募ることが可能なの。保健所で。通常の里親探しと異なるルートだけどね。IDがなければ、通常の里親探すルート。で、どうするかは拾った人が決めるわけ。何だか行政って無責任って思うかもしれないけど、これも税金で運用されてるからね。すべての命を救うってことも難しいのよね。あ、ごめんなさい、なんかエラそうね。
で、一応もしあなたがちゃんと考えているのであれば、親御さんにお願いして、こちらの書類を提出してくれるとこちらも助かるのね。
――もし、僕が出さないと?
大きな声で言えないけど、ここ、オフレコで。
見なかったことにする。ID制度は欠陥だらけ。昔のように直接保健所へ「捨て猫がいる」って言えば、そっちで全部やってくれる。
――。
まあ、よく考えてみてね。
市役所のロビーにある観葉植物から、ぼんやりと庁舎内を見渡していた。
もう20分になる。嗣平は役所の若い担当者から説明を受けた。というより、諭されたというのが正解のような気がする。不思議と怒りがわいてこない。ただ、無気力な気分に陥るだけだった。
嗣平はブラックコーヒーを一度口に含んだ。苦味がいまいち実感として湧かない。何かに救いを求めるように、もう一度口に含んで飲み干す。
「奏に、なんて言うかな……」
何しろ、あいつのことだ。どうせ「可哀相」が第一にあって、自分に多少の犠牲を伴ったとして、猫の現実的な保護案やその先を詰めるなど不可能だろう。力及ばず、猫は保健所に引き取られ、奏は悲嘆にくれるのが想像できる。当の本猫――あの猫は理解などせず、鳴くだろうか。それがむしろ、如何にも死に行く感じを与える。車で手元を後にし、その日はきっと眠れない。数日後、ようやく忘れたころに、野良猫に出会う。その猫が引き金だ。三日は居残り続ける。心に。一声も泣きなどせず、こちらを見続ける。恐らくもう出会う事のない、記憶の中の猫が。如何にも静かな感じを与える。
淋しい。
嗣平は、いやに焦った表情で妄想を打ち消した。
「いや、本当に、なんて言おう……」
とりあえず、何時までもこうしてはいられない。嗣平は缶を捨てる先を探す。自販機のあった奥の方へまた戻ってもいいが、たぶんトイレの方にもあると思う。コーヒー飲むとどうも近くなるし、立ち上がってトイレへ向かった。
なかった。
親指と人差し指で缶をプラプラさせる。しょうがないから奥へ行こう。
そう思った時だった。
ふと、見慣れた顔が見つかった。
「あれ」
余所行きの格好だったからか、初見では見逃した。が、確かに、
「あれ、萩ちゃん、だよな」
萩原貴子、29歳、保険医。白衣を着ていなければ、案外ふつうの人に見える。こうして見る先生は、不思議と怖い印象を受けない。
そのまま観察を続ける。萩原は数度会話を交わしたのち、資料をバッグに詰めると、その場を後にした。それっきり姿は消えた。
その間中、声を掛けようか迷った。まあ、やめてよかったと思う。こちらが尋ねる道理は多分ない。逆に、質問攻めに遭うのがオチだ。ただでさえ、真のことや、猫の事、そして駅で会った少女の事、ついでに不機嫌な和也と、問題は山積しているのだ。
とりあえず、学校に戻って奏と合流しよう。
缶を捨て、出口へ向かう。何人かとすれ違ったが、また、見知った顔と出会ったような気がした。
嗣平は振り向いて、その背中を眺める。再び、歩き出した。
思い出した。
「あ、あれだ。新任の先生だ」
バスの車内で嗣平は顔を上げた。今年から教諭となったぺーぺーの男、確か名前は新谷だったか。
って、嗣平は自分が馬鹿じゃないかと思う。当面の問題を考えろ。役にも立たない情報思い出して何感心してるんだ馬鹿と、己を呪う。
「なに、悠長なことを……。それよか、なんて言うかね奏に」
本当のことを言っても荒れる。かといって、嘘は多分ばれる。ちゃらんぽらんな癖して、何故か鋭い時がある。実のところ、さっぱりやめてしまえばいいと嗣平は腹の底で思っている。IDの成果はなかったと言えばいいのだ。納得しなくても、理解させればいい。自分が悪者になれば
――携帯が振動している。
人がせっかく脳みそ絞っているときに誰だ。極刑ものだ。
などと思いつつも微細な安堵感に救われた。もしかしたら意外な発見が得られるかも――そう思って、画面を眺めた。
しかし、画面に記載された名前を見て、嗣平は躊躇った。
一息整え、後、ダイヤルを押した。
「もしもし。俺だけど」
「大変なの!」
帰ってきたのは泣きそうな声だった。
***
日が明けて、4月11日。
保の声を聴くまで忘れていたことがある。
「転校生、そういや今日だっけか」
その嗣平を、信じられないという顔で保は見下ろした。
