幸せな恋は宝箱と共に
私はこの男のファンだ。私はこの関係性をはっきり言えない。だから少なくとも確実なこととして、私は彼の作る作品に、惚れている。それだけは確かだ。
写実的で、無駄な演出も何もない、力強い油絵。そんな絵が大量に置かれたアトリエの端、手やエプロンに絵具を付けたまま寝ている男が、その絵たちの作者。榎木津達磨という。
「エノ、」
寝こけた榎木津を呼ぶが起きる気配もない。いつからこの状態なのか知らないが、これは私が世話をしないとそのうちアトリエで孤独死するのではないかと前々から思っている。もっとも、妙に要領のいいこの男のことだから、なんとでもなるのだろう。
「エノ、起きて。せめて着替え、いやベッドで寝て。」
ずるり、と無理やり腕を掴んで身体を起こさせる。岩のように重い身体を引き摺るように寝室へと連れて行く。私の身体に乾ききらなかった絵具が付くのもいつものことで、当然私はこの部屋に来た時点で汚れてもいい服に着替えている。昔のような失態は犯さない。何も考えずに彼を持ち上げてひどい目に遭ったのも随分と前のことだ。自分よりもはるかに上背のある男をベッドに放り出した。かなり粗雑なのだが、全く起きない。それに対して呆れる気持ちはあるのに、なんだか無防備で可愛いと思ってしまうあたり、私の頭も相当キているらしい。
「なに、してんだろう、私は。」
私は画家、榎木津達磨のファンだ。それ以上でも、それ以下でもない。たぶん。なのに私は彼に入れ込み、揚句家にまで上がっている。作品が好きなら、作者になんか近づかず、ただ発表される作品を待てばいいのに。わかっているのに、近づいたら離れられなくなってしまった。
再びアトリエに向かうと、鮮やかな色が私を出迎える。午前の淡い光に照らされる緑の庭。色濃い影を落とす街並みと星の少ない夜空。深い藍と空から降り注ぐ白の海の中。どれもこれも、いつまでも眺めていられる。この素晴らしい絵を傍で見られるなら、それ以上の幸せはきっと世界のどこにもない。なんて思っていた時期もあった。今も、彼の絵は美しい。私の心を掴んで離さない。けれど、世界で一番の幸せなんて考えていられる齢でもない。何も考えず、好きなものだけを見ていられる齢ではなくなってしまったのだ、私は。
初めてこの男に会ったのは大学生の時だ。資格試験に訪れたビルの一階で、油絵の個展をやっていたのだ。試験後時間が余り、暇つぶしのつもりでそこに足を向けた。そして私は壁に掛けられた絵に一目で心を奪われた。今と変わらない、いや今よりもあっさりした描き方だったが、写実的で一瞬写真かとも見紛うが足を止めれば油絵独特の荒々しさや大胆さが現れる。まともに見もしなかった入り口の作者紹介に目を向ける。
『榎木津達磨』
その時は歌舞いたような名前にペンネームか何かとも思ったが本名だったことが後で知れた。本人はどこかにいるだろうか、と興味本位で見回すとスーツ姿の男たちと話している人が見えた。首から下げたタグに、作者紹介と同じ名前が書かれている。短く刈り上げられた黒髪とがっしりとした体格、上背に画家と言われるよりも何か格闘技の経験者という方がしっくりくる。ふと、何を言われたのかは分からないが画家がくしゃりと笑った。
あ、可愛い。
自分よりも体格だっていい、年だって上だろう。それなのにその屈託のない笑顔に可愛いと思ってしまった。
ただまあそう思っただけで、特に声を掛けたりもしなかった。結局、電車の来る時間のギリギリまで個展の絵を只管見ていた。絵なんて詳しいわけでも勉強したことあるわけでもない。ただ私はその絵に惹かれた。一般的な評価やその経歴はわからない。けれど私は好きだった。
次に会ったのはそのビルのあった最寄り駅だった。授業が半日しかなく、午前で帰る。真昼間とあり駅にいる人はまばらで、その中でかの画家はとても目立っていた。大きな四角いもの、おそらくキャンパスだろう、それを持った画家は改札を抜け歩いていく。何か意図があったわけでもないが、なんとなく見ていると彼が歩いた後に何かが落ちていることに気が付いた。周りにいる人は構うことなく、それは拾われることなくぽつんとタイルの上に転がっている。落としたのを見てしまっていたこともあり、仕方がなくそれを拾い上げる。と、なんでもないどこにでもありそうなストラップだった。可愛いような可愛くないような、何かよくわからないキャラクター。少なくともいい年した男が付けて歩くにはいささか不似合いだ。よくよく見ればストラップの紐の部分がちぎれてしまっている。
