02 転校生
「くそ。あそこで電車を逃さなきゃなあ」
杉内嗣平が一人ごちりながら、時計を見ている。嗣平の時計で、時刻は午前10時18分になったばかりだ。
始業式の終わった体育館はひっそりと佇んでいる。周囲にはあるのは、久々に会った知り合いに挨拶するように首をもたげた草たち、ポイ捨てされた雑多なごみ、拾い忘れたテニスボール――。
嗣平はその体育館脇を通り過ぎて、直接に一階の3年1組の教室に向かう。裏から周るとショートカットできることを、彼はよく知っていた。
見つかったら注意されるだろうが、何をいまさらといった態度で嗣平は進む。
去年もそうしてきたのだから。
あれからが大変だった。
電車は逃す。家の鍵も忘れたバッグに入っていた。しょうがないから、自分の部屋まで何とか登って侵入。出発後すぐに近所のおばちゃんに捕まる。しょうがないから世間話。カギを閉め忘れたと不安になって、途中で引き返す。ちゃんと閉まっていた。
自分を信じてあげたらよかった。今度からそうしよう、と今は嗣平はそう思っている。
自分が遅れた原因が判明する。己の腕時計が1分遅れていた。たったそれだけが全てを左右したのだった。
悪いことは続くとよく言われるが、まったくもって同意見だと嗣平は思う。
何とか駅に着いたら、今度は人身事故で電車が遅延ときた。
20分待って、運転再開。またもや満員電車。
電車に揺られて、今度は、新学期が終わってしまいそうな気がした。
そんな苦難を乗り越え、ようやく学校に着いたのだった。
「もうHR始まっちゃってるかな」
遅刻を咎められた部下のような渋い顔をして、嗣平は呟く。返事をする者はいない。
校内に通じているドアを開け、脱いだ靴を手に持って教室へ向かう。
騒ぎ声が聞こえる。幸い、まだHRが始まっていないようだった。
閉まっている後ろ側ドアの前に立つ。
嗣治は一度深呼吸をした。ドキドキしながら手をかける。ドアの向こうには、違った日常が待っているのだろうか。そんなことを思った。
「ん」
そして、嗣平はいいことを思いついた。
愚かにも。
* * *
「それで? 嗣平帰っちゃったわけ?」
高杉和也に対して、富田保が尋ねた。
「そーなの。人の言うことくらい聞けばいいのにな! 保はちゃんと聞いてくれるからすきー」
和也はそう言って、腕を回そうとする。保は無下にその腕を手刀で払った。
「俺はお前嫌い」
「えー。いいじゃん。浮気浮気。彼氏もいいもんだ」
和也は人差し指を立て、顔といっしょに傾けて言った。
「ボーイフレンド? こんな幼馴染、いや?」
「はあ。……あのなー」
保は自分のもみあげを一撫でした。いつもの癖だった。妙に長いもみあげと襟足は、ちょっと前にはやったウルフカットの亜種。保は高校に入ってからずっとこの髪形を維持しているのだった。
ついでにいうと、保は和也と違って計画的な男でもある。予定に遅れることはまずない。予冷が鳴る頃に、教室移動を終えていることも珍しくない。中学までやっていた厳しいラグビークラブでの教えは、ラグビーをやめて3年たっても抜けないのだった。
「彼女作れば? お前、モテないってことはないんだから」
黙っていれば、だけど。保はその言葉は付け足さなかった。
「彼女作ったら、お前らとの青春が減っちゃうだろー! 保だって、そんなのいやだろー」
俺はいやだ。和也はその言葉は付け足さなかった。
「俺は別にいいけど」
「そんなー!」
「あー! ベタベタすんな! うざいうざい!」
保は思う。周りの目が痛いと。
和也は思う。もっと見せつけてやれと。
空気が変わった。
ドアの開く音が教室に響く。喧騒が嘘のように止む。己の机に着席している数えるほどしかいない真面目な読書青年も、教室の後ろでたむろしているちょい悪グループの中心的存在も、見慣れない異物の混入に気が付いたNK細胞といった様子で、対象に視線を奪われている。
保と和也について言うと、二人の目も同様にそれを捉えて、ちょっとした驚きをお互いにさとられないようにしたが、そのあとにちょっとした合意をアイコンタクトで取った。
保の時計は10時33分を指していた。
* * *
「おらー! てめえら! もう! HRの時間だー……ぞ……?」
その時、杉内嗣平の全身からは冷や汗が湧き出て、次第に顔は赤く染まっていった。
嗣平を戸惑いが支配した。
こいつら、誰?
