34 事態 その4
闇の中で宙を舞う。
逆立つ全身の毛も沸き立つ血管の速さも、全てを置き去りに唸り声と共に打ち放つ、裂く一筋。えぐれるような感触の後、血に触れた厭のひとつが割れ、横の厭へとその下劣な伝導が起こる。消滅。
柚瑠は、その2匹が数秒前まで存在していた空洞へと高度を利用し、全速力で突っ込んだ。
穴と言っても、そもそも山が全て厭でできている。その山とは言わずと知れた厭の潜む伏魔殿。その中心、二人のいる場所へと、半狂乱の声を上げた柚瑠は血を吹出しつつその手を振う。己が血によって固まった厭を暗器で削り、消えたことを確かめることもなく次の対象へと腕を打ち下ろす。既に常人ならば立っている事すらかなわない量の失血すら気にも留めず、ひたすら己の腕を振り続ける。上下左右から厭が降り注げば、旋回しつつその血を撒き散らし線上より点を穿つ一突きにて対処。
目前に湧く2匹の厭が交差するようにその身を飛ばす。しゃらくさいとばかりに左の肘にて当座の受け身をした後、骨身にしみる振動に脳を揺られ、しかしそれでも空く右手の肘をたたみ腕力のみで刺し殺す。
敵の頭を己の手が突き抜ける。こべりつこうと腕に絡む腐った水の臭いが、背中に張り付いたまま乾ききるまで離れず艶めくゴキブリのような感触が、結実した己の成果である。
しかし、柚瑠の手にある暗器もすでに使い物にならないくらい削れカスとなったので、手向けがてら連なる厭の一味へぶちこむ。3体貫通し消える。
まだ中心は見えない。既に一日の最大数を更新する数を片づけたにもかかわらず、である。
渦状から網状と化した群れが柚瑠に激突を始める。
「ああああああああああああああああああああ」
髪の毛から滴る液体が強烈な死の香りを発する。全手の毛穴が埋まりそうなその下等な臭いに、顔がゆがみ続ける。ついに速度も落ちはじめた。右肘関節に擦れきった骨が肉に刺さる嫌な音がする。それでも振るう。一点。一点だけでも穴がそこまで通じればと信じている。
その願いを信じて血を流し続ける。
意識が薄くなる。くらっとくる。
いくら歴代で2番目に血力を持つ柚瑠といえど、その膨大な数を前に一点突破することも叶わない。
背筋をつたってくる不快な感触。
新たな暗器を取り出す。気が遠くなりそうな惰弱な精神に向け、背後の厭ではなく、己のふとももへと切っ先を向け、そのまま勢いを殺さずぶっさす。
「い、っつぅ!!」
抜く。吹き溜まりの中で鮮血が無重力状態のまま吹き出す。
痛い。
まだ、死んでない。
血に濡れた暗器を両手で掴んだまま、足で背後の厭を蹴り上げる。上からくる厭と合体するように潰れた厭をそのまま暗器でぶち上げ、そのまま弓のようにしならせた体躯の反動を下の一点へとぶち込む。
「あああああああああああああ」
空中が消え、厭の地面へ突っ込む。だんだんと前転始める体を背の筋で砕き、今は息をすることを放棄し、言葉通り全身全霊を込め敵へとその筋を放つ。
しかし、
その意に反し、速度が低下し始め、徐々に失われていく自分の力に、柚瑠は抵抗ができなくなり始める。まずい。いけ。むりだ。いけ。抜ける。だんだんと閉じた指が開き始める。
まっ
意識が急激に飛ぶ。飛んだ。白い世界から気持ちの悪い色の世界へ帰還するも、打つ手は浮かばない。呼吸が一度消えた。この時、未だ山は中腹を過ぎたのみ。今はただ握った両の手を閉じこむことに神経を注ぐしかできない。いつかは止まる酸素ボンベだけを持ち宇宙に取り残された宇宙飛行士のような恐怖が全身を襲う。
右手の小指が武器から離れた。既に全身が浴びる高熱の焔とも思える厭の生体消滅反応を意味する熱すらわからなくなる。
左手の親指と人差し指が死んだ。順番のとおりに行かずに飛び抜かされた力の衝撃が、無間の地獄への誘いのように体に響く。
左手が全てを離れ肩まで持って行かれた。
この時一度意識が飛んだ。しかし、肩の外れた痛みで何とかこの世に生還。しかし、もう限界が近いのは明らかだった。
もう、だめかもしれない。たとえ、間に合ったとしても――。
底が見えた。
血の痕跡が赤々とした道を作って、死への道が点々と連なっている。
しかし、もう、
