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33 事態 その3

 悩みに悩んで決めてからというもの、それでも未練たらしく、理屈が囁きかけてくる。

 馬鹿みたいに悩んだ。

 しかし、身体は肯定を続けてくれているのか、普段以上に動いた。気持ちよくすらある。

 だから、中古車屋で一緒だった二人には、「ごめん」とだけ言った。

 動くが早いか、女の姿を見失わないうちに駆け出した。

 バス停を過ぎる。三丁目の角を左。直進して車通りの少ない横断歩道をたったの5歩で渡る。建物の裏と裏とを突き抜けぶっ飛ばしに飛ばす。

 夜に照らし出された影が射す。

 前方上空を睨む。

 その影の背中が遠くなっていくのが見えた。

 こちらを一瞥することもない。女はどこへ急いでいるのか、光線のように同じ方角を見続けていた。一切攻撃をしてくることもない。

 自分は眼中にすらないのか。

 舐められたものだ。

 そう柚瑠は思う。

 北の大通りへ出た。この辺りが大通りにもかかわらず信号が少ない理由は、単純に交通量が少ないことに加えて、この先には田んぼか森、または畑くらいしかなくなるためだった。が、必死な柚瑠はそんな小事など頭の片隅にも思い浮かばない。他には古くから言い伝えのある池……というより今となっては沼と呼ぶ方が正しいような、由緒正しい水溜りがあるくらいなので、別に柚瑠と言わず、一部の人以外にとってはどうでもいいことにすぎないのだ。

 しかし、この辺りで育った高齢者に話を聞くと、次のような話をしてくるに違いない。

 人より怪異の類が多し。悪さすりゃあ、警官よか奴らがさきに来らあな。

 そんな冗談が飛び交う地域に足を踏み入れようとする輩も、昔はよくいたらしい。実際に変な幽霊みたいなのを見たことがあるというアホもいたそうだ。しかし今となっては怪異ブームも昔話の仲間入りをしつつある。今日日こちらに来る物好きは、邪な目的で来る他、ほとんどいないのが実情であり、地元の人からしたらありがたい話ではある。

 建物の数が減ってきた。

 柚瑠はほくそ笑んだ。

 障害物が少なくなってくるのは、願ったりかなったりだ。あの女の姿をはっきり見ることができる。これから先、身を隠せる場所は少ない。

 誰がこそこそ隠れていようが、見逃さない自信だってある。

 角をハイスピードで曲がる。

 視界が開けた。

 この先は大きく分けて、2本に道が分かれている。しかし、どちらの道を行こうが、その姿を見失うことなどありえない。一つは先ほどの池こと沼、もしくは水溜りの方の田園地帯へつながる道。もう一つは、最終的に行き止まりになる、一帯に森が広がっている道。後者は通称「千間林」と呼ばれており、おっかない話の舞台として、冗談めいた使われ方をする。

 いずれにせよ、ありえないことのはずだった。

 なのに、女がいない。見当たらない。

 瞬間移動でもしたのだろうか。いや、それこそありえない。

 正常な思考がエラーを修正する。つまりは、見失った、ということになるのだろう。

 しかし、まだ柚瑠はあきらめる気にはなれない。何かのトリックに引っかかっただけに違いないのだ。奴は様子を見て陰でくすくすと笑っているに違いない。

 まだ追える。

 そしてそうするならば、次に自らへ課すべきことなど既にわかり切っている。

 集中する。

 また、葛藤と決定の時間がきた。立ちどまって、周囲を確認してみる。車も人も通ることのない道の街頭はやけに、眩しく感ぜられる。

 何か光るものが目に入った。

 街灯の根本、機械の残滓とでも言おうか、妙なテカり具合が素人仕事を匂わせる破片のようなもの。それを柚瑠は拾い上げる。光に様々な角度から当てる。よく見ても何の破片なのかはよくわからない。

