001 はじまり その1
そういう態度をとられると思ってはいた。
一夜が明け、最初に感じたのは「しまった」という落胆だった。もちろん、保健室での一件についてである。真に対する己の態度は完全に感情論だった。嗣平自身、逆の立場であったとて、そもそもそれ以前に愛想を尽かすか、怒るかした気がしてならない。だから、次がもしあるのであれば一言、「ごめん」と頭を下げる――そんな算段をつけ家を飛び出したのが今朝のこと。
それでも、予想と実際ではその差異が大きい。
たかが「おはよう」の一言を言うだけでも勇気が要った。校門をくぐるその前で、偶然にも通学時間が重なった粕谷真の背中を杉内嗣平はとらえることができた。悶々とした思考でかける言葉を探す。そして、手始めに普段のように振る舞うことに決め、勇気の一滴を絞って口にした。
「お、おはよ」
しばしの間。
――ふん。
そりゃあ、へこむ。
真は鼻息ひとつで一蹴し、それきり、背を向け昇降口へと姿を消した。
しばらく嗣平はただ呆然と立ち尽くした。その後、ややあって、ようやく昇降口へ向かい歩き出している。昇降口。靴をサンダルへ履き替える。廊下。ふらふら歩きだす。そして、その足は、正気を確かめようとしたのかもしれない。
自然とトイレへ向かっていた。
トイレにある鏡とにらめっこをする。顔面がヒクつく男がいた。そいつはため息づいた。
「はあ」
しかし、それはあくまで一つ目に過ぎなかった。
***
怒りすらわかない。ただただ疲れがたまる。
手を尽くしてはみるが、好感的な反応が返ってこない。
嗣平は現在、和也と格闘中である。
理由を尋ねても、つん。呼びかけても、ぷい。肩に手を掛けたら、払われてしかも汚れが付いた動作までされた。
意地になるのにも疲れが来た。
和也は視線を嗣平に移すことすらしない。
「何怒ってんだよ」
ぷい。
こうしたコミュニケーションはもう五分は続いている。それを見ていた保もいい加減うんざりしたのか、
「嗣平もいい加減ほっとけよ。いつものことだよいつもの」
「でもさあ~」
保はふてくされた嗣平の肩に手を回し、席に座るように促した。
嗣平はしぶしぶ保に従う。横目で和也を盗み見る。こちらを向きもしない。何が気に食わないのか本当にわからない。
そんな嗣平の思いなど気にせず、和也はただ机とにらめっこし続けている。
「んだよ本当にこいつ」
そんな様子を見て、ニヤケながら保が茶化す。
「お前もしつこいね。デキてんのかと思うくらいだよ。お、睨むなよ冗談冗談」
嗣平がつぶやく。悲しそうだった。
「だってさ、意味わかんないじゃん。怒ってる理由も言わないし、そもそも、昨日とテンションが違すぎじゃんか」
そう、本当に意味が分からない。
嗣平が記憶を辿ってみたところ、結び付きそうな原因に心当たりはない。というより、辿っていくには、まず海田奏との買い出しを通り、粕谷真との一件を通るため、和也とのやり取りは既に薄れきっている。記憶のヨスガは強い印象に阻まれ、どうも頼りにできそうになかった。
嗣平は昨日あの後、奏と本当に買い出しに出ている。まずは百均でプラスチック容器を二つ、水飲みと餌入れとして購入した。餌はとりあえず幼猫用のドライフード、そして水分は牛乳を手に取った嗣平を「お腹壊すからダメ」と奏が制し、普通の水をカゴにぶち込んでいる。それからもう一度学校へ戻った。猫は変わらずその場所に居た。どうでもいいが、すでに一八:〇〇を回っているにもかかわらず、残っている生徒は多かったことを嗣平はよく記憶している。一通りの世話を終え、帰る頃には完全に陽は落ち切っていた。そんな時間に下校するのも久々だったし、奏と一緒に帰るのも、
「――おい。嗣平、なに呆けてんだよ」
保の声掛けで現実へと引き戻された。
保が嘆息する。
「ったく、お前まで変じゃねえか。それじゃ、せっかくの情報も伝える甲斐がないってもんだぞコラ」
「情報?」
「ああ。聞きたいか?」
返事もしない内に、じれったいとばかりに保は、
「て・ん・こ・う・せ・い」
――てんこうせい。
転校生?
