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23 病院にて その3 退院記念日

 先ほどから繰り返してきた説明の最後に、夏目一佐はこのように付け足した。

「つまり、君に囮になってほしいという訳だ」

 顔をしかめた。二人きりの部屋の中で詳しくは知らないが、電磁機の音が鳴っているらしい。

 嗣平の心の中に、ほんの少し怖いという気持ちがよみがえってきた。

 わかってる。

 美味い話ほど信用のできないものはないのだと、改めて嗣平は思う。宙を遊んでいた両の指を握りしめる。

 あれこれと募る悩みの中でも最大の種。しかしいざ切り出されてみると、あっけないたった一言。

 わかっていた。

 結局のところ、それが全員にとって最良の方策なのだ。

 俯きかけた顔を上げる。

 胸の階級章が威厳を放つ初老のおっさんの手にはナンバーがある。渡された名刺に書かれた夏目権蔵の名前に劣らず、渋めな面に軍服姿がよく似合う。白黒写真を見せられて、昔の名優と言われたら信じてしまいそうだ。

 嗣平は伸びかけた手を空中で静止し、ひっこめてから一言二言ボヤく。馬鹿馬鹿しい話だが、この時の小言は夏目一佐の娘、幸代に近頃よく愚痴られるものと一言違わず一致したものだったため、夏目一佐は幼かった頃の娘を思い出し、現在居場所のない家庭内での悲しさを何とか晴らした。

 嗣平はそんなおじさんのことなど気にも留めず、

「条件をちゃんと、守ってくれますか」

 そう聞いた。

 呑み込みの早さに感心したか、一佐はぼやけていた口元を引き締め、厳に、

「我々が守れるものは全て守るとも。しかし、万事に優先するものはあることを理解しておいてほしいのだ」

「みんなを巻き込まないってことを、その口で確実に保証してくれると言ってもらえなければ、僕は受け入れる気はありません」

 しかし、頭の片隅でもう一人の自分がささやく。その言葉は、いやに虚しい。

 ハイエナが助けを乞う獲物の言葉を聞くだろうか。

 常に力を持つものは決定権を持つ。生殺与奪の理の前に、建前をいくら並べても食い千切られ全ては泡へと帰す。

 たとえ、この場で口約束などしても、いくらでも無かったものにできるはずだ。

 そんな考えを幾度も嗣平は振り切る。それが事実でも、目の前の男に口にしてもらわなければ気が済まなかった。

「僕は、その約束を守ってもらえるのなら、受け入れます。『君、ちょっと行ってくれないか』 そう言われれば行きます。だから」

 嗣平の言葉を遮るように一佐は口を開く。

「わかった。わかった。君が再三言う、その事、つまり、君の家族や友人、学校への干渉は最小限にすることを約束する。だが、仮に、君の周囲に不審な動きがあったときには、こちらも優先すべきことがある。しかし、それでも、安全の確保については最大限のリソースを割くよう努力を怠らないことを約束しよう」

 話が終ると、一佐は立ちあがり目利きをするように、座す嗣平の全身を見た。それから、

「では、病室へ送ろう。ナンバーは君との約束を担保するために、その言葉を入力してから渡す。誰が見ても分かるように、な。なに、本日中には受け取れるようにしよう。それまでに荷物をまとめておいてくれ。もし通信紙が入っていたら、条件の可否について報告しておいてほしい。頼んだぞ」

 一佐はパネルを操作し室内が非常灯のみで照らされるのを見ると、手招きで嗣平を呼び、告げた。

「まあ、気負わんようにな」

 台風が過ぎた後のような顔の嗣平は立ちあがり、一佐の後ろをついていく。

 

* * *


 十八時〇〇分に迎えの者を寄越す。


 それだけ言うと一佐はすぐさま次の業務へ向かった。

 一佐を見送って部屋に戻ると、嗣平はとりあえず荷物をまとめる。ひと段落すると、ベッドに横たわった。

「はあ……」

 聞いた話によれば、他の皆はもう日常に復帰していったらしい。小山内もたづなも昨日、木曜日から学校へ、萩原先生も今日保健室へ復帰だとか。

 しかし、それ以外の情報はやはり自分の目で確かめるまでは信用できない。

 そうしていてもしょうがないのに、嗣平は手を足をぶらぶら遊ばせてみる。横になってできるわけもないのに、素人丸出しのデンプシーロールを空中へ打とうとすると、ベッドから転がり落ちる。

