09 4月10日
「あいむあ、ろっきんすたあぁあぁあああああ」
放課後の部室棟に、騒々しい演奏が響き渡る。
久々にメンバーが集まった軽音楽部は、ようやくバンドとしての音を鳴らしていた。部活動開始は明日、4月の11日からなので、自主練という形をとってわざわざ集まったということになる。
しかし、
「よっしゃ、おわりおわり」
ギターの竹内が片づけを始めた。
「なに、何か用事?」
和也の物足りなさげな表情は「もう一回くらい皆でやろうよ」と読み替えてもいいのだが、他のメンバーには「和也は自分の出来に満足いってないだけだ」と読み取られる。
いつだってテキトーに気だるげにやるのが自分たちじゃん?
とでも、言いたげな態度は思春期特有の自己満足でしかない。だが、結局は、指でいえば小指分くらいのさじ加減で、和也は馬鹿にされているのである。
「ま、3回やれただけでもマシっしょ!」
田中のそんな言葉に丸め込まれ、この度はお開きとなった。
ボーカルなのに、何もかたずけをする必要もないのに、なぜか和也は部室に最後まで残った。
どうしようか考えて、一つ思いついて、やっぱダメだったのを思いだして、考える。
今日は部活に行くから、嗣平とも特に約束してはいない。せっかく作ったアレを見せようとでも思ったのだが、今日は用事があるのか、嗣平はそそくさと帰ってしまった。
「そういえば、なんでなんだろう」
スマホを取り出して、SNSに書き込んだ。
それから、ちょっとした用事も思いついた。
気になっていた商品が発売されるの、今日だったはずだ。
和也は久々に都会に行ってみることにした。
SNSの返事はその日、帰ってくることはなかった。
* * *
保は彼女と県内ではもっとも都会の太宮でデートしていた。
上りで2駅。それだけで、人の群れは大きく変わり、建物は空を埋め尽くすような高さで街を見下ろす。
なんてことはない。特別でもない日常を保は過ごしていた。
* * *
奏はひたすら打ち込んでいる。
今日は練習が休みになったにもかかわらず、同じバド部の親友、多恵ちゃんに付き合ってもらって、汗を流す。
腹が立つ。
嗣平に。
そして、自分に。
なんであんなことしちゃったんだろう。そんなことを奏は思っていた。
しかし、そんな悩みも体を動かしているうちに雲散霧消。案外、人間というのは簡単にできているものらしい。
午後の陽ざしが体育館に熱を注ぎ、弾む床は振動と音を館内に響かせる。
多恵ちゃんが叫ぶ。
「ラストー!」
体を弓のようにしならせ、奏はラケットを打ち下ろした。
「奏、喧嘩でもしたの?」
少し汗をかいた服を脱いでいる最中に、多恵ちゃんが奏に尋ねた。そのせいで、肘がちょっと突っ張ってしまい、服が引っかかってしまう。
顔を隠すのにちょうどいいや、と奏は奇妙な体勢よろしく、多恵ちゃんに、
「ちょっとね」
「アレってやつ? 愛には試練がうんとやら」
「意味わかんないってば」
まだ妖怪体操服のまま、奏は話すが、
「ほら、隠すな隠すな!」
多恵ちゃんが、一気に服をたくし上げたので、ちょっとエロい姿になってしまった。
「ちょっとー! いたいってば」
別に痛くはなかったけど。
もう制服に着替え終わっている多恵ちゃんは、ない胸を張る。
「さ、言いなよ。裸の付き合いといこうじゃないのよ」
「裸じゃないじゃんよ」
「あんたが遅いの!」
「もー。いいじゃんそんなのさ」
そう。本当にどうでもいい。
1時間くらい体を動かして、奏はそう思えるようになっていた。
多恵ちゃんの早着替えに、奏はこれまで彼女の浮いたあばら一つ見たことがない。しかしそれだって、今はどうでもいいと思う。
締め切った部室からは、男子が達してしまいそうな匂いが立ち込め、部室の入り口右手にはファンシーな人形、左手にはあまり手に取られていない本棚が寂しそうにさびついている。
話が聞きたいからか、何かちょうどいいとでも思ったのだろうか。多恵ちゃんは奏に名案ありという表情でこう言った。
「じゃあ、付き合ってくれる?」
「どこ?」
「太宮」
それから、多恵ちゃんは太宮でちょっと見たいものがあるらしいようなニュアンスのことを言うので、
「うん。いいよ」
そう言うとすぐに、奏は制服に着替え終わって、二人で部室を後にした。
* * *
呼び止められたのは、嗣平が駅に向かっていつものように漫然と二足歩行をしている時だった。
午後3時30分くらいだったと記憶しているが、確信があるわけではなかった。
「ねえ。ごめんね。ちょっと教えてもらいたいことがあるんだけど」
艶めかしくかたどった唇が、そんな言葉を漏らした。
そんな大人のお姉さんを最初、そっちの世界の客引きか何かかと嗣平は思った。煌びやかな装飾品に、タイトなスカートから漏れ出る刺激は、思春期の男子にとって目に毒も毒。25くらいに見えるが、20くらいにも、30くらいにも見える。薄く茶の入った髪は、かえって残った黒を明確に描き出していた。
しかし、そのほほえみからは、そっちの世界の含みは感じ取れなかった。
嗣平はどうしようか少し迷いつつも、一応相手をすることにした。
「なんですか?」
「この辺で印鑑を取り扱っているお店とかしらない?」
印鑑。商店街のほうにあったような気がする。
嗣平は「たちばなはなまるロード」の地図を脳内で辿ってみる。
ファストフード店の隣が脳裏に浮かぶ。
その道順をお姉さんに教えてみるも、そのお姉さんはちんぷんかんぷんといった様子で、しまいには口を閉ざしてしまった。
原因は、嗣平がこういった説明が下手なせいでもあるかもしれない。
しかし、それともこの人結構バカなんじゃないだろうかとも嗣平は思う。結局どっちが原因かは決められなかった。
いずれにせよ、何だか放っておけない気持ちが湧きあがってきて、それをぶつける先も他にはなかったのは事実である。
しょうがない。決めた。
「じゃあ、案内しますよ」
お姉さんの目が輝いた。
「ほんと? ヨロシクね! ええと」
「杉内です」
「杉内さん!」
さん?