 異音がした。

 慌てて破片をポケットにぶち込んだ。そのポケットの中にあった暗器を握りしめる。

 音の一方は千間林の方からだった。

 そしてもう一方は、自分の体からだった。よく耳を澄ませてみる。

 暗器を握りしめたほうとは逆、反対側のポケットが何やら騒がしい。

 気が付く。

 声っぽい音。というより、完全に言葉だ。

 見当が容易につく。慌てて通信機を取り出す。

 通信が回復していたことは、その声からわかった。

『おい! 自分勝手な指示改変を繰り返すようなら、いい加減に出るところに出すぞコラア!』

 第一声は恐喝だった。

「……。現場判断で動くなということですが、彼女を放置しておくのはまずいかと思われます」

『何だ聞こえてんじゃねえかコラお前今どこいるんだとっとと返事しろや任務守れ戻れコラ』

「要件は手短に。異常事態か何かあったんですか」

『おめえが勝手に行動してんのが一番異常だ頭どつくぞこらいいからどこにいるのか言えややることやれやコラ」

 聞く耳持たずだ。しかし、

「わかっています。でも、やっぱり……」

 柚瑠は千間林へとそのこわばった表情を向ける。

『でももへったくれもないさっさとしねえとこっちもあとがつまってんだよ」

 しん、と音がした。

『おい聞いてんのかお前。……もしかして、敵がいるのか。だとしたら手を出すなよ奴は老けたといっても萩原をやるようなやつだぞおいこら返事をしろや』

 突き刺されたような感覚に襲われ、心臓が鳴った。まがまがしいような一瞬が確かに存在していた。

 平穏な中に突如現れた正体。

 握りしめていた暗器を離す。ポケットから出した手を開くと、じわり、汗がしわにしみこんでいた。

 その違和感の来た方角は、今、己が見ている方角と一致している。

 いる・・ような確信がある。

 けたたましく喋る通信機を耳に当てているのに、遠くで鳴った音が自然に、耳に入ってきたのが分かった理由は単純だ。

 すんなりとくる、身体に馴染む音。自分が昔からよく知っているものとそう大差ない。

 嫌な予感がした。

 通信者の声が耳を素通りしていく。

 行かなければならない。心が破裂しそうなくらいにそう叫んでいた。

 決めた。

「ごめんなさい」

『おいこらなにが……』

 そう言うと、柚瑠は一言も言うことなく通信機を遮断し、物理的に破壊した。これで、強制的に起動され介入されることもない。

 行こう。

 そう決意すると柚瑠は、これまでよりもその足を早く、強く、遠くへ向けて駆け出した。

 行先は、千間林。


 * * * 


 命を懸けたっていいと思った。だって――。

 柚瑠は森を抜ける。柚瑠は誰の背中も見つめることもなく一人進む。嫌な予感が増していく自分自身に、いったい何があるのかと、そう問いかける。答えはない。少しの期待と茫漠たる不安が暗い林間を振幅して増す。

 静かな空間に響いてくるのは一人の足音だけである。しかし、柚瑠には異なる音が聞こえる。緊張が増してきたせいなのかもしれない。その足音が自分を置いて去って行ってしまう人々の、何人もの亡者が醸し出す音のように聞こえる。

 足がもつれそうになる。何度かたたいてやると、元気を取り戻したのか、熱を持って動くようになった。

 徐々に木々の腐っていくような臭いが増していく。

 スクラップが雑草の合間に落ちている。よくわからない機械が吐き捨ててある。以前に人が住んでいたような形跡の残る住宅が木々の合間から挨拶をしてくる。

 一人でいると気がおかしくなりそうになる。

 誰も寄り付かないわけだとひとり合点がいく。

 次第に風通しがよくなってきた。

 出口があるなら、おそらく近いのだろう。その予感に、より一層足に力がこもる。弾丸のように木々の合間を突き破るごとく進む。

 何か、音がする。

 何か、声がする。

 臭いがちりちりと鼻腔を焼く。風に生々しい色がついたように感じる。汗すら追いつかないほどの熱が体中に立ちこめる。

 それを見た瞬間、嫌な予感が、最悪の事態へと塗り替えられた。

 森の奥に着いた。


「なに、これ」

 場の圧縮が起こっている。

 足元から通信が急に入った。驚いて飛び上がる柚瑠など気にもせず、その通信機からは声が飛ぶ。誰の通信機なのかは分からない。分からないが、少なくともこんなところに意味もなく落ちている物ではない。