「ああ。転校生だ。ずっと空席になっていたあそこだよ」
保がその方角へと指を向けた。
嗣平は左全前方、数人の脇を抜け、始業式以来空席となっている机を見つめた。
「それが、どうしたんだよ。もしや――」
「そう。ようやく来るらしい。職員室で小耳にはさんだ」
息を吸い、人差し指をピンと立て、保はこう言った。
「明日、だとよ」
実に不思議な話だが、嗣平は自分以外の転校生を見たことがない。
小学二年にこの隣町へと引っ越して以来、誰ひとりメンバーは変わりなく、進学するくらいでしか変化は起こらなかった。だからこそ、
――転校生、かあ。
正直、気になる。というのが本音のところだ。
嗣平は周囲へ視線を配った。
授業中の室内では、いつも通り和也は突っ伏しているし、大半の生徒は内職に励んでいる。余所者など、進学校でもない片田舎なこの学校で、そうそうお目にかかれない様な話題ではある。嗣平的にも、何を理由にこの学校に転校生が来るのか、なかなかに気にかかる。
あの日、好奇な嬌声の渦が巻き起こっていたのを嗣平は思い出す。
始業式の日、最初のHRで担任の坪下が唱えた聞きなれない名前。当初、誰もが声にならない声で「誰?」と口にしたその名前。その影響力は未だ顕在で、始業以来数日が経過した教室の気分は未だ浮き足立ってみえる。……ような気がする。
周囲を見る。まともに聞いている奴の方が少ない。
新学期早々、授業中のみんなはだれきっていた。
「はあ」
あくびがでた。頭をぼりぼりとかく。何時に入ったんだったか思い出せない風呂。余所事ばかりがぼんやりと浮かぶ。
授業の退屈さに、嗣平も次第に意識が遠くなってきた。
突っ伏しているうちに、瞼はいつの間に落ちた。
***
目が覚めた。
何かが、いる。
そう気が付いた時、飽きるほど聞いた声が耳に入った。
「あ、やっと目を覚ました。まったくもう」
自分の顔を覗き込むその見慣れた表情が、奏のものであると認識するには少々時間がかかった。にらめっこしてるみたい。光景をはたから見れば、そう見えると思う。カップルのクソ忌々しいイチャイチャを何となく想像した。ふと気づく。待てよ。もしや自分たちはそんな風に……。
その疑念が脳裏をかすめた時にはもう遅い。にわかに嗣平の顔が紅潮する。周囲の視線がいきなり強くなった気がする。
しかし、押し黙っていてもしょうがないので、
「な、何か用か?」
「酷いなあ」
奏はまったく顔色を変えずに問いただした。
「ねえ。もう昼休みだよ」
――だから、何?
「ほら、起きる」
奏の顔がぐいっと寄ってきた。何故だか慌てて視線をそらしてしまう。
その拍子に、黒板の上にある時計が目に入った。
針は一二:五五分を指している。
「えーと。よく寝た」
「そうだね。で、昨日の約束。もしかして、忘れたのかな?」
「約束? 覚えてるよ覚えてる。えーと、あれ、餌だろ。餌」
「よろしい」
昨日、あれから一緒に帰宅する電車内で、奏が嗣平に約束を取り付けにきた。昼休みは餌をやりにいくこと。放課後は飼い主探しの協力。
後者に対して、一つ話し合いを持った覚えがある。全ペットに内蔵が課されているIDチップについてだ。その照合をまず最初に行うべきだ、という嗣平の主張に奏も一定の理解を示した。が、「どう考えても意図的に夜の学校に侵入し放置した」という奏の主張にも理があると嗣平は踏んだ。だったら、建設的に行動すべきだ。そう判断した結果、飼い主を新たに探すことにやや重きを置くことで話は決着していた。
まあ、何かの世話をするというのは何とも奏らしい、と嗣平は思う。
他にもいくつかした約束があったはずだ。そして、その多くはほぼ一方的に成立していた気がする。簡単な話で、それは「約束」という言葉をあまり聞きたくなかった嗣平が適当に相槌を打ったせい――その日の夜になって、自分で気が付いた時には既にもう遅かった。
思い出すとなんだか嫌な気分までぶりかえしそうだった。
嗣平はしぶしぶ立ち上がる。
すぐに座りなおした。
その様子に奏がむっとなった。
「……ちょっと。なんで座るの?」
「飯食ってないの思い出した。ちょっと待って」