柚瑠は目を瞑った。
しかし、その姿を思い出すと、瞼が上がる。
気を取り直す。柚瑠は一体の厭の下から入った。仮に思想に左右があるなら、上下もあるに違いない。それと同じく、打撃には上下左右があるほか、前後縦横東西南北、艮巽坤乾、春夏秋冬、武雀竜虎を備え、抜刺切断、雌雄頓緩とを無意識に繰り出す。
一秒たりとて減速をせず、常に刺ないし断にて頓の動作を発す。影をも置き去る急激さに肉体が叫びをあげる。目の前には厭が人間であれば驚愕の表情をしているかのように、柚瑠を避けようと努めた。
気にせず、気にする気力すら残っておらず、そのまま体を委ねた。
回避活動をしなかったことが、むしろ己を救うこともある。数体ほど巻き添えにして、ついにあの二人の姿がはっきりと見える距離を睨む。
ささくれ立った感情が、柚瑠を何とか正気へと保った。
最後に、敵のお頭の位置だけをはっきりと見据えたまま、落下を終えた。
* * *
地震が起きたかと思うくらいの衝撃が襲った。建物全体がその辺の積み木になったのかと思うくらい揺れた。
「な、何が」
嗣平はモニターから関心を移し、その原因を萩原に求めた。萩原はその男子生徒の頭を掴み再びモニターへと向け、
「もう、始まってるわよ」
「え、うわ」
嗣平の目に得体のしれないものが映る。
その姿が仮に人間の姿であるなら、何の力が作用しているのか。明らかに臓器がいてはならない場所にいるし、何かの破片が飛び散っている。接近すればそれが肉片なのだと嗣平にもわかるだろうが、カメラは決してズームをすることはない。
若槻が、棒切れを一本振り回し、タバコを口から吹き飛ばす。
「……何が、起きたの?」
「準備運動、ってところかしらね。やられたら、洒落ならないわよ本当」
モニターが、影の中から、二体の姿を映しだした。片方はその下衆な思考をその実に宿すがごとく醜悪な、巨大な白い厭。萩原がそれが厭の本体であることを告げ、初めて嗣平にもその存在を識別可能とした。
「もう一人は?」
「たぶん、冥界のやつ。あいつ、見たことある。あれは……」
その、坊主頭が叫んだ。
『やい。若槻てめえストーカーかコラ。いい加減俺の前に姿を現すんじゃねえぶち殺すぞ!』
若槻は何かを言っているが、マイクは何も拾わない。
坊主頭はその言葉に何を思ったか、何かを行った。嗣平にはそれが見えなかったが、萩原に顔を向けると、
「水、ね。あの坊主頭、水を操ってるみたい」
よく目を凝らしてみれば、確かに地面が湿ったような跡が残っている。実はそれは先ほどの人間の姿をしていた厭が撒き散らした悪臭を放つ汁だったのだが、嗣平はそんなことなど分からない。
正確に、理解しているのは、現場にいる若槻だけだった。
* * *
若槻は、その棒切れに付いた汁を一振りで落とす。
「あー、きたねきたね、やだやだ」
目の前にいる坊主頭をとっとと片づけるのも一興。しかし、若槻はもう一体の、本体を叩くというやり方も好んで行う。その理由は、それが合理的であるからという一般的な理由からでなく、ただ単にエネルギーが大きい分、実験もたくさん行うことが可能であると言う点、要は、モルモットとして最適だからということにある。
いたぶって殺すのも一興。さっさととどめを刺すのも一興。ならば子供の足し算。道理は固い。
だが、若槻はさらに異なることを考えていた。それを実行することが意味する問題は、楽しさ以上に過酷さをもおびき寄せる。
坊主頭がぴーひょろろ。
「聞いてんのかこの蛆虫! 俺はもう帰るからに度々来るんじゃねえぞバーカ。確かに言ったからなこのトンチキ野郎!」
若槻が返事をしないでいると、本当に坊主頭は帰ってしまった。当然帰ると言っても、物理的な手段などでは理解不可能な方法であり、それを若槻もわざわざ説明する気もないのか、あくびでカメラに答える。
さて。
今、この空間には、自分とあの本体しかいない。
若槻はその事実を得ると、普段であれば大笑いの一つでもしてしまうところを、ほくそ笑むだけにとどめた。
本当に楽しいのは、これからなのだから、まだ笑ってはいけない。
ひゅんと音立て棒切れが空を切ると、若槻は戦闘態勢に入った。




