Prologue 4月9日②
前日譚2。
要は逃げ出したのだ。
わざわざ部室棟から遠い方の校舎のトイレにまで本当に足を運んだ。
個室の中で、杉内嗣平は5分だけ腰掛けていた。勿論、先ほどの件がずっと気がかりで頭を離れない。
和也の説明は三分の一もわからなかった。技術的な側面やワードはほとんどなかったのが和也の優しさだと思う。が、それでも情報がまるで記号にしか思えず、ほとんど無意味に近い。
何より、脳みそが理解を拒むことがある。
和也の執着の理由だ。
例年通りならさらっと終わる話である。和也は理由もなしに行動しない。長い付き合いだからわかるが、その裏には和也なりの道理が働いている。金銭目的か? いや、ストレス解消かもしれない。それとも――
「ああ、もう!」
出ない答えにうんざりした。
レバーをわざわざ引き直してから、嗣平は個室を出る。
一点が腑に落ちないまま、トイレの鏡を見た。
ひどい表情だった。
しかしこれは気が付かなかった嗣平が悪い。
あっけにとられた。
時間も時間だし、いないものだと勝手に思い込んでいた。
この通路には2年1組があるし、だとしたら、粕谷真がいることは前日すでに確認済みだったはずである。しかも、その時に催促されていたはずなのに、翌日になってもろくに返事をせずにいたうえ、自ら相手の縄張りに近づいてしまったのだから。
これはトイレの中で考えるべき一つの懸案だった。
そう気づいた時にはもう手遅れである。
落ち込んだ背中口からそれは来た。
「あ~~~~~~!! 先輩!!」
ぴくり、耳が動いた。
西棟1号館、2階男子トイレ前、右手側方向には階段、左手側に教室が並んでいるその廊下。聞き覚えのある女子の声が嗣平の体を強張らせた。
「こ、この声は……」
恐る恐る背後を振り返る。
10mくらい離れたその場所に、粕谷真の姿があった。
今会いたくない人物2位。テニス部の後輩にあたる昔馴染みの女子生徒。恐らく前の時間が体育だったのだろうか。制服ではなく、くたびれた赤いジャージの上下を纏っている。
その場に腕を組み、真は吠えるように言った。
「先輩! なんで昨日来てくれなかったんですか! 約束したじゃないですか。治ったら出る。破ったらラケットをくれてやってもいいって。今日だって、わざわざ先輩の教室まで行って、そしたらもうどっか行ったって言われて、でも鞄あるから帰ってくるって言われて、私待ってたんだから! それで」
このとき、嗣平はその言葉の終わらないうちに、地雷を踏んだ足を外す慎重さを持って、ゆっくりと真から視線を逸らしている。きたるべき準備を終えると、そして嗣平は踵を返した。何事もないように角を曲がる。
そして駆け出した。
背後から当然それは来た。
「ちょっと! 人の顔見て逃げることはないでしょお! 待て」
お手と言われてする人間はいない。待てもおんなじだと嗣平は思う。
逃げる男と追う女。「待ってってば!」。既に人が見当たらない放課後の廊下は二人の独擅場のようだった。「おとなしくしろー!」。人がいない。「別に何もしないですから!」すがるべき対象に出くわさないまま、二つの階段を駆け昇る。「なめんなこの」。今度は一つの廊下を横断しきって、三つの階段を落下った。「こちとら現役、地獄の底まで逃げられると思うなよこら」。その合間に描いた青写真が脳内で徐々に形になる。
「……この手しかないか」
嗣平は実行へと移すために西1号館から西2号館の渡り廊下を駆け抜けた。
1階の西棟2号館の一角にその場所はある。
扉を横に引き、隙間から身をもぐりこませると、背中の後ろで扉をぴしゃりと閉めた。
嗅ぎ慣れた薬品の匂いが鼻を突いた。
息を整えている嗣平に、当然の質問が飛んでくる。
「ねえ。何か用?」
腰掛けた椅子をくるりと回転させて振り向き、手にペンを持ったまま、白衣を着た萩原は怪訝そうに見つめる。「三十路」は許されるが、「30超え」と言うと八つ裂きの目に合う女保険医――萩原貴子の眦は、抜身の刃じみた鋭さを秘めている。
しかし、それどころではない。