「まったくもう。夢の中で食べてから起きればいいのに」
「……おいおい」
弁当をつまみながら、奏の話に適当に相槌を打った。今度は下手な約束をしないかにだけ注意を向ける。衆人監視の中で約束をした場合、覆すのは難しい――そう嗣平は判断をしたためだ。
それを知ってか知らずか、奏の話はまったく関係ないものに終始した。
「で、ほら、多恵ちゃんが言った通り、失敗したわけだ」
「へえ。奴もたまには本当のこと言うのな」
「ほら、そうやって言うから怒るんじゃないの? 多恵ちゃん」
「いいんだよ。甘やかすとつけあがるからあいつ」
奏は満更でもない表情をして笑みを浮かべる。友人である奏の口から、「言えてる」と言うのは気が引けるのかもしれない。よそよそと周囲へ視線を配り始め、何かを見つけた。その方角には空席がある。
「そう言えば、転校生、来るんだって?」
突如として変わった話に、嗣平が返事を急かされたように喉を詰まらせた。
「うわあ。ちょっとちょっと」
奏にさしだされた水を一息に飲み干す。心配そうな声が嗣平の耳を伝う。
「ねえ、大丈夫?」
「だ、大丈夫大丈夫」
ちょっと待って、とハンドサインをして、大きくため息。それから、
「んぐ……いきなりだな」
「だって」
「はいはい。答えはYESだ。保から聞いた。保が嘘つかないの知ってるだろ」
「うん」
「曰く、女子で、西の国境沿いから来るんだと。なんか事情で遅れたらしい」
「なんだろうね。事情って」
「わからん。が……」
嗣平の耳にも既に諸説入っている。曰く、実は嘘。曰く、超VIP。曰く、そっちの筋の人。いずれも現実味の薄い、その日一日すら生き残れないような噂話だ。
白米を口に含んでから嗣平は言った。
「ま、ふつーの理由でふつーの奴が遅れただけだと思うぜ。親の都合とか」
「だろーねー。ね、そういう人って、休みの課題とかどうなってるんだろうね」
少なくとも小学校の頃は嗣平も宿題をやったような記憶がある。だが、高校生ともなると、違うような気がする。
嗣平は「予想だが」と前置きを置いて、
「あれだろ? 試験があるから、わざわざ課題ださないとか」
奏は拗ねるように、顎を机に乗せた。
「あーあー。いーなー。ほら春休みの課題。さっきの時間、鬼の青木だったんだよ? みんなで急いで答え合わせして、何とか提出。あれ出さないと単位くれないとか言うし」
「そりゃ、前もってやっとかないお前が悪い」
「じゃあ、そう言うつぐちゃんどうなのよ」
訝しげな奏を見て、不敵な笑みを嗣平が浮かべる。青木は昨年も痛い目に合っていたのでよく知り得ている。かかるに学習をしない男ではない。早いうちから和也と保と協力し、既にそのノートは完成している。今日の六限と言わず、次の時間に提出と言われても、自信満々に突き付けてやるつもりだ。
「無論、語るに及ばず」
「む、じゃあ、見せてよ」
「しばし待て」
御馳走様、と箸をおき、弁当を包みにしまったのち、嗣平は自らのカバンに手を掛けた。まだ、この時点では笑みが浮かんでいた。最初に週刊少年雑誌をつまみ上げ、次に、古文の教科書を積んでいく。緩慢な動作がやや直情的になるのが五つ目の冊子、日本史の資料集を取った時であると奏は記憶している。あら、あれ? という言葉が口からこぼれる度、表情に険が刻まれ、ある一点を超えると頼りない縋る瞳へと変化した。
しばらくの間、なんと声をかけるべきか、奏はわからなかったに違いない。
頭上では、時計の針が一三:〇五を指し示した。
嗣平が立ち上がる。
呆然と見つめる奏に、たった一言だけ口にした。
「用事できた」
***
それからは有無を言わさず、帰宅の途、車上の人になるべく駅へ向かう。尋常ではない事態だ。まさか、やってきた課題を自宅に忘れるなどと言う初歩的ミス。突如、床が消え落下し続けるような冷や汗が嗣平にたちどころなく続く。
あの後、奏は無言でうなづいた。事態の深刻さに、約束では歯が立たないと踏んだらしい。もしくは、下等生物を見る視線があったかもしれない。