 仮に意味があって落ちていたとしても、恐らく柚瑠には理由はわからない。

 声が、言葉として耳に入って来た。

『おい、今どこにいるんだ!』

 ここは、何処だと言えばいいのかわからない。ただ――。

『応答しろ! 返事をしろ命令だぞ』

 目に映るものが現実だと思えない。なぜこんなものがおおっぴろげにあったことにだれも気が付かなかったのか、常識なんて今はあてにならない。

『報告せよ!』

 ありえない。気が付かないわけがないのに。

 思考が人という檻を通り越して、振動となって柚瑠の口から呟かれた。

「……泉」

 柚瑠は駆け出した。というより、落下を始めた。嚢からいくつか針を取り出すと全部放り投げた。

『泉? 泉だと! どこのだ!? お前、テンじゃないな!? 所属と認識番号……』

 もう、無線に耳を貸さなかった。貸せなかった。

 氷菓子が溶けるように言葉は途中で消えていった。

 相手にあたる通信者は音声情報の解読に成功。返事をしろとかやめろとか抜かしながら、その正体が小山内柚瑠であると認識すると、一段と声を荒げた。「泉」に心当たりのある場所を思い浮かべ、「泉」の意味する最悪の想像に思い至る間際、お前まで失っては申し訳がないとかすぐさま救援を送るだから待てなどと叫ぶが、そんな流れ出る声はすでに単なる雑音に過ぎす、柚瑠は音をすでに置き去りにして、中に突っ込んでいた。

 万を超える厭の中、取り囲まれている二人。

 自分の追いかけていた女が、反対側へ逃げていくのなんて目に入らなかった。

 空を切り裂くように絶叫が響く。

「ダメ―――――――――――――!」


 * * * 


 テンは頑張ったが何とか和也を守るので精いっぱいだった。

 数が多すぎる。しかも囲まれている。呑まれそうになる。

 ほとんどすべての道具と力を使い果たして何とか、敵との距離だけは保っている。

 しかし、もう限界だった。

 記憶が退行を始める。

 

 泉、それも己の知る限り最大級の泉が、目の前に広がっていた。

 厭で、埋め尽くされていた崖下は、海のようだった。その中に、人影のようなものが見えた。

 逃げるより前に、身体が動いた。二つ、想定外だったことと言えば、一つはその人影は既に人ではなくなっていたのだから、単なる影でしかなかったことである。

 もう一つは、高杉和也は本当に厭が見えていないのだ、ということだった。

 しかし、前者は落ちている最中に判明したのに対して、後者は落ちたその後で判明したことだった。

 身動きの取れない蝶のような自分が、自分たちが、どうやってこの場を抜け出せるかなんてわからない。

 テンの頭の中に、蜘蛛が巣を張る部屋で行った、昔の研修が思い出された。


 薄暗い部屋でシンナー臭が立ち込める中、講師がこう告げていた。

 泉にはまず間違いなく大量の厭と本体がいる。なぜなら、泉は既に狭間となっているからだ。なので、この場所自体が厭を生み出す。では、我々が対処する必要があるだろうな。(ここで少し間があった) しかし、最初に選択しなければならないのは退路の確保であることは強調しておく。間違っても倒すことを前提に作戦を立てないこと。いいな。絶対にだ。

 一人の馬鹿者が手を挙げて、あてられるより前に質問を飛ばした。

 指導官質問であります。では、その泉とやらはどうしておくんでしょうか! 放置してたら、被害が出るのではありませんでしょうか。

 講師はこれ以降真顔で語ったことを、テンはよく覚えている。

 講師。

 仮に我々が十人いたとしよう。そこで、泉に攻撃しようとした。そしたらどうなると思うかね?