「か、かくまって……」
「あんたまた先生から逃げてるんじゃないでしょうね」
まるで自分がそんな前科持ちみたいじゃないか、と嗣平は思う。
……まあ、実際にそうだけど。
首をぶんぶん振って、余計に苦しくなって、息を吸って、
「ち、ちがう……はあ、はあ。先生じゃない」
「へえ」
それから、ややあって萩原はため息をついた。
ペンが伸びる。そのペン先には、無人のベッド。
心の中でお礼を言いながらそそくさとベッドに入り込み、嗣平は息を殺した。
そのコンマ数秒後、戸を開く音が保健室に響いた。
「先生! ここに誰か来ませんでしたか! 3年の男子が」
真の声だ。
まずい。さっきよりも怒気が混じっている。
萩原はしばらく無言だった。そして何やら優しげに諭し始めたらしい。
ということは己の言うことに協力してくれたのかもしれない。嗣平は、この瞬間以上に萩原への感謝を抱いたことはなかった。ああ、去年一年間さぼるために保健室を利用しつつ、おべっかを使ったのは無駄ではなかった。あれだ。きっと、冬休みに行った東京銘菓ひよこのお菓子をおすそ分けしたのがよかったのだ。それならば、と今度東京への遠足の際には何か一つ賄賂を贈っておこう。と、品物へと思案を巡らせ始める。
扉が開く音がした。
しばらく、静かだった。
また扉が開く音がした。
何か、やり取りが聞こえる。声が小さすぎて話の内容が単語単位でしか聞こえない。その会話の中を探してみても、怒気を見つけ出すことはできない。粕谷はもう去ったのかもしれない。別の生徒が来たのだろう。きっとそうに違いない。そう思うと、その表情のない声は、どうも余裕と気品があるような雰囲気がしてくる。
嗣平はようやく安堵の息をついた。
さて。
まあいい危機は去った。来月の品物何にすべきか。それを考え
「ほら、ここ」
掛け布団の下に、甲羅をはぎ取られた亀がいる。驚愕の表情のまま固まっている。
まさしく、杉内嗣平である。
真は悪魔のような笑みを浮かべた。
「あー本当だ。ありがとうございます先生。ねえ、先輩。ちょっとお話ししましょうか。いろいろと」
固まった視線が今度は萩原へと向いた。その視線に、
「――何よ」
「萩ちゃん。う、裏切ったな」
「別に、何か約束した覚えはないけど?」
ぐぬぬ、と怒られた小学生のように口をわなわなさせている。
それを見て真は、
「あのねえ、別に顔見て逃げることはないでしょう?」
助け舟を出してあげた。結果的にはそういうことになった。
「別に、顔見て逃げたわけじゃない。そう、用事だ、用事。思い出したからつい」
「嘘つかないでいいです」
「……ごめん」
「よろしい」
その様子を黙って聞いていた萩原が、ベッドから離れゆっくりと椅子に腰かけるのが見えた。
あれでいて気の利くところがある。ずるいなあ、と何となく嗣平は思う。
***
とりあえず布団から這い出て、ベッドに腰掛け、真に横のベッドに腰掛けるように促した。向き合う形になる。が、二人とも押し黙っていたままで時間だけが過ぎていく。緊張を紛らわすようにして周囲を見渡すと、時計の針は既に4時を回っていた。
練習はすでに始まっているはずだった。
「あのさ、練習、行かなくていいのか?」
真はバツが悪そうにそっぽを向いた。ジャージの袖に両手を隠している。その手を口元に持ってきて、
「誰のせいだと思ってるんですか誰の」
「ご、ごめんなさい」
「別にいいです。それで本題。去年から、私の事ずっと避けてましたよね。今日も」
確かにそれは事実だった。真の姿を見るとなるべく道を変え、場所を変え、トイレに逃げ込んだこともある。ただ、真意を言うならば、それは真だからではなく、真と関わるとある要素に対して、である。
嗣平は説明を試みた。話の中腹もいかないうちに、真は察したらしい。
「なんとなく、そういう気はしていました。怪我治ったのに出てこないから」
「物わかりよくて助かる」
嗣平は無責任にも安堵の表情を見せた。
それを見た真は少し言葉を探した。それから、
「――もう、嫌いになっちゃいました? テニス」