「お前、あれだけ昨日言ったのに」
「それどころじゃなかったんだよ昨日は」
ため息づく。思い返せば本当に忙しい一日だった。
「あれか。宿題忘れたからか。でもそれは間に合ったじゃんか」
「まあな。で、俺はいいから、その転校生、お前見たのか?」
保は頭を振って見せる。嗣平が今度はあきれる。
「だめじゃん」
「いや違う。どうせ見るなら教室で見たいじゃんか。女子だぜ。学友だぜ。盗み見るんじゃ罰が当たる」
でもお前彼女いるじゃん。
だが、こういう奴だからこそ女にもてるのかもしれないと嗣平は思う。
「でもお前彼女いるじゃん」
背後だ。
嗣平は椅子を半身に向ける。
地蔵みたいな奴がついに声を上げた。ふっと保は笑う。
「お、和也ようやく降臨したか」
思っていたことを和也に言われた。昨日さんざん己を無視された和也が、そう言ったのである。なぜだろう。妙にこしょばゆい。嗣平はこらえきれず頬を緩めた。
和也がむっとする。
「んだよ。二人して」
「いや、な」
嗣平はそういうと保に目配せをした。保も肯き、
「そうだな」
「うへえ。損した」
三人して、くっくっ、と笑い声を上げる。たった1日だというのに、ずいぶんと昔のような光景だった。
そして、その時は来た。
すぐに前の扉が引かれ、担任が姿を現し、早急に生徒は席に着き始める。珍しい、と言ってはいけない。その理由は単純なのだから。
誰しもの目に、好奇の色が灯っている。
担任の坪下などもはや眼中にない。その話の中身が、昨年来続く盗難事件への注意だとか、昨日も階段から落ちた奴がいたとかだったと記憶しているのは、限られた生徒だけだろう。言われてみれば、それは奏のことだったかなあ、などと嗣平は思うが、間違いなく違うと考え直した。だって、落ちてねえし。
シャーペンをクルクル回し、嗣平は思う。
本当に、昨日はいろいろあった。
和也は変だった。真にはシカトされる。奏はあの後ずっと泣いてるし、あと何かあったような。
なんだっけ。
思い出せない。
何しろ、奏の悲しそうな表情が強く残っている。気を利かせて今日は一緒に登校したが、消沈しきっていた。これは重症だ。誰から見てもそう映っていただろう。二人の関係を知らなければ、おそらく、嫌いな人と何らかの理由で一緒しているのだろう――そう思われたに違いない。
「はあ」
憂いをため息に。
さて、どうすべきなのだろう――
教室の入り口が、音を立てて閉まった。珍しい。開けることはあっても、わざわざ閉めるというのは、何か理由でもあるのだろうか。
嗣平は顔を上げ、すると、左前方、女子が何人か立ち上がったのが見えた。
何人かの生徒が「見えた、見えた」と口にしている。お前、それはへたすりゃ女子のパンツを覗いた男子と誤解されえないぞ。担任の坪下が面倒臭そうに注意する間、嗣平は閉ざされた一枚の戸を眺めた。不自然に閉じこもる戸は、否応なく期待を膨らませるかのように閉まりきってその姿を隠す。
――なんだっけ。あと一つ。
坪下が壇上から降りる。入口へ向かうと細く戸をあけ小声で何かを口にする。それから、ゆっくりと扉が開いた。教室に、喉を鳴らす音が響く。
黒板に坪下がその名前を書き始める。
「あー。以前言った通り、今日、新しくクラスの一員になる――」
生徒の表情は十人十色だったはずである。
あるものは花のような顔を、あるものは鳩のような顔を、あるものはニタリと笑みを浮かべた。
嗣平の眼が、次第に大きく見開かれていく。
揺らぐ焦点が次第に集う。ゆっくりと歩むその姿を目だけで追う。壇上へ昇り、はっきりと足元まで見つめる。奇怪な服装。長い黒髪。目には涙はないが、そのほかは全て異なる点がない。
残された最後の1ピースが埋まる。
嗣平の手元から、力なくペンが落ちた。気が付いた隣の席が拾い、「ん」とよせるが嗣平はただ呆然と転校生を眺めていた。
転校生の背後、黒板にはこう書かれている。
小山内 柚瑠
その文字が目に焼き付いている。
半袖。夏服だ。一月は早い。そして、この学校はブレザーだ。セーラー服じゃない。使い古した茶色い手提げ鞄を持ち替え、担任から遠い方の自分の右足に持たれかけた。来校者用のスリッパを綺麗にはいて、室内をゆっくり見まわした。淀みない動作。一望すると、その少女が、その口を開いた。
「小山内柚瑠です。よろしくお願いします」
山のせせらぎの様な、一連の言葉には、魔法のような効果でもあるのか。
教室は静まりかえっていた。
そして、そんなことは今やもう、嗣平の意識の外のことでしかない。
その頭の中に有るのはただ一つの確信。
そこにいる転校生。
駅で会ったあの少女だった。