一瞬、迷う。一目見て安物だとわかる、食玩のおまけのような壊れたストラップ。本来なら落とし主のところに届けるのだろうが、果たしてこれはいるのだろうか。普通であれば壊れたなら捨てよう、となるだろうが、画家だ。なにか独特のセンスを持っているかもしれないし、もしかしたら何か大切な思い出があるかもしれない。
ちらりと時計を見る。昼過ぎ、幸いあまり昼を食べる方ではないし、明日提出のレポートやレジュメもない。いや、実際は好奇心が上回ったのだ。あの日見た油絵がフラッシュバックする。私がとても好きな絵だった。それを描いた人間に微塵も興味がないかと言えば、嘘になる。
折角だ、追いかけてみよう。そう決断したのはキャンバスの端が曲がり角に姿を消そうとしたときだった。小さなストラップを握りしめて、追う。尾行しているようで少し楽しい気分になりながら画家のあとを歩く。客観的に見ればストーカーだが、気にすることもない。適当なところで声を掛けてこれを渡せばいい。さもすぐ近くで拾ったかのように。画家とて駅で落としたと気づいてはいないだろう。
しばらく歩いていると住宅街に入る。しかしそこまで来たところで迷子にならず無事に家に帰れるか怪しくなり、やむなく尾行を諦めることにした。
「あの、すいません、」
「ん、どした嬢ちゃん。俺になんか用か?」
想像していたよりも低い声、そして向かい合うと威圧感を感じる背丈に慄く。好奇心は一気に吹き飛んで一刻も早く用事を済ませたく思い、壊れたストラップを差し出す。
「これ、落としませんでしたか?」
「お?……あ、本当だ。ねえな、壊れちまったか。安もんなのにわざわざありがとうな嬢ちゃん。」
また、いつかみたいにくしゃっと、画家が笑う。その笑顔のせいで威圧感も帰りたさもすべてなくなってしまうのだから、現金だ。壊れたストラップを渡して用事を終わらせてしまうのがもったいなく思えたけれど、渡さないわけにもいかない。大きくはないストラップは画家の大きな手に乗るととてつもなく小さく見えた。
「あ、の……榎木津達磨さんですよね。」
「んあ、俺のこと知ってんのかい?」
「前に、ここの近くのビルの、個展で見たんです。その、あなたの絵がすごく、好きです。」
「お、嬉しいこと言ってくれるねえ。嬢ちゃんみたいな別嬪さんに言われると一入だな。」
きっと私の顔は真っ赤だっただろう。いざ話しかけてみたものの、言葉も見つからず辛うじて出た言葉もまるで告白じみたもので。画家のよく回る口から出るお世辞が赤みに拍車を掛ける。カラカラと笑う画家はおそらくいわれ慣れているのだろう。
「そういや嬢ちゃん、昼飯はもう食ったか?」
「え?……いえ、まだです。」
「そ、じゃあ礼に奢ってやるよ。」
「っいや、そんな悪いですし、本当、拾っただけですから!」
本当は拾って尾行までしていたのだが、それは伏せる。しかしほぼ初対面の人間にそう甘えていられるほど厚かましくはない。もう少し、話をしてみたいという気持ちももちろん、あるのだが。
「遠慮すんな。近くにうまい店があるんだよ。」
「いや、その、」
「自分の絵が好きだってぇ言ってくれる子に会って浮かれてんだ。……もちろん、時間があればの話だが、少しおっさんに付き合っちゃあくんねえか?」
浮かれてる、なんて私の方だ。おっさんなんて言う歳でもないだろうに。時間なら有り余ってる。グルグルと考えるのに、口からはまともに言葉が出てこない。私はパニックになりながらも、いつのまにか首を縦に振っていた。
そこから画家、榎木津達磨との交流が始まった。
画家というから変わり者で厭世的で無骨、なんて想像していたがまったく裏切られる。気さくで軽口を叩き、よく笑う。さっぱりと明るい男だった。数カ月もすればお互い他人行儀なところもなくなり遠慮のなく話をするようになったが、改めて趣味や気があうことがわかった。私が大学を卒業し働き始めてからも交流は続き、気づけば合鍵すら渡されるようになっていた。
出会ってから、十年近く経った。私は会社の中でもそれなりの地位につき始めて、後輩も増えた。画家は売れっ子となり、世界でも名を馳せるほどの称賛を得た。お互いそう時間があるわけではないが、時間があれば無意識のうちに彼の家へと足が向いている。もはや自分の家にいるよりも彼の家にいる時間の方が長いと言っても過言ではないだろう。
