18 開始
保険医の萩原静子はひとり思う。
今日は本当に客が多い。
「あれ? 聞こえなかったかな。返事がしないや」
「聞こえてるわよ」
萩原がぶっきらぼうに返すと、女は満面の笑みで、
「じゃあ、話は早いよね。教えてほしいんだけど」
室内へと踏み出す。萩原は3秒間だけその女を目で追う。
タイトなスカートがそれっぽくも見えるが、教育関係者ではないはず。化粧ノリから25くらい。自分はこいつを知らない。
見たことがある部分もあった。
肉食動物の目だ。
萩原は目線をそらすことなく告げる。
「自己紹介もなしに、入っていいなん言ってないわ。ま、二日酔いの覚まし方くらいなら教えてあげるけど」
全く聞いていない足取り。あとベッド一個分の距離まで来て、立ち止まった。
「へえ、それ気になるなあ。教えて教えて」
斜め45度小悪魔スマイルで女は谷間を強調。男ならくらっとくるそのしぐさでも、萩原は女の手を追っていた。右のポケット。
体勢そのまま、じりじりと近づいてくる女に、萩原は急いで左手で机の上を探す。
「ガツンと、やるのよ。ガツンとね」
「へえ。でも、聞きたいのはそんなことじゃないの。ねえ」
その尋常じゃない笑顔に、思わず萩原も息を呑んだ。
女が言った。
「切断されるのと爆発するのどっちが好き?」
* * *
「基礎体力が違うもん。トーシローのあんたといっしょにしないで!」
嗣平はおかしいと思う。小山内にしてもそうだったが、こいつらはいかれている。
平気で10km歩いたり走ったりする運動能力のことじゃない。
平気で歩こうと思う、ズルしようとしない思考がおかしい。
「ま、待てよ。こちとらこんなくそ重いモン持たされてるんだぞ……」
嗣平は、辞書のような分厚い本だけでなく、先ほど説明を受けた、ほにゃららに使う道具まで持たされた。
結局、徒歩で一駅超え、もう一駅超えて、ついに自宅のある街までたどり着いていた。
「私もやったもん。本当、なっさけないなあー」
たづなは嗣平の方へ振り向いた。
「で、ちゃんと全部覚えた? 教えたこと」
「むり」
「増やすよ? シルバーシャーネックよりも重いよ。くちばしバレル」
鳥のくちばしの形をしたものがジャラジャラ言った。
「そういわれても、ぜんぶおぼえることなんかむりだっつーの!」
「じゃあ、覚えたのを言いなさい」
嗣平は懸命に脳みそを絞る。絞る。絞ると言えば、気配の絞る順番。一層目の表皮を閉じ、二層目に流動脊柱への力を籠め、三層目の表層感覚の除去。
感知は逆の順。あとは符の効果。護身術として肘と膝の使い方。次に聞いたのは意識を持って行かれそうな時の対応。
あと、耳鳴りの治し方。
とりあえず、覚えていることのすべてを伝えた。
「一応、そんだけ覚えたならいい。荷物うちに持ってくわよ」
「ええー! このまま行くのかよ! ちょっと休もうぜ。俺昨日からへとへとなんだよ」
「うるさい。うるさいなあ! わかった! もうちょっといったらベンチあるしそこで休憩! それでいいでしょ!」
「うへ。ホンマ、たづなさんはちっちゃいくせに懐がでかいですなあ。どこにおさまってんだかわからんくらいに」
「中止。行軍することにした。これ、命令」
「うそ! 嘘ですから!」
嗣平は何とか機嫌をとり、何度も繰り返す問答にめんどくさくなったのか、たづなは、
わかった! 休憩してもいい!
