35 事態 その5
スランプです。
「片手にピストルぅ、心にはなたばぁ~……」
鼻歌まじりにそのフレーズを言い終えた若槻は満足げに頷くと、居合の姿勢をとった。もちろん棒切れに鞘などない。しかし、重心を低く構え、肩ごしから厭の本体へときかせたその睥睨からは、真剣勝負に劣らない殺気が放たれており、まるで本物の抜刀と見紛うのも致し方ない。
木々も下生えもその空気を察知してか、仄かに震えている。
先に、本体が動いた。
動く巨体は土を掘り起こしながら、若槻へと直線に突進する。
その動作に睨みをきかせたまま、若槻は一度鞘を抜いた。
「はあっ!」
刃の切っ先は交わることもなく、空を斬った。
にもかかわらず、若槻は笑った。
若槻に向かう振動が次第に大きさを増す。
しかし、本体は何を察知したか、その突進行動を直線から、90度の方角へ変えた。その直後、本体がいた場所が削れ、轟音と共に地割れた。
強烈な強風が起こった。避けた空間がその傷を修復しようと収斂する。
その風が弱まると、本体は果敢にも、もう一度進路を若槻に定めた。
しかし、再び若槻が先んじて同様の行動をとる。すると、今度は軽く本体をかすめとり、穿たれた部位――人間でいえば頸動脈のあたりを、消し去った。
その斬り取られた部位が転がり落ちて、土色に染まった。
若槻は鼻からふっと息をもらし、ほくそ笑んだ。
「へえ。やるじゃないの」
二発目はぶつけるつもりで放った。実際のところ、それで死ぬようなタマではないことなど分かっていたし、避けられるくらいの加減で行ったことなので、当たらなくても大して驚きではない。
しかし――。
奴はぎりぎりで避けようとした。
若槻はこの事が妙に楽しくてしょうがない。
奴も、必死なのだ。
その事に合点がいくと、何かを地面に落として、若槻も移動を開始した。
厭の本体を座標の中心へと置き、コンパス同様に円を描くように距離を取る。
その時だった。
ふとそっぽを向いたのが良かった。
若槻がたまたま視線を外し、軌道上を確認しようと速度を緩めた。突然、先ほど斬り抜いた部位が網目状に開いた。
「足を絡め捕ろうって魂胆……かいっ!」
抱え込むように両足を高くして跳ねる。もう一度練り直しなのはしょうがない――そんなことを思いながら、落下の速度を緩めず、その網を引っぺがすように斬る。
着地と同時に、その部位は煙を挙げながら、そして、消滅した。
若槻は再びその円周軌道に乗る。よく目を凝らしてみれば、その始まりにはスタートラインの代わりに白い符が落ちている。若槻は先ほどの部位が消滅するのを確認するとその符を設置して、あとはぐるぐる回っている。
六周、円を描くような移動を繰り返した。
止まった。
若槻はゆっくりとその方角へ目を向けた。息ひとつ切らすことのない若槻の目には、まるで、全てが、時間が、止まっているようにみえる。
嘲笑うように、声をあげる。
「なあ、……いつ止まった?」
若槻が停止するのを待たず、厭の本体はその挙動を停止していた。
わざわざ聞かなくても良いにもかかわらず、その質問をしたのにはいくつか思い当たったことがあってのことだ。
一つ、おそらくカメラ越しにこれを見ている見物人に対して、「どうだ俺はすごいだろ」と自慢するため。
一つ、止まっている本体に対する嫌味。自分の性格の悪さも案外嫌いではない。
そして、もう一つ。
木の陰から、声が聞こえる。
「五周と三〇〇度が過ぎたとこだ」
「そりゃあ、どうも。で、あんた誰だ」
返事の代わりか、笑う声が響いた。それにつられて若槻もつい笑った。
踵で下生えを踏みにじる音を立てながら、黒装束に身を包んだ男が姿を現した。