でも私たちは、恋人ではない。
ただ仲が良く、縁の長い、ファンと画家だ。そこに何か色はない。
私は画家を気さくだと表現したが、人誑しでもある。有体に言えば軟派。誰とでも距離を詰めるのが上手いのだろう。帰ってこないかと思えば朝になって香水の匂いを付けて帰ってくることもある。だが私がそれについて何かを言うことはない。私は、言える立場にいない。そして彼もまた特にバツの悪そうな顔もしない。それもそうだ。後ろ暗いところなどないのだから。ただ彼は家に女性を連れこんだことはない。一度それとなく聞いたことがあったが、アトリエも含め自分のテリトリーに入れたくないのだとか。じゃあテリトリーどころかアトリエにさえ出入りを許している私は一体何なのだ、と思わないでもないが、それはきっと信用のおけるファンであり、友人だからだろう。と答えは決まり切っている。事実では、ある。主観的にも客観的にも。私は彼の絵が好きだ。だからそれを邪魔するような、台無しにするようなことがない様に細心の注意は払っている。
ファンとして信用してくれている。画家にそう思われていることはこの上もなくうれしいはずなのに、わだかまりのような何かが胸の底にある。それが何なのかわからないほど、私は若くはない。だがそれ以上を望めるほど図々しくもなれなかった。
よく、わからない関係。その友人にしては近すぎて、ファンというにはふさわしくない関係をズルズルと続けてしまった。
そして私はもう30も手前である。周りの友人たちも次々と結婚していき、親からもせっつかれる。焦りがジリジリと募っていた。
婚約者はいない。恋人はいない。でもずっと好きな人がいる。
なんて、ひどい冗談だろう。30目前の女にはあまりにきつい。学生であれば微笑ましいと言えただろうに。学生のころに抱えた思いをそのままに、私は大人になってしまった。画家だってもう私のことを嬢ちゃんだなんて呼んだりしない。
どうしたらいいのか、わからない。
何度から色仕掛けのようなことをしたこともあった。少しでも意識してくれれば、と。夏、露出の多い格好をしてみた。ちゃんと服を着ろ、と上着を掛けられた。風呂上り、薄着で抱き付いてみた。濡れるからやめろと乾かされしっかりと着こまされる始末。要するに、全く脈がない。まるで女として見られていないのだ。
もし少しでも手ごたえがあったなら、付き合えるかもしれないと希望をもって積極的にもなれただろう。だがまるでないというと、欠片の希望すら持てない。希望は持てないけれど、今の関係を壊して出て行くこともできない。はっきりした関係でなくとも、居心地がいいのは確かだった。気は合う、好みもあう、話をするのも楽しい。何も問題はない。もし画家が誰かと結婚するというなれば、自然、ある意味円満にこの関係は終了するが、その様子は見られない。女の影がないわけではないが、どう見ても遊びだと断言できる。
今の曖昧な関係を壊すのは簡単だ。私が画家の家に来なければいい。
画家は私の家に来たことがない。本来なら会うはずがない生活だ。私が画家の家を訪れなくなれば、自然消滅していくだろう。
だから、もし転機があればいつでも。
そう思い続けていた。
「ハル、」
それでも、彼に名前を呼ばれると、私はこの曖昧の関係のままで良いと思えてしまうのだ。
何年も寝かせたままの恋心は、今も少女のように簡単に胸をいっぱいにする。
関係を壊すことでそれを失うことになれば、私はたぶん私ではなくなる。それが良いことなのか、悪いことなのか、私にはまだわからない。
「あなたのことが好きなんです!朝倉先輩、もしよろしければお付き合いしてもらえませんか!?」
顔を真っ赤にしながら私に言う彼は、私よりも三つくらい下の後輩だ。社内でも人気がある爽やかな青年で、何度か仕事の相談がしたいからと食事をしたことがあった。が、告白とは青天の霹靂だ。まるで予想だにしていなかった。茫然としたままの私に、彼は期待のこもった目で見つめる。
私の頭に思い浮かぶのは、一人しかいない。一人しかいないと心は言ってるのに、理性は別のことを言う。
「……少し、考えさせてくれる?」
「っは、はい!先輩の都合のいいときで!大丈夫です!」
元気の良い子犬のように、返事をする彼の眼には不安よりも喜びの方が勝っていることが分かった。