そういって、二人はようやくベンチに腰かけた。
* * *
顎へ向けて、ペンを一直線に突き刺す。
女は十の字の縦から横へと体を移し、その手と垂直から平行へ変わると、萩原の肘に狙いを定め、右手を打ち下ろす。
萩原の手が外へと逃れて、次の瞬間、
衝撃。
女の後頭部に踵が駆け抜け、一回天し宙を舞う。その隙を逃さないとする萩原の判断は間違っていない。暗器を白衣の下から取り出し追撃のために助走をつけ跳躍。対象へと切っ先を向けたまま、
横から痛打が入る。
萩原の脳が揺れる。体が地面を強く打つ。即座に己を殴ったものが、女ではなく、女の投げた靴であると認識。追ってきた鎌を何とか這ってくぐり、傍らに転がっていたスリッパをぶん投げる。
とりあえず、距離ができた。
自分がさっきいた場所を見ると、壁に鎌が刺さっている。
次の攻撃が来ない。
「はあっ。あんた、いったい、何者?」
どうせ答えやしないと高をくくって、どうせ聞いてみる。
内心、やっべえと思う。給料が下がる。カップめん暮らしはもっとやっべえ。太るに違いない。
答えが返ってきた。
「冥界」
ついでに鎌が飛んできた。
軽く左手で柄を掴んだ。
「なんで、冥界が来るのよ」
鎌を投げ返す。あっさりと女はキャッチした。
「それは秘密。でも、いい発見しちゃった。あなた、こっちに来ない?」
「ごめんだね。来るなら力ずくで来な」
「そういうと思った」
女は綿毛のように立ち上がると、暗器を持っているらしい。何かが放課後の陽光に揺れ、輝きを放つ。
いま、疑問に思っている暇はない。
萩原はすぐさま構える。得体のしれない相手が、自分の勝手知ったる武器を使う。こんなに不安なことはない。
女は跳躍。萩原は己に向かう一投目を近くの雑誌で払う。同時に軌道直下の場所へ護符を1秒刻みに起動。ビンゴ。女の二投目を己の初投で撃墜。
護符の影響で速度の鈍った女に萩原は肉弾戦を挑む。寸鉄による水月へ骨を砕くごとき一撃。あろうことか女は正面から受け、空いた両の手で全霊の喧嘩殺法、両の目崩しを放つ。両者同時に手ごたえを感じ、同時に衝撃を受けた。
差は、両脚に込めた体内比重であった。
女の水月を貫いた寸鉄は生ぬるい血糊を吹き出し、ポンプの様に収縮を繰り返す。しかし、その場で、己の足で屹立というべき姿を見せている。
一方の萩原は、見えない。瞬時に気付き退避動作を取ってしまったがゆえに、中途半端な姿をさらした。うっすらと見えるようになってから、相手が立つ姿から致命傷を与えられなかったことに悔しさを覚える。
女が口を開く。
「ねえ。痛いな」
痛くもなさそうに、続けた。
「思ったより、根性なしだね、萩原。でも、十分使えるから、貰っちゃうことにした。いいよね。返事ないし」
返事をしないんじゃなくて、分かった。喉が見当たらない。
萩原は、自分がのど元をいつの間にか切断されていたことにようやく気付く。
「中身はいらないけど」
女は光学切断機を取り出したように見える。
一歩一歩、カウントするように、足音が正確に音を立て近づいてくる。
いくつかの選択肢が脳を巡る。しかし、身体に力が入らない。処刑を待つ死刑囚の気持ち。この世の者でもない不安。
しかし、その近づいてくるはずの呼気が突如消失した。
「……なんだ。きちゃったか」
女の笑い声が聞こえる。
「あーあ。ここに来た意味なかったなー」
その言葉を最後に、女の気配が消えた。
意識が遠くなる。
* * *
「ねえ、彼氏ぃ」
ベンチでコーラを飲んでいた嗣平の後ろで、大男が突っ立っていた。
「何すか」
「道、教えてもらえないかな」
「いいすよ」
「おーよかった! いやー、この辺あんまり人が来なくて参ってたんだよ」
「この辺田んぼだらけだから、みんな国道の方に行っちゃいますからね。で、道ってどこ探してるんですか?」
大男は満面の笑みを見せる。
それから、こういった。
この辺で印鑑を取り扱っているお店とかしらない?
その言葉を聞くと、首に穴が開いた。
右手で触れる。別に穴などない。何かを思い出しそうで思い出せない。言葉がのど元まできても、表に出ない。落ちつけ。
大丈夫。
大男を見ると、相変わらず笑顔だ。
問題ない。
しかしチクリと刺したさっきのはいったいどうだったの、「どうしたの?」
隣から小声でたづなが聞いてきた。不安そうな顔をしている。
「汗でてるよ。ちょっと歩かせすぎた? そういえば、保健室居たんだっけ」
最後の方は自分を戒めるような語調に聞こえた。
嗣平は、もう一度首を確認してみる。大丈夫。何もない。少なくともたづなのせいなんかではない。
「いや、大丈夫」
大男を見る。笑顔だ。
手が伸びてきた。手の表面積がその姿を増し、自分の視界が全て埋まりそうになる直前、
たづながその手をはじいた。無理やり手を引っ張られた。そのまま投げられる形で地をなめるような大勢になる。。
「逃げて!」
えげつないほどの圧力が爆発している。
顔を向けようとしても、無理やり逆を向かされるようなオーラを感じる。
嗣平の前方に紙人形がひらひら浮いた。
「早く!」
「逃がすわけねえだろ」
男の声がする。
嗣平は急に引力を感じた。その方角を見ると、紙人形がまるで自分を引っ張っているかのように、ものすごい熱を発している。
その瞬間。弾丸みたいに嗣平は吹っ飛んだ。
「……聞こえる⁉ ねえ」
誰かに呼ばれて嗣平は目が覚めた。
「ねえ。ねえってば!」
かすれていた目が醒める。嘘のように世界が急に色を持ち始める。
制服が、目に入った。
それから、顔が目に入った。少し赤味がかった茶色いショートカットの髪が弾んだ。
「嗣ちゃん。ねえ。返事してよ!」
奏の膝の上でいったい自分がどうなっているのか、嗣平はまだわかっていない。