「――別に、そういうわけじゃないけど。何と言っていいか、」
言葉を遮られた。
「だから、あの約束をしようってわけか」
「あれは、そう言えばお前があきらめると思ったから――」
「酷いです」
真の目にはもはや同情のかけらも見当たらない。
「酷いです。卑怯者です。嗣平先輩は」
「……うん」
「部活に出る? 出なかったらラケットお前にやる? 何言ってるんですか、って感じです。私も最初冗談だと思ってましたよ。でも一月たって、二月たって、もう半年。顔も出さない。会えば避ける。私、傷つきましたよ正直」
口をはさめば地雷を踏み抜く気しかしない。口出しがきかない。
「昨日だって、そっけなかった。言わせてもらいますけどね、私は先輩のラケットなんか要りません。勝手に決めないでください。だから、残された道は一つだけです」
「――何が言いたい」
「昔はあんなに好きだったじゃないですか。楽しそうにしてたじゃないですか。やればいいじゃないですか。周囲がなんだというんです。昔を思い出して、」
昔。
その単語が出た瞬間、嗣平の顔がしかめていた事に真は気づいていない。
しばらく真の言葉よりも強力な思考に嗣平は支配された。
そこから抜け出すと、聞き取れたのはここからだった。
「高校に入ってからもそう。私立行かないで公立に行くって聞いた時は少し驚きましたけど、先輩がいるなら私も飽きないなと思って、橘台もアリかなって――今はもう半分後悔してますけど。でも、短い間でも、楽しそうだったじゃないですか。個人戦でも関東に出ましたし、ほらあの時の――
「やめろ」
まるで時間が断絶してしまったように、真が固まっている。
言ってしまってから、嗣平は慌てて口をつぐんだ。
真はまだ少々あっけにとられている。しかし、理解をしたらしい。
徐々に湧いてくる怒りを迎えたように、顔色がきつく変わった。
「やめろ?」
怒っている。それも、さっきの比じゃない。
「やめろって言いました? これでも私かなり自分で抑えた来たほうなんだけど」
カチンときた。
嗣平もなぜそこまで言われなければいけないのかわからない。だから、
「昔は昔だろ。今話さないでくれ」
「は? 何? 何それ」
「だから、俺は自分で考えて――」
「だったら!」
真が立ち上がった。
その両の腕には拳骨がこしられられて、太ももに張り付いてぷるぷる震えている。
「だったら、ラケット渡して、はいさよならってすればよかったでしょ!? なんで私に判断をゆだねようとさせるわけ? 本当は怖いんでしょ! 自分で結論を下して、あきらめたことにするのが! そうやってずっとウジウジしてらしくないことして!」
「あのなあ。じゃあ聞くが、お前俺にどうなってほしいんだよ!」
「だから、昔みたいにすればいいでしょ!」
「だから、昔は昔だ! 俺は今の俺でいいんだよ!」
「今の先輩ってなんですかそれ意味わかんない。先輩からテニスとっていったい何が――」
「なんだお前ケンカ売ってんのか。お前だっておんなじだろ。それとって何が残る」
「馬鹿にしないでもらえる!? 私あなたみたいな根性なしじゃない! テニスとって腑抜けたみたいに――」
そこで、真が横へ向き変えった。
それにつられて、嗣平も自然とそれに倣った。
その先にあったもの。
――萩原が無言で腕を組んで突っ立っている。
真が口をパクつかせた瞬間。
萩原は組み替えた右腕をピンと伸ばした。
白衣の袖がゆったりとぶら下がり、そこから伸びた指先は廊下を指差している。
「はい、ストップ。余所でやんな。ここは私の部屋。保健室。あんたらの痴話げんかしていい場所じゃない。許可しない。認めない。さ、出で行きな」
その凄味に押されたのか、真も完全に押し黙ってしまった。
しかし相変わらずの握り拳骨を見るに、納得していないのはあきらかだ。
それなのに、立ち去る間際、
「……先輩がそれでいいなら、もういいです。勝手にしてください」
閉めなくてもいい扉をわざわざ閉めて真は消えた。
「ほら、あんたも」
「え、ああ、はい……」