なにしろ、青木は嘘が嫌いである。でっち上げても恐らく聞かない。そして奴は、さらに生徒が嫌いであるらしい。どうも聞いた話、大学に残ることを希望していたそうだ。限られた席を射止められなかった結果として、保険でなった教師という職に、自嘲めいた高圧感がにじみ出している。俺はお前らと違うんだ、と。外見的特徴にそれも出ている。いかにもなエリート面、七三分け。右眉毛の外に、ほくろがある。それは眉毛とつながっているように見えるため、アンバランスな左右の眉が笑いを誘う。四四歳。偏屈ジジイ。もちろんこんなやつ嫌いだ。
しかし、青木が担当であるという事実はいかなる理由でも変わることのない話である。奴が落第と言えば、それは落第。世の中間違っていると思う。
とはいえ、絶望的な話ではない。気が付いたのが昼休みでよかった。一度帰宅し再度登校したとて、五限の終り頃には間違いなく間に合う。その計算は誰から見ても間違っていないはずであると嗣平は信じる。
街を駆け抜けながら、運行情報を確認する。クリア。遅延なし。
信号で足踏みを続け、時刻表を覗く。時計を確かめる。クリア。一三:二五だ。
住宅街の間を縫って、最短経路を貫くように縦断し、そして、目的の場所が開けていくのを嗣平は見た。走り終わってから、ネクタイの首を緩め、ジャケットのボタンを全部外した。自分でも最初から外しとけばよかったと思うが、今はもうどうでもいい。エスカレーターの右側、ゆっくりと歩き昇る。到達し平たくなる段差を大股で飛び越え、その先にある右前方へと目を向ける。
電光掲示板。
一三:一八。
――間に合った。
何事も問題は生じていない。遅延はないし、定期もポケットに入っている。その確証を得て、嗣平の肩の荷が多少下りたのかもしれない。電光掲示板の前で立ち止り、大きく一息をついた。
時間を見るに、まだ、六分ほど余裕がある。
少し疲れた足を休めたい、となんとなく思った。電光掲示板の反対にいくつかベンチが並んでいるはずだ。そこでなら腰を落ち着けられる。
嗣平は漠然とした思考のまま、振り向いた。
何か、長い髪がいやでも目を引いた。一度通り過ぎたレンズを再び向ける。
そして、それを見た。
石ころみたいなやつが、そこにいた。
いくつか並ぶベンチの一番左。その上の窓は、まるで屋外の喧騒を逃さないようにか、半開きの状態で放置されていた。
その少女は膝を抱えて体育座りをしている。明らかにその場所に似つかわしくない姿勢。そして、妙なのはその体勢だけではなかった。袖口から白い肘が突き出ている。膝だけを残して華奢な足を包むように両手が組まれ、その間に、顔らしきものがちょこんとおかれている。半袖の夏服姿など一月は早い。
その表情は長い髪に覆われている。読み解くことができない。
だが、なんとなく雰囲気がおとなしい。もしかしたら、
――寝てる?
どうやら事実、そうらしかった。
薄い膜のような呼吸に合わせ、体が上下動する。恐らく近くまで寄れば、立てている寝息が聞けるかもしれない。何となくその顔を見てみたいと思う。いったいどんな奴がこんなところで、しかも夏服などを着て眠るのか。当然それは、衆人監視の中では明らかに、
いや、自分が考えていることも明らかに不自然である。
嗣平はぶんぶん首を振る。
いずれにせよ、だ。
四月だというのに、半袖、つまり夏服のセーラー服。しかも寝てるなんて常識とかけ離れている。
関わらないほうがいい。
踵を返そうとしたその時だった。
その光景に、嗣平は異なる印象を突如として抱いた。
再度、その女子に視線を奪われる。
瞬間、半開きの窓から、一筋の風がその息を吹き込ませた。綿を浮かす程度でしかない風加減。しかし、その少女の黒髪を払い、仄かにその顔を覗かせるにはそれで十分だった。誰にでも似たような位置についている目と鼻と口が姿を見せる。そしてその中の一つ、その閉じた瞼の下にとある形跡を認めることができる。
思わず、嗣平は息を飲み込む他なかった。
別にその顔がかわいいとか、美人だとか、誰かに似てるからとか、それがどうでもよくなるような違和感が、その場所にだけ張り付いている。
見てしまってから襲われる罪悪感に、嗣平の体が磐となり思考が閉ざされた。
その少女の眦に、涙の跡が滲んでいた。




