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01 新学期

 ようやく新学期が始まったんだ。 

 4月7日、上り方面に向かう満員電車に揺られること10分。杉内すぎうち嗣平つぐひらにようやくその実感が湧いてきたのは、新しく卸されたのであろうスーツの香りを嗅いだ時だった。

 電車が揺れて、新卒と思われし男性が嗣平にぶつかった。バッグがまだくたびれていないこの男性が、周りにいるようなおっちゃんになる日もきっとそう遠くはない。

 自分はどうなのだろう。あまり考えたくはない。

 嗣平は扉付近で苦しい体勢のまま、車内をぐるり見渡す。だが、知っている顔はない。

 去年、二年生の時分には今より1時間早く家を出て、駅でかなでと一緒になって、それから登校していたのだということを思い出す。

 今、嗣平の周りにいるのはサラリーマンのおっちゃん達だった。皆、人の父親なのだろう。いやはや、電気の箱に乗って、どこへ行く。あの世か。

 そんな仏頂面のあふれた車内を見渡すのをやめ、窓を見やった。

 窓には嗣平がうっすら写っている。ちょっと眼付きの悪い、ベリーショートのツンツン頭。口角を上げ下げしたり、目を閉じ開きしたり、自分と同じように動くそいつの、紺ブレザーの間から覗く白シャツは第二ボタンまで開いている。だらりと緩んだ赤ネクタイは、本来5,000円もするそれなりな物だったらしい。

 身だしなみチェックが終わると、嗣平は外界に目を向ける。

 先ほどからスマホが振動している。しかし、嗣平はただ窓から外の景色を見続けていた。

 そろそろ車内放送が鳴る頃だ。そう思った矢先、お決まりのフレーズが鳴った。

(まもなく、たちばな台、たちばな台。お出口は左側です)

 続く英語の放送は聞き流した。停車して扉が開くと、嗣平は十重二十重もの人の群れに流されていった。


 * * * 


 埼玉県立たちばなだい高校、昇降口の右手にある掲示板の前は、むせてしまいそうになるほどの人であふれかえっている。

 今日は特別な興奮が巻き起こる、新学年、新学期の始まりの一日である。

「あー! アタシ三組だったー!」

「いっしょいっしょ! うわーうわー!」

 そんな声があちこちから湧く。

 嗣平が校門からその輪の方角へ歩く。すると、いきなり背中に一発が入った。続いて、右側から首に左腕が引っ掛けられる。

「つぐっひっらくーん。げんきぃ?」

無駄に明るい声だった。

「いってーな! バカ! あー絡むな絡むな暑苦しい!」

「えー。こんなに愛しているのに答えてくれないのお? かずや、悲しい」

 嗣平は左手で和也かずやの腕を払う。和也は意外にもすんなり腕を引いた。

 和也へ顔を向ける。ちょい茶の入った長めの髪をねじねじ、少し崩した制服の着こなしはだらだら、今年も健在の校則違反。

 高杉たかすぎ和也かずや17歳は、その視線に黄色い歯をニヤリっと見せる。

「つぐさー。なんで連絡無視すんのよー。何度も送ってんのに」

「え?」

 嗣平はスマホを確認した。SNSアプリの未読欄に18、そして着信が4件入っている。

「あーわりい。電車が混んでたから、見てないわ」

「えー」

 そのまま生返事をしながら、嗣平はスマホをいじりだした。


 春とは言っても4月の第2週はまだ少し肌寒さが残っている。日陰に入る生徒は少なく、灯りに惹かれる虫のように、陽だまりで貧しい一家のような人だかりを作っている。

 カップルみたいに喜々と抱き合う女子生徒。一方、この世の終わりのような表情で、親友との別れを嘆く者。可愛い同級生の名前を探していると思われる文科系男子。

 毎年恒例のクラス替えは、人事異動よりもドラマチックな匂いを漂わせていた。

 その中で、嗣平は留守電に耳を傾けている。3件は和也からで、彼の声を伝えるスマホが、その高性能な機能を持て余して泣きだすんじゃないかと思うくらい、どうでもいい内容が繰り返されていた。

 そして、最後の1件。和也ではない。留守電を聞いている嗣平の顔が青く変わった。

「あ、」

 嗣平は、己の周囲を確認した。

 スマホから耳を話してぶつぶつぼやく嗣平。かわいそうだから、和也がつまんなそうに聞いた。

「どしたの。つぐ」

「やばいやばい」

 嗣平はさらに辺りを見渡し、何かを探す。しかし、見つからなかったようで、ようやく意味のある言葉を口にした。

「バッ……グ、忘れた」

 

 * * *


 電話は母親からで、玄関にバッグを忘れている、というものだった。

 背後で妹の夕月の「つぐのバーカ」という声が入っていたが、そんなことも耳に入らないほど嗣平は焦っていた。

 一応、掲示板でクラスを確認する。3年1組12番に杉内嗣平の名前があった。

 その直後、和也の証言によれば、嗣平は校門へ向かっている。彼の50m6,6秒の快足が土煙を上げ、姿を晦ました(らしい)。

 和也は遠ざかる背中に向かってこう叫んだ(らしい)。

「おい! 原付貸そうかって言ってんだろー!」

 そんなことも耳に入らないほど嗣平は焦っていた。

 ちなみに、和也からの連絡を全部まとめると以下の内容となる。

(同じクラス! 運命の糸ってやつ?)