心が欲しがる人は一人なのに、現実がそのままでいさせてくれない。
後輩くんは、優秀で将来有望だ。社内での人気も評価も高い。一生懸命で真面目だ。よく話し、よく笑う。心底嬉しいというように、目尻を下げるように笑う。
あの人とは違う笑い方。
私、朝倉小春という人間は、平凡で何のとりえもない。そこそこに真面目で、そこそこに仕事ができて、そこそこに付き合いが良い。それだけなのに将来有望な後輩は何か私を勘違いしているような気がする。少し、申し訳なくなる。けれど、これは転機だった。
私がずっと好きな人。曖昧なままに過ごしてきた人。
私のことを好きだと言ってくれた人。恋人になりたいと望む人。
どちらが良いのか。どちらといれば幸せになれるのか。
選ぶ、なんて図々しい。思いを伝えるだけの度胸もない臆病者のくせに。
「エノ、」
もし、あの後輩くんの思いにこたえたなら、私はここに来ることはなくなるのだろう。画家の家に置かれた私のものを失くしたなら、この家はどれほど広くなるだろうか。普通に、おつきあいして、順調にいけば結婚することだって視野に入る。それで、子供ができて、主婦になって、幸せな家庭を築いて死んでいくのだろうか。それはきっと幸せだろう。絵に描いたような、幸せの図。
でもそんな幸せな絵に、画家の姿はきっとない。いや、あってはいけない。
「榎木津、起きて……、」
じゃあもし後輩くんも申し出を断ったら、私はどうするのだろう。これからも、なあなあの関係を画家と続けるのだろうか。どうとも言えない関係性。曖昧だけど、表現しがたい私にしかわからないような幸せな世界。幸せだ。でもそれは世間にとっての幸せにはきっと当てはまらない。目に映る現実的な幸せを、理想を前に、私は堂々と幸せだと言えるだろうか。感じられるだろうか。でもきっと、そう感じられないからこうして悩んでいるんだろう。
「……達磨、」
舌の上に乗った呼び慣れない名はざらついていた。
画家は、起きない。
なんだかひどく惨めに思えた。あれこれと考えては迷っているのは、いつも私だけだ。悩めと言いたいわけじゃない。でも不公平だ、なんて我が儘な私が唇をとがらす。
ゆっくりと呼吸する背中にさえ、好きだと言えない。言ったところで起きるはずないとわかっていても、昔から私は臆病なままだ。なけなしの勇気で広い背中に掌を当てると子供のように暖かかく、穏やかだった。ゆるりと撫でるが、起きる気配はない。恐る恐る、寝っ転がったその背中の側に座り込む。部屋の中に、彼の呼吸音以外何の物音もない。酷く、息苦しかった。
「達磨は、私がいなくなったら、寂しい?」
思わずこぼれ出た言葉にハッとするが、どこか諦めの気持ちの方が勝っていて、ため息を吐く様にそのまま言葉をつづけた。
「たぶん達磨なら大丈夫だよね。なんだかんだ元気にやってくだろうし。」
「…………、」
「……ごめん、少しずつ荷物も持って帰るよ。そしたらきっとすぐに私のことなんか忘れるでしょ。」
違う、どうか忘れて。私のことは忘れて、幸せになってください。画家は私なんかよりずっと濃い自分の世界を持っていて、鮮やかな世界を生きているでしょう。刺激的で充実した生活から、私の姿が面影が消えるのは、ほんの寸の間のことでしょう。
私もあなたのことを忘れるから、思いの一つさえ伝えられなかった、ひたすら傍にいることもできなかった馬鹿な女がいたことはどうか、忘れてください。
「もう、ここへは来ないから。……ちゃんとご飯食べて、ベッドで寝て。集中することは良いことだし、あなたの描く絵も好きだけど、無理しないでたまには休んで。」
また、元に戻ろう。画家とたくさんいるファンの内の一人に。
ここを離れよう。そうしたらもう二度と会うこともないから。違う世界を生きてきたんだ。それを飛び越えてしまったから、ちゅうぶらりんになってしまった。だから、また違う世界に戻ろう。あなたの生きる世界に私はいなくて、私の生きる世界にもあなたはいない。でもきっと、私の生きる世界にはあなたの生きる美しい世界の欠片が与えられるのでしょう。
あなたのことは忘れましょう。ただあなたの落としていく美しい世界の欠片だけは、手放せそうにないけれど。どうかそれくらいのことは許して。きっと口にすることはないから。
「いままでありがとう、楽しかったよ、すごく。ずっと幸せだった。」