 生徒。

 多少の犠牲がいるかと思われますが、ある程度成果をあげ、

 講師が途中で遮った。

 全滅だ。

 その完全に断定した語調に、生徒の中で声をあげるものは一人もいなかった。

 講師。

 全滅で済めばいい方だ。喰われて呑みこまれ、向こうの世界に変化させられるだろう。狩り屋たちほどに我々は血力けつりょくも戦闘脈も備わっていない。だから、殲滅ではなく、退路を持って、仲間を救う。これ以外は、泉に単体、チームで近づいてはならないのだ。

 人が五万と死んでいる。

 すでに狭間と化した場所、泉の厭は消したところですぐに復活する。まとまった組織全体で対抗せねば、全滅は免れえないのだから。

 それから、講師は沈痛な記憶を訥々と語りだした。それは、


 痛い。

 前回、体が痛みを感じたのが遠い昔のように思える。

 テンは久しぶりにきた潰れるような痛みで目が覚めた。と言っても、死んでたのは時間にして30秒少々に過ぎない。記憶の退行が何とか止まった。

 呼吸がテンの口から出た。

 体中の関節が悲鳴を上げている。指が折れてはいけない方に曲がって駄々をこねる。顔の半分に溶けかかった赤というよりピンク色が表に出てくる。

 そもそも戦闘向きでないから監視役なのに、それでも10匹は倒したのに、それなのに、

 テンの思考も焦点も既に定まってはいない。和也が何かを言っている。ゴーグルなんてつけて何をしているのか、何が見えているのかにすら思考が及ばない。

 和也はへたり込んだ自分の肩に手をあてている。

 しかし、その手が震えているのすらわからないほど、テンは衰弱していた。

 ようやく目が情報をとらえた。うしろから迫ってくる厭の波動をスローモーションに感じる。そして、その瞬間にもう一つ目に入る。

 人影が上空から飛んできている。森に入る前に見た姿を思い出す。

 茶髪の女かもしれない。

 その姿が月と重なった。月がまるで一つの舞台であるかのように、主役を描き出している。後光に照らし出された女性が、作り物のように美しく、輝いていた。

 表情はなぜかはっきりと見えた。

 ものすごい顔だ。


 厭の海が、空の一点へと向け、その悪意を睨みつけた。


 * * * 


 アクシデントが続きまくっているらしいと聞いた。

 しかし、概ね終息したとの言葉を受け、嗣平はホッと胸をなでおろす。

 とても気になることは多い。だが、一番興味をそそられることは次のことだった。

 あの男が戦う瞬間を見ることができる。

 若槻の戦いが、認識できている残ったアクシデントのうちで最大のものらしい。それでも、若槻が戦うのを見る機会などそうそうない。あの萩原先生までがそう言っているのだから、あの男はこれまでどんな風にやっていたのか、今まで気になっていたのだ。

 嗣平が映し出された映像にくぎ付けになっていると、萩原が覚めた目で呟いた。

「これが済んだら、あなたの出番かもしれないのに、どうしてそう……」

 映像が一瞬乱れ、何かが映った。

 萩原の声など聞こえなかったのかもしれない。嗣平は画面を食いつくように見ている。

 あの男――若槻は、何かをたくらんでいる。

 萩原にはその確信があった。

 基地から多少離れているとはいえ、奴のいる場所に敵が湧いてくることなどこれまでほとんどなかった。それは対策が完璧であったほかに、この土地自体・・・・・・が変化したという理由まである。

 なのに、厭の、しかも、本体が出現すると、あの男は予想した。そのとおりになった。

 しかも冥界の下っ端までいるときた。

 奴は何を知っているのか。何をしようとしているのか――。

 萩原の心中が他の誰も分からないように、若槻の心中など、萩原にもわかるわけがなかった。


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