杉内嗣平さんは、年上の女性にそう呼ばれてなぜかどきりとした。こそばゆい。普段の嗣平とか、杉内君とか、つぐとか、つぐちゃんとか、
つぐちゃん。
ちょっとだけ、奏に脳内を齧られた。
それも、本当にちょっとだけだった。なぜなら、
「じゃあ、サービス!」
お姉さんは嗣平の左手にそれを押し付けるように、巻き付いてきたのである。
大きかった。固唾をのんだ。柔らかかった。すごかった。というより、現在進行形ですごい。
「? 行こうよ。スギちゃん」
いつの間にか、呼び方が変わっていたのは、正直少し本音を言えば残念だった。
* * *
「ありがとね。こんなところまで送ってもらっちゃって」
「別に暇だったんで」
いつものメンバーは何かしら用事があったらしいし、まんざら嘘でもない。嗣平にも用事といえば用事があるが、どうも気乗りがしなかったので、本当のことを言っているという解釈はまちがっていない。
嗣平とお姉さんは印鑑を扱っている「琴吹」から姿を現した。
要件とやらはすぐに終わって、今は商店街から国道のほうへ歩いている。
「あ、ちょっと待って」
そう言って、きづなさんは長い腕を大きく振り上げた。タクシーがやって来るのが見える。
「悪いから、送るよ」
「いえ、そんな、歩きますよ、おれ」
「いいからいいから」
タクシーのドアが自動で開く。
「駅でいいんだよね?」
「まあ、はい」
二人で、タクシーに乗った。
彼女は店に到着するまでに下の名前だけ教えてくれた。どこかの男とは正反対だ。
「きづな。ひらがなで書くのよ。す、じゃなくて、つ、にてんてん。何か馬鹿っぽいでしょ」
そう言っていた。
今、タクシーの隣で、嗣平が感じるのはちょっと甘い香水の香り。きづなさんは質問をたくさん投げかけてくる。きっと、おしゃべりが好きなのだろう。
観察からそんなことを読み取る自分も少し気持ち悪いのではないだろうかなんても思ったが、気にしないことにして、運転手の帽子を見つめる。
きづなさんが聞いてきた。
「スギちゃんは、自分の名前好き?」
「嫌いではないです」
ふふふ、と笑うきづなさんの妙に色っぽい仕草に、嗣平は誘われているような錯覚を覚える。
「な、なんですか」
「私もそんなころあったよ」
「どんな頃ですか」
「曖昧にして、はっきりと言わないんだよね。好きなのに嫌いじゃないとか、美味しくても悪くないって言うとか。なんだかなつかしくって、かわいいなあと思って」
嗣平はなんて返事をしたらいいのかわからないのを隠そうとして、顔を窓のほうにそらした。
きづなさんは小悪魔風に、
「やだ。おこらないでよ~」
「べ、べつに怒ったりしませんよ」
「ほんと?」
「ほんとです」
「こうしても?」
いきなり、後ろからこれが何してアレがそうしてどこがああした。
分かりやすく言うと、背中から女性なる部位がその主張をしだした。
つまり、後ろから抱きしめられた。
「え、え!?」
「ちょっとだけでいいの」
なにがちょっとだけなの?
もう一人の自分がよがる。
「ちょっとだけ、我慢してね」
我慢っていうか、ご褒美っていうか。あ、でも我慢なのか。
悲しいことに、嗣平の「あのへん」がちょっぴり反応した。「こっち」にふれた「それ」が、なぜ「あのへん」に伝わってしまうのだろう。
人体とは不思議だと、嗣平はつくづく思う。
年の気には色気が似合うとかしびれ気には熱気と湿り気とか、訳の分からないことが頭じゅうを駆け巡り結局要約すれば、
胸がドキドキする。その一言で済んだ。
「大丈夫。痛くしないから」
痛いも何もそれは――。
もっとドキドキする。
いきなり首に何かの感触がした。
かと思うと、体の力がだんだん入らなくなっていって、それから、だんだんと視界がぼやけてきて、
何が起こったのか。
その事が知りたかったのだが、知覚中枢が順を追ってシャットダウンをはじめ、薄れゆく意識の中、嗣平も精一杯の抵抗をはかり何とか正常な方向に保ち続けようとしたのだが、その抵抗も空しく感覚は消失していった。
嗣平は、窓におでこをぶつけたまま、背中のゼンマイが切れたようにプツンと動かなくなった。
「ゴメンね」
きづなは抱きかかえるようにした腕をほどいて、嗣平をシートにきちんと座らせる。
「駅にはちゃんと送るから」
顔をしばらく見つめ、一度視線をそらして、それから今度は全身のチェックを始めた。
「あら?」
左のポケットから何かを見つけたらしい。取り出して、じろじろとまじまじとお宝鑑定でもするように見て触って揉んで嗅いで、それから嗣平のポケットに何かを戻した。
だめだ、もうむり。
嗣平が最後にそれだけ感じ取って、嗣平の意識は遮断された。
最後に、聞こえたような気がする。
「お願い、ね」
* * *
4月10日、午後10時。
その場所で待っていたのは、彼女だった。
そして、見たこともない「何か」が、いた。
最初の場面に戻ります。