一人とて、知っている顔がなかった。実際にはテニス部時代に後輩だった粕谷真がいたのだが、そんなちっぽけな存在を認識する前に、嗣平の思考はストップしてドアを閉めていた。
前の扉にあるクラス札を確認する。何回見てみても、嗣平の目には2年1組と写る。
ようやく、現実感がやってきた。
間違えてたんだ。
去年のクラスだ、ここ。
脳みそがその答えを叩きだすと、急激に恥ずかしさが押し寄せてきた。
膝を抱えて落ち込んだ。
一呼吸おいて、2年1組の教室からドッと笑いが起こる。嗣平はため息を吐いて、それから、顔を天井に向けた。
今日はダメな日だ。前置きもなく突飛な行動をとるのは頭が足りてない証拠だ。何が、自分をそうさせるのだろう。そんなことを思っても、いくつも思い当たる原因たちは考えれば考えるほどに、嗣平を反省へと促していく。
成果もないわけではない。皆結果的に、笑った。まあ、その皆とは3年1組の皆ではないし、笑ったというより笑われたのだが、嗣平はそう捉えることにする。
「でも、ま、楽しいのは何より、だ」
嗣平はとぼとぼと自分の教室へ歩き始めた。
* * *
橘台高校には東棟と西棟がある。それぞれ、東1棟、東2棟、西1棟、西2棟に分かれている。
嗣平が間違えた2年1組は西2棟の1階で、目的の3年1組は西1棟の1階にある。裏から入ったときに、右に行けば2年1組。右ではなく左に曲がればすぐあるのが3年1組。逆に行ったのが運の尽きだった。
そして、あれから少し時間が経過して、嗣平は3年1組の教室の前に立っている。もういいことは思いつかなかったし、やろうとも思わなかった。
前のドアが閉まる音が聞こえたのはさほど昔話でもない。先ほどまで誰かがいたであろう場所の上で、3年1組のクラス札が微かに揺れていた。
チャンスだ。
まだ先公が来たばっかりなら、なんとかやり過ごせるかもしれない。嗣平はそう思って、ドアに手をかける。
あくまでゆっくりこっそり、ドアを開けて教室内に侵入した。
何かがおかしい。
嗣平が頭に浮かべた日常。その入り口とは大きく異なっている空気が、教室を支配している。緊張。そうとでもいえばいいのか。しかし、もっと重い何かが存在している気分に陥っていく。
顔を前方に差し向ける。
だれかが、いた。
そして、嗣平は入り口で立ち尽くした。
後で和也は語ったところによると、一分くらいはそうしていたらしい。
嗣平の時計は10時30分を指していた。
* * *
黒板にはこう書いてある。
小山内 柚瑠
担任の坪下博之42歳独身日本史教師は、杉内嗣平の存在を認識した。
「おい。杉内。お前何やっとるんだ。始業式はもう終わったぞ」
杉内嗣平17歳独身偏差値55は、坪下博之の存在を認識できなかった。
「ほら、つっ立ってないで早く座れ。あー、ったく。えー、話の続きだったな」
その代わりに、嗣平の全神経は、彼女の存在だけに集中していた。
「えー、さっきも本人が言っていたようにー」
その女の子は、この季節にふさわしくない、他校の夏服であろう半袖のセーラー服を着ていた。
「まだ分からないことだらけだと思うから、皆で教えてあげて早く仲良くしろよ」
駅でぶつかったあの子だった。
「まあ、慣れるまではゆっくりとするといい」
窓から射す陽が、彼女の顔を鮮明に浮かび上がらせている。駅で会った時よりも、黒板の「小山内柚瑠」を背景にした彼女は、美しく見えた。
「何か付け足すこととかあるか?」
坪下が彼女に尋ねる。
彼女は、教室を一周眺めて、それから、
嗣平を見た。
二人の目が合った。
意識したかどうかは分からない。抜かりのない笑顔で、
「小山内柚瑠です。よろしくお願いします」
そう言って、壇上を降りる。出席番号23番の席に小山内柚瑠は座った。
「すぅぎうちぃ。いつまで立っとるんだ。あと、後で職員室に来い。いいなぁ」
ねっとりとした声に、教室の連中はハズレ担任を引いたという合意形成が暗黙の内になされている。
しかし、嗣平の目には小山内柚瑠の5文字と、彼女の微笑みが、いつまでも焼き付いていた。
黒板の上空にある時計は、10時30分で止まっている。