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14 ぼく

 待っていましたとばかりに、ぐうと音が鳴った。

 自宅に足を踏み入れたと同時だった。

 4月10日もいつの間にか終わり、もう今はテレビ風に言えば25時04分、11日の1時になっている。

 嗣平の腹が鳴るのも当然で、食事をとってのはもう半日前のこと。今となっては幸せだったなぁあの頃は、などと回想に一人ふけったところで余計に腹は鳴るばかりで、とっとと食料を探そうと思い直す。

「あ、おにぎりある」

 キッチンの方に回ってみると、おにぎりが置いてあった。

 母が気を使ったのだろうか。

 ふと、嗣平は母親がご飯を握っている光景を思い描く。なんとまあ、愚痴をこぼすこと。

 それでも、なんだかんだ言っても自分のことを思ってくれている。そんなことが伺い知れたような、そんながおにぎり二つ、ちょこんと嗣平にしょくされるのを待っている。

 急に体中の毛穴から恥ずかしさが漏れてきたような気がして、かゆい。

「ありがたいこっちゃで、ホンマ」

 感謝の言葉は自然と口から出た。

「いただきます」


* * * 


 床に入る前、嗣平は決まって鏡を覗く。

 肩幅くらいのドレッサーは、バストショットで嗣平を写す。笑顔だったり、時には苦しそうな顔だったり、引っ越してきて以来、鏡はうんともすんとも言わず嗣平に応えてきた。

 今日もいつもの様に鏡を覗く。鏡の隅の方で、何かが室内灯できらりと反射した。自らの存在を、主張するその光はとてもまぶしい。

 そいつもしばらくぶりだった。

 写真立てだ。

 鏡に面して椅子に座っていた嗣平は立ち上がり、割れ物注意の札があるかのように、ゆっくりと、写真立てを持った。懐かしい感情が身体の奥底から湧いてきて、思わず、声が漏れる。

「もう、ずっと前だったっけなあ」

 埃を手でサッと払い、しばらく時を忘れた。

 気が付くと10分ほど経っている。

 その中に微笑んでいる三人は、きっと昔も今も変わらない関係であり続ける。嗣平にはそれが嬉しいような、虚しいような、何とも言えない決まりごとのように思えた。

 何かが変わると信じて、結局いい意味で変わることもあれば、自分の今みたいに悪い方へ変わったこともある。

 もう今の自分はスポーツもやっていないし、頑張っていたインディーズの新譜集めも、しばらく手を出していない。この写真の中の自分は、いったい、どんな自分を未来に夢見ていたのだろうか。それも思い出せない。

 今の自分にあるのは、厄介なことに巻きこまれ、自由を失ったセリヌンティウスの気持ちだけだ。

 ふう、と嗣平はため息をつき、サッと写真立てを元の場所に戻した。

 部屋の窓を開ける。

 外では、救急車やら、消防車、パトカーの音が鳴り響いていた。そんじょそこらだけではない。遠くから夜の波長を従えて、増幅した叫び声がわんわんと鳴いている。

「うるせえなあ」

 また窓を閉めた。

 窓を閉めてもまだ音は聞こえた。部屋にも圧がかかる。大きな音が聞こえるたびにピリピリと体に緊張が走る。

「うるさいうるさいうるさいうるさい」

 それでも、身体は正直だった。布団に入り、おまじないのように「うるさい」を唱え、たまに「大丈夫」も混じり、次第にその声も聞こえなくなっていった。

 いつの間にか、瞼は落ちていた。


* * * 


 つぐひらはまだ自分の下の名前を漢字できれいにかけない。

 だから、転校してきて、先生が黒板に自分の名前をきれいな字で、しかも漢字で、フルネームでまで書いたことに、尊敬するということを初めて知った。

 第一印象は、多分よくなかったと思う。

 だって、「ぐ」のところで唾液をのんじゃって、んぐ。つ、んぐひらです、なんていったし、顔は真っ赤になったのが自分でもわかった。数週間後には笑顔で校庭で笑いあった奴らも、あのときは、鉄面皮を被ったかのような真面目な顔で見てたから、余計にどこかぼくはおかしいのかなって思った。