 3年1組13番には高杉和也の名前があった。3年1組14番には富田とみたたもつと書かれていたのも、嗣平は見逃していない。


 今、嗣平は走っている。

 たちばな台駅へ向けてミッションを敢行中なのである。8時18分発前崎行き下り列車が標的。

 嗣平は時計を見る。

「よし、間に合う!」

 ぜえぜえしながら口に出すと本当に間に合うような気持ちが増してくる。出発まであと3分。あとは階段を昇って、改札を通過して階段を降りれば間に合う算段。

 そうすれば、始業式が終わってから何事もなくもぐりこめるはず。遅刻しましたサーセン、と頭を下げれば初日くらい許してもらえるはずだ。

 何故か苦しい時には、嗣平は上手くいった時のことばかり考える。

 課題を忘れると、数学の山崎はその倍の課題を出す。だから、今取りに行かねば、いきなり新学年そうそう暗鬱な気持ちで過ごすことになりかねない。

 だから、走る。自分のために走る嗣平は、メロスよりも己の方が速く走っていると確信している。

 何しろ本気度が違う。くそったれのセリヌンティウスのために走る奴より、己の将来のために走る自分のほうが、当然命懸けなのだ。

 そんなことを思って、嗣平は口角をあげる。笑みが漏れる。靴がすれる。

 しかし、肝心なことを怠っていた。

 己の世界に入り込んだ嗣平は、周囲の人々の怪訝な顔も目に入らない。笑いが漏れていたらしく、一度嗣平を見た人はすぐに目をそらしていた。

 そして、嗣平は前を見ていなかった。

 顔を上げて、正面にいた人に気が付いた時にはもう遅い。「つぐのバーカ」がようやく脳内で反芻する。

 相手はその時、走ってくる嗣平に気が付いて何か言葉を口にしようとして――


 激突。

 相手が一周回って、尻もちをついた。

 軽かった。ということは――

 嗣平は自らの痛みより先に、まずいことをしてしまったと、その女性に謝らなければという思考にたどり着く。

 男ならまだしも、女性じゃあ怪我をしたかもしれない。

 ビビリ顔で嗣平は尋ねる。身振り手振りは意味をなしていない。

「すいませんごめんなさい大丈夫ですか怪我とかしてませんかごめんなさい急いでいて前方不注意で、けしてわざとなわけではなくてつまりその」

 その女性の手が伸びてきて、嗣平は口をつぐんだ。

「ええ。なんとか……大丈夫よ」

 嗣平は、相手を見る。

 その人は制服を着ていた。橘台高とは違う制服。セーラー服。

 自分も手を伸ばして、体を起こしてあげようとして、

「あっ」

 その顔を見て、嗣平は凍ったように固まった。


 綺麗だった。

 少し伏せた目から覗く長いまつ毛は色っぽく、すっとした鼻筋と小ぶりな唇は主張しすぎず、足りないということもない。ずっと見つめていたいすらと思う。

 伏せていた目が上目遣いとなって、嗣平と目が合った。その黒目に引き込まれそうになる。

 端正。そんな言葉が嗣平の頭に浮かんだ。癖のない真っすぐ重力に従っている天使のような光沢のある黒髪は、肩甲骨くらいまである。

 柑橘系のいい香りが、嗣平をそっと撫でた。

「ありがと」

 嗣平が差し出した手を取って、その少女は立ち上がった。握られた手の肌はすべすべしていた。

 よく見ると、春だのに半袖を着ている。

「怪我してないし。大丈夫よ」

「あ。そう。ええと、それは、よかった」

 大丈夫。その言葉で嗣平は正気を取り戻した。

 足元に目をやるとスマホが落ちていた。彼女のものかもしれない。

 屈んでそのスマホ手に取る。特に外傷はない。渡すと、彼女はお礼を言ってほほ笑んだ。

 その直後、電車の来訪を告げるアナウンスが聞こえてきた。

「やべえ。急がないと! 本当にゴメンね!」

 ガタガタとホームに電車が来る音がする。嗣平は慌ただしく足を踏み出し、改札に向かう。

 が、角を曲がる寸前に立ち止まった。少女のいた方向に視線をやった。

 もう、その少女の姿はない。

 嗣平はまた前を振り向き、駆けだして、ボヤいた。

「あの制服の学校……この辺にあったっけなあ」

 

 結論を言おう。

 その少女の来ていた制服の学校はこの辺にはないし、ましてやあったとしてもこの時期に夏服を着ているのは、校則違反である。

 そのようなことまで頭の周らないおバカな高校三年生は、今、駅のモニュメントになっている。

 サドンリーにハップンしたインターラプトによって、ファーストプライオリティ、ミッションはフェイルド。しかしそれでも、作戦は続行せねばならない。

 ようするに、嗣平は電車を逃し、お次の電車の来訪を待っている。

 わずか10秒足らずだった。間に合わなかった。

 目の前の現実が音を立てて逃げていくのを目撃しつつも、何もすることが出来ないというジレンマ。

 固まるしか出来ない。

 足踏みしても時間は早く進まないし、脳内で城の堀を埋め尽くすゲームをやってみても1分ほどで埋まり切って、何より、そんなもの面白くもなんともない。

 人のいないホームで、一人、モニュメントが大きなため息を吐いた。

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