嗣平も背中を押され、保健室を放り出された。
***
要は逃げ出したのだ。
嗣平は呆然と歩き続ける。じわり、と差し込む春の陽光、対照的に落ち込んだ陰、その二つに分割された廊下。不気味なまでに人の気配がない静けさ。角の向こうに悪魔がいるのかもしれない。
壁のポスターにはこう書かれている。
「部活動勧誘ポスターの掲示についての諸注意」
一瞥はした。でもしただけで、嗣平は立ち止ることもなくその横を歩き去った。
もう、帰ろう。
ぼんやりとその考えが浮かんだのは、廊下も壁に突き当たってからだった。
足が自然に教室へと向いた。それもそのはずで、鞄を教室に置きっぱなしであるという事に気が付いたのだ。取りに戻る必要がある。呆けた頭でもそれくらい理解はできたのだから、帰宅くらいは可能だと思う。
ようやくたどり着いた教室の戸を開ける。
やはりというべきか、人っ子一人見当たらない。運動部の奴はとうの昔に青春の汗を流しているし、無職の奴はここにいるべき理由がない。それに今日は「訓練」もあった。残って先生に目をつけられるべきではない。
嗣平は自分の席に引っかかっていた鞄をはぎ取る。碁盤の目のような机の網を掻い潜る。
そして、一度だけ立ち止まって黒板を眺めた。
黒板。
それこそまさに、面白くない1年間の敵であり、代わり映えのない日常の象徴に他ならない。
教室内に漂う雰囲気は授業中とまるで異なって見える。放課後という空間が、いつの間にか変容し、退屈な教室をノスタルジックに染め上げている。
誰もいない。
誰も座っていないのに、しまわれることもなくだらしなく放置されている椅子がいた。ろくに掃除の行き届いていない四隅の角の吹き溜まり。未だに来ない転校生の机に積もる仄かな埃。主無き従者の虚しさを思う。
そしてため息。
結局、来る来る言われていた転校生は、いまだ姿を見せていない。
もう、ずっと来ないのかもしれない。
嗣平は誰に言うでもなく一人ごちた。
「……はあ、つまんねえ」
だから、背後から奏は言った。
「今、つまらないって言ったよね」
「うおおおおおおおおおお!?」
「あ、本気で驚いてる時の声だ」
文字通り飛び上がった。跳ね返った。少々むせたのち、平静を取り戻し、背後へ振り向き奏に問いかける。
「お、お前、何時から居た?」
「ついさっき。ほんのちょっと前」
奏はそう言って、親指と人差し指で小さな隙間を作り、
「つぐちゃんが入るの見えたから驚かせようかと思って」
「し、神出鬼没だよな、お前ってたまに……」
その姿に普段と変わる点はなかった。勿論、奏は制服姿である。
「どうしたの? 元気ないね」
「別に、そんなこと――」
あった。
真の顔が頭に浮かんだ。
しかし、相手が奏でよかったと思う。
多分、その辺はわきまえてくれているんじゃないか。そんな勝手な期待を嗣平は抱く。
幼馴染とあってか、嗣平の身に起きたことはみな奏に筒抜けである。小学校の時に妹を虐めて泣かせたことも、しょうゆよりは味噌派だということも。しかし、口は栓のように固い。それが誰かに漏れ出たことはない。信用のおける、妹のような存在――それが海田奏という少女だった。こいつを見ていると、安心させる何かがある。
だからかもしれない。
嗣平はほっと笑った。
「あ、笑った」
薄ら地毛に茶が混じっているそ髪を耳にかける動作をしたのち、上目使いにほほ笑んだ。
「それじゃあ、つまらないんなら、ちょっと手伝って。ね?」
「な、何を?」
「お願い。ね?」
この、「ね?」というのが女性の武器である。そう心得ているかのように奏は悪魔的な幼稚さを持った笑顔をした。
ぐい。
「あ?」
「はい」
奏はバッグを持たない嗣平の左手を掴む。と、エスコートするように教室を飛び出す。
こけそうになった嗣平が、体制を持ち直すと、
「ほら、早く!」
「お、おい。どこ行くんだよ!」
「いーの、いーの。いざとなったら二人で地獄へもろとも」
「だから何がだー!」
その後の教室には、無人の机が立ち尽くすのみである。