 それが、千馬小学校2年2組14番の杉内つぐひらの初日の学校の印象のぜんぶ。

 妹はもっとひどかったと母親に聞いて、ちょっとホッとした。


 次の日、学級委員の女の子を隊長とする軍団が休み時間に学校を案内してくれた。女の子たちは、これ幸いとあちこちあちこちに侵入をしていった。

 でも、何か先生に言われると、「わたしたち、転校生の案内をしていただけです」などと意味不明なことを証言したので、「ほんとにそうなの」と先生に真偽を尋ねられると、にべもなく自分は頷くしかできませんでした。

 ああ、ごめんなさいお母さんお父さん。つぐひらは悪い子になってしまいました。

 あっちでふりふり、こっちでふりふりとするもんだから、いい加減首も疲れて、口で返事をした方が楽だから次はちゃんと「はい」って言おうと思って、その場面が来たのは、玉置先生に会ったときだったってこと、なんでかすごく覚えている。

 なんでか、っていったけど、理由も多分わかってるけど、恥ずかしいから誰にも言いません。

 そのときも、一人を除いて、女の子たちはいつもの常套句でかわいらしい子供の正当性を主張し、同意をぼくに求めてきた。ぼくはもう首がつかれてたから、ずっと先生の顔をじっと見てたし、玉置先生もぼくの顔を見てた。先生の目ととぼくの目が合って、ちょっと怖いって思ってた。だけど、そうしてたらいきなり、

 先生の目線がよそへ向いた。

 ぼくもつられてよそへ向いた。

 一人だけぼうっとしてた女の子が首を横に振ってた。

 この光景を、ぼくは多分一生覚えているだろうと思う。毛が生えてきても、中学生になっても、高校生になっても、大人になっても、多分ぼくがねこになっても忘れないんじゃないかと思う。

 だって、女の子が、みんなから「かなでちゃん」って呼ばれてる女の子が、涙を目にためて、こう言っていたから。

「ごめんなさい。ごめんなさい」

 僕も泣きそうになった。

 その後、女の子は周りの子に慰められて泣き止んだ。先生は僕ら5人を一瞥すると、ちょっとだけ優しい語調で、

「謝れるなんて、とっても偉いわ」

 そして、内緒のクッキーをくれた。

 内緒のクッキーは、何だかちょっとしょっぱい味がしたけど、これも僕ら5人の内緒話。指切りげんまんして、嘘ついたらはりせんぼんのーますをして、誰にも話していない。

 きっと、さっきの事件だったと思う。なんでか、奏とは友達とか好きな子とかと違う、なんだか、妹みたいな感情を持つようになっていたのは。


* * * 


 「ねえ。 ねえってば! 起きてよう! お、に、い、ちゃん」

 制服姿の夕月が嗣平の肩を揺すると、布団から顔手足が飛び出して、亀になった。

「なん、なんだよ。ふああ、今何時だよ」

「綺麗な人が来てる!」

「きれ……なに?」

「き、れ、い、な、ひと!」

 嗣平は上半身だけ起き上がり、亀から人間になる。夕月の顔が近い。

「そうやって母ちゃんおだてても、出てくんの牛丼屋の割引券くらいだぞ」

「ちっがーーう! お兄ちゃんいるかって、って、外、外見てよ!」

 夕月は布団をバンと叩き出で、窓をがらりと開け、パジャマ姿の嗣平の手を掴む。放り投げるかのように引っ張る。

 こうなったときの夕月は頑固だ。

 しょうがない。手を引っ張られながら、時計を確認すると、まだ30分は寝てられる時間なのに、嗣平は起きることにした。

 眠気はすぐに吹っ飛んだ。


 嗣平が窓から見下ろすと、そこに、小山内がいた。

 こちらに気が付くと、笑った。

「今日から、よろしくね」

 そう言った。

 嗣平は思いだす。昨日のことを。

 そして、忘れる。今、自分は寝起きだってことを。

 夕月は、最後まで気が付かなかった。




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