 時計を見る。

 十六時二十五分。

「まだ一時間三十分もあんのか……」

 あきらめて、全身を白の海へ投げ出す。

 一歩も動かないでいると老いぼれていくように意識が薄くなり、最後には消えた。


 声がする。

「起きて。もう時間よ」

 寝ぼけ眼の焦点が合う。声の正体が小山内だと分かった。

「荷物、大丈夫よね。廊下出しておいたから、あと忘れ物無いようにして」

「うん。あ、ごめん。もしかしてずっと待ってた?」

「いいえ。ついさっきよ来たの。じゃあ、行きましょうか」

 

 その辺の家の人が見たら驚くような高級車が何台も地下駐車場に停まっていた。しかし、嗣平が案内されたのはその辺で走ってるようなバンで、運転手を除けば、小山内と二人きりなのにこの広さは実に無駄だと思う。

 嗣平は乗車して地上へ抜ける車の中、次第に変わりゆく風景に田んぼ以外の色が混じっていくのをただ見ていた。

 言葉が出てこない。

 あの萩原先生との一件以来、小山内とは顔を合わせてなかったせいかもしれない。それより、他の連中のことが気になっていたせいかもしれない。理由は探すまでもなく転がっていたし、そうして自分の黙を正当化してしまうことは容易い。

 それでも、嗣平は何か喋った方がいいような気がしていた。よおし、何を言おう。まずは、休んでいた間の学校の様子とか、授業とか……。

 すると、隣から、

「明日」

 嗣平はその顔を小山内へ向ける。

「明日?」

 小山内は、窓を眺めたまま、一人でに呟く人形のように、

「明日、ちょっと時間貰っていいかしら」

「いいけど」

「そう。じゃあ、駅に、一時に待ち合わせ」

「うん。わかった。けど、どこか行くのか?」

 小山内の返事はなかった。静まりゆく車内と対照的に、街の中に入ると明るさは増していく。あれだけの騒ぎがあったというのに、何一つ変わらずに営まれ続ける人の群れに、嗣平はなぜだか言いもしれぬ不安を覚えた。

 先ほどの待ち合わせを忘れないように脳内で繰り返してみる。嗣平は約束を守る方だと自分では思っている。入院中に見た夢だって、自分は未だに忘れずに守っている。まあ、向こうが覚えているか正直あてにはならないのだが。

 約束と言えば。

 嗣平は小指を立ててみる。その指の振る舞いを懐かしそうに眺め、

「ゆびきり、か」

 こっそり一人で微笑んでいた。

 早く母親や夕月、奏や和也や保の顔が見たいと、心の底から思った。


* * *


「じゃあ、あとはその人が送るから」

 それだけ言って、嗣平の家の途中でバンを降りた。近くにあるのは公園くらいなもので、この時間の公園に居るのは「良い子の放送」を守らない良くない子くらいのものだ。

 柚瑠はそのまま公園内へと足を踏み入れる。

 悪い子がいた。

「おう。時間ぴったりだな。で、なんだよ」

 30くらいに見えるずいぶんと大きなガキの足元には、3本もタバコが落ちている。

 単刀直入に切り出す。

「変なこと吹き込んだの、あなたでしょ」

「なんだそれ」

 あくまでもしらばっくれるつもりらしいと柚瑠は判断し、

「しらばっくれようたってそうはいかないわよ。変な入れ知恵しない限り、向こうからあんなこと言ってくることない。私、そういう風にしたんだもの。あんまり、舐めた真似しないでくれる」

「それ、わざわざそんなに必死になっていうことか?」

「必死なんかじゃないわよ。でもね、余計な手間を増やさないでほしい。ただでさえ時間がないんだから」

「その割には嬉しそうじゃねえか」

 嘲るように煙を吸い込み、ゆっくりと糸を引くように吐き出された煙が街灯に照らされた。

 なるほど、聞く耳持たず、か。しょうがない。柚瑠は何を言っても時間の無駄だと理解する。

 しかし、言っておかないと、またやりかねない。何より、腹が立って今夜眠れない。

 理解で腹が満たされれば苦労はしないのだ。

「あなたには感謝もしてるし、せっかくの話なんだけどね。私のやって来たこと台無しにしないでもらえる。あなた、何がしたくってそんなことをするの?」

「何も」

「何も。って、あなたね……」

「学生の内は楽しけりゃ、それが一番いいんだよ」

 捨てたタバコの火を靴で消すと、

「もう一年というべきか、あと一年というべきか。ただ、それだけだよ」

「何が、言いたいの?」

「別に。わからないならいいさ」

 冷たい視線を気にすることなく若槻が歩き出す。

 振り返ることもなく、肩ごしに「じゃあな」というと若槻は暗闇の一部となった。

 残された柚瑠はしょうがないのでタバコの後始末をして、しょうがないので公園を後にしようとして、

 やめた。

 しばらくそのまま、柚瑠は公園に取り残された。


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