***
そのまま3分が過ぎたころ、二人の姿は校舎を抜けて、部室棟へと通じる通路をそれた一帯にまたがる茂みの中にあった。
そして、声が聞こえる。
みゃお。
「はい、これで共犯者①確保」
奏の言葉は、「つまりあなたは第三者的に見て共犯関係にあります」ということを意味している。
「違う。俺はむしろ被害者だ。これは間違いない」
嗣平の言葉は、「つまり自分は自発的にではなく、強制されうる形で行為に及んだ」ということを言いたい。
みゃお。
猫は……「お腹が空いた」と鳴いたのだと思う。
むなしい! 野生動物の声は理解されうることなく春の午後に消えた。
奏はしかし、その猫を指差した。猫がつられて指を追う。
「物的証拠があります」
「な、何を」
何かを見透かしたような目で嗣平を一瞥すると、奏はその子猫を持ち上げて突きつけた。
ぐいっ、と嗣平の眼前に押し出すと、猫が一度みゃあと鳴いた。
「この子にあなたの指紋が付着しているのです。一度ならず二度までも。あなたはいたいけな子猫にその手を押し付け、ぐりぐりと撫で回し、あろうことか尻尾の毛を引っ張って肉球にまで手を出した」
さらに何か付け足そうとしたのだろう。「だから」と前置きを置いたが、続きを口にする前に猫が暴れ始めた。もうしょうがないなあ、と降ろす。そして、
「反論はございますか?」
「……ありません」
茂みへと向かうと、中はまったく手入れの行き届いていない有り様だった。奏はそこでとあるものを見つけた。こういうのは許せない。
それが、つい昨日、午後5時の話だった。
音がした。
その音に引き寄せられるように、奏の体が近づいていく。
段ボールの中が、その根源であるらしい。
シュレディンガーの猫という話がある。
今はさておく。
さて、奏はそのダンボールに恐る恐る手をかけ、一度唾液を飲み込んで、開きあげた。
嫌な予感が的中した。
わざわざ用意されたかのような小ささの段ボールぴったしに、中を開けば子猫が寝息を立てていた。
「と、言うわけ」
そういった説明を今しがた嗣平は受けるに至った。
「酷い話だなあ」
「そうでしょ!? 信じられないよね。つぐちゃんもそう思うよね!」
「いや、お前の話ぶりが酷いという話」
「酷いよお」
じらすのはこれくらいでいいだろう。嗣平はこほんと咳払いを一度して、
「――でもさ、それだったらわざわざ回りくどいことしないでも協力するぞ」
憮然としてそういう嗣平相手に、地面に横たわる猫を撫でながら奏は、
「嘘だもん。昔から絶対にあーだこーだ言って付き合ってくれてないもん」
「それはお前がぬいぐるみがどーとか、甘いもの食べたいとか、ろくでもないことで誘うからだろ。こういうことならちゃんと付き合う」
奏は顔を上げて、目を合わせた。
「ほんと?」
「ほんと」
やった、とは言わなかったが、そういう表情を浮かべたのが目に見えた。
――わかりやすいなあ。こいつ。
奏は肩口くらいの髪をなびかせ、嗣平の目の前に立って両手を取った。
「じゃあ、一緒に帰ろ。買い物手伝って」
「えー」
「お願い。ね?」
上目使いの奏の視線が、嗣平へと注がれている。
――そんな目をするなよ。
腕まくり、するには寒いがそんな気分にさせられるには十分だった。
誰かに頼られる。それだけで少し気持ちが晴れるのだから、自分はなんて単純なんだ、と思う。
猫が鳴いた。嬉しそうだ。そんなような気がした。
「まったく」
嗣平は笑みを浮かべる。
「断れねえだろ。これじゃあ」
「じゃあ、」
「いいよ。任せとけコンチキショー」
4月9日の、それまでのいつもの日常は、こうして過ぎて行った――。
***
最後に一つ。
午後7時を過ぎたコンクリート建ての一室。
パイプ椅子を並べて座布団敷いて、その上で誰かがのそりと起きた。
周囲を見渡す。
誰もいない。
大きく息を吸う。
それから、彼は、こう言った。
「いつになったら帰ってくんだよ!!!!!!!!!」
ざんねん !
かずや の やくそく は はたされなかった !
一応、ここまでが前日譚になります。
本編はこれ以後。しばしお待ちください。