恋する少女の夢は、覚めてしまう。覚めなくてはいけない。大人として現実を生きなくてはいけないから。
夢見る少女じゃいられない、なんて、まさに。
長い長い、夢だった。幸せな夢だった。
幸せな恋でした。
何もかも持って帰ろう。この家のどこにも、私の形跡なんて残さないように。未練なんて残さないよう。ただ一つ、私の恋だけをここに残して。
幸せな恋も、美しく暖かな夢も、ここに置いておこう。この家は私の宝箱だ。素敵なもの、そのどれもをここに置いていこう。残していこう。幸福な恋も夢も、大好きな絵も、恋した人も、みんな。宝箱にしまい込んで、誰にも気づかれないように、誰にも宝物とばれないように。
ネバーランドはもう終わり。
「ありがとう、ごめんね、ありがとう。……大好きだったよ、エノ。」
大好きも、ここで終わらせよう。
ああ、幸せな恋だった。
最後の言葉は、自分が思っているよりもあっさりと唇から滑り出た。
「ハル、」
寝ているはずなのに、あの人の声がした。
大きな身体をむくりと起こし、茫然としたような困惑したような顔で私を見る。そんな顔をしたいのは、私の方なのに。寝起きのくせに、私が逃げないようにいつの間にか手を掴んでいる。長い付き合いだからこそ私の行動が予測できるのだろうが、今はそれが憎らしい。
「え、の……、」
「……悪ぃ、俺なんかしちまったか?何かあるなら、言ってくれ、ハル。謝るし、治すから、なあ、」
困ったように縋るように、眉を下げて言うエノ。可愛い、なんてまた思ってしまう私は、まるで自分の思いを捨てられてなんかない。
また惨めになって、情けなくなって、捨てたはずの恋心なんて欠片も捨てられてなんかなくて、耐えていたのにぼろりと涙が転がり落ちた。それがまた情けなくて、拍車をかける。
「っおい、泣くな、ハル!何かしたか!?ってか何かあったか!?なあ、ちょ、泣くなっ、」
「っ……、」
「ハル、待て、良い子だから泣き止め!」
いい年してみっともなく泣いて、手を掴まれてるせいで悲惨な泣き顔を隠すこともできなくて、子供のように泣く。声も嗚咽も漏らさないのは、なけなしの矜持だ。
悲しくて、辛くて、苦しくて。胸が痛い、息ができない。
それでいっぱいいっぱいだったのに、いい年して大慌てするエノが、昔みたいに子ども扱いするエノが可愛くて、おかしくて、それから何もかもを一掃するほどに嬉しくなってしまった。
抱き寄せて落ち着きなく頭や背中を撫でる大きな手も、上から降ってくる混乱したような言葉も、何が何だかと目を白黒とさせる様子も、全部全部幸せで。
「コハル……、」
ああ全く、手放せる気がしない。
宝物は宝箱に仕舞っておきたい。でもね、この幸せな宝箱の中に、私も一緒にいたいんだ。
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「待たせておいてごめんね。……でもどうしても好きな人がいるの。」
「い、いえ、こちこそ突然すいませんでした。その、朝倉先輩が少しでも考えてくれてたことだけでも、嬉しいですから。」
困ったように少し笑って、職場ではいつも通りにしてくれる後輩くんはやはり世間一般から見て優良物件という奴だったのだろう。ただ申し訳なくは思うが惜しいとは感じなかった。他の誰か、私なんかよりもずっと良い女の子と幸せになってほしいと願う。
仕事を定時に上がって帰路へつく足取りは軽い。家に帰れば、彼がいる。海外の個展が終わってひと段落ついた彼は、たぶん出迎えてくれるだろう。
ヒールが玄関手前の階段を叩く音、私が鍵を鍵穴に差し込む音で、彼はバタバタと音をたてながら玄関まで出てくるのだ。その足音が玄関前に来るまで、差し込んだ鍵は回さないで少し待つ。
「ハル、おかえり。」
「ただいま、エノ。」
持っていた鞄はあっという間に奪われ、ハグされる。どちらかが家にいるときは必ずと言って良いほど行われるこれは、最初こそこそばゆく恥ずかしかったが、それも越えればただただ幸せを感じるだけだ。
頭を撫でるエノの手に顔を寄せると、嗅ぎなれた絵具の匂いがした。
読了ありがとうございました!
書くのすごい楽しかったです。もだもだ女子ブームが来てるのでたぶんまたもだもださせると思います。
エノもハルも気に入ったので、余裕があればエノ視点を一つ書くかもしれません。色々とハルが勘違いしてるので……