(4)
ベルムデスと名を偽ったアシュリーは、自らが望んだにも関わらず、ユーインとアッシュにはあまり接触しないようにしていた。
そのことにアッシュは疑問を覚えない。なぜならアシュリーがそのように作ったからだ。
一方のユーインはと言えば、あれから一度だけわざわざアシュリーの元を訪ねて来ていた。
「殿下の傷跡を消してくれたこと、礼を言う」
未だにこちらへの警戒心はあれど、それだけを言うために来たのだと思うと、彼の変わらぬ律儀さにアシュリーは懐かしいものを覚えずにはいられなかった。
「消したわけじゃないさ。言っただろう? あなたたちは泥人形。私が作り上げたものなんだから」
けれどもアシュリーはそれに対して、そうやって冷たい態度を取るしかなかった。
表面的には、日々は穏やかに過ぎて行った。
ユーインから「殿下」と呼ばれてはいるものの、ここでは王子ですらないアッシュは、のびのびと過ごせているようだった。
その開放感はもちろん、アシュリーにはよくわかる。アシュリーもベルムデスにこの屋敷へと連れて来られて初めて、自分らしい呼吸が出来るようになったのだから。
王宮はいつだって息苦しい場所でしかなく、唯一安堵できるのはユーインのそばにいるときだけだった。
アシュリーがそう感じるのだから、アッシュもそう感じているのだろう。彼女はアシュリーの分身なのだ。
そう、アッシュはアシュリーの分身。もうひとりの自分である。そのことをアシュリーはよく理解していた。理解していたからこそ、アシュリーは嫉妬せずにはいられない。
自らが作り上げたにも関わらず、アシュリーは明らかにアッシュに嫉妬の感情を覚えていた。
ユーインに「アッシュ殿下」と呼ばれるのが羨ましい。
ユーインに微笑みかけられるのが妬ましい。
ユーインに慈愛の目を向けられるのが、悲しいほどに苦しい。
そんな感情の波に、胃の腑に溜まるそれらに、アシュリーは戸惑った。
孤独の中で半ば忘れかけていたそれらの激しい感情に、アシュリーはどうすればいいのかわからなかった。
こんな激情を自身が抱くことなど、今まで想像したことなどなかったのだ。
こんな思いを抱いてはいけない。そう頭ではわかっていても、心はそうではない。胃の腑にうずまくのは、狂おしいまでの――嫉妬。
アッシュはアシュリーの分身で、その記憶の一部を植え付けられた泥人形である。アシュリーがユーインに恋心を抱いているように、アッシュがユーインに好ましい感情を抱いていることは、はた目にも明らかだった。
アッシュはユーインといっしょにいたがった。なにをするにもいっしょ、というほどではないにせよ、母を慕う幼子のようにユーインのそばにいたがっていた。
そしてユーインもそれを特に嫌がるそぶりは見せない。むしろ自由に羽を伸ばすことのできる主人を見守ることに、本人も満足している風であった。
思い返せばユーインは、アシュリーがアシュリーらしくいられないことを、気にしていた。
しかし一方で、自らを偽るアシュリーを否定するようなことを言うこともなかった。
恐らくアシュリー自身が王子として振る舞うことに後ろめたさを感じていなければ、彼もそのことを気にすることもなかっただろう。
ユーインはそういう人間なのだ。
鈍感そうに見えて、他人の心の機微には人一倍敏感であったから、彼はいつも無理をするアシュリーを心配していた。
そしてそうやって心配してくれることが、自身を慮ってくれるユーインが、アシュリーは好きだった。
ふっとアシュリーは短いため息をつく。
「仕事しないと」
自身に言い聞かせるようにして、そんなひとりごとを口にする。
魔術を修めることによって不老となる道を選んだアシュリーであったが、当然ながら腹は減るし、日々の生活で必要になってくる物もある。となれば不老と言えどども勤労に励むことは必須であった。
アシュリーの場合はベルムデスの仕事をそのまま引き継ぐ形で、今もこの地に根を張っている。
ベルムデスは近隣の村々へ薬草を煎じた茶や、軟膏の類い――総括して薬を売り歩いていた。そのうちにわざわざ歩き売りをせずとも、用があれば屋敷のほうへ依頼が舞い込んでくるようになったので、今では屋敷から一歩も出ずとも生活出来るようになっていた。
いくら気分が落ち込もうが、仕事は待ってはくれない。
アシュリーは屋敷の裏手に敷設された薬草園で、ひたすら手を動かしていた。そうすることで心のうちから負の感情を追いだそうとしていたのだが、無論そう上手く行くはずもなく。脳裏を占めるのはユーインのことばかり。
始めは、ユーインがまた動いて、しゃべって、生きている風であればよかった。永遠に喪ってしまったものを少しでも取り戻せるのであれば、それで良かった。
自身の分身を主人と疑わずにいても、その分身はいわばアシュリーそのものであったから、それでいいと、思っていた。
そう思っていただけで、実際には違った。
ユーインが動いて、しゃべって、以前のように振る舞えば振る舞うほど、アシュリーはまた以前のようにユーインと言葉を交わしたくなった。あの黒い瞳に、優しい眼差しの中に、自身を置きたくなった。分身ではなく、唯一無二の自分自身を、「アッシュ」と呼んで欲しくなった。
けれどもすべてはほとんど手遅れと言ってもいい。アシュリーの矮小な心は分身という身代わりをユーインに差し出した。すべては自らが招いたことである。それもよく理解出来ていたからこそ、アシュリーは消化しがたい感情にいっそう悩まされるのであった。
そうして意識を手元以外に取られていたのが悪かったのかもしれない。
「あ」
不意に薬草を乾燥させている干しかごが地面に落ちる音がした。そうなると音に反応して反射的に振り返ってしまうのは、無理からぬことだろう。
そうして後ろを向いたところで、アシュリーは心臓が跳ねた。薬草園の入り口で、ユーインがなんとも言い難い表情で立ちつくしていたからだ。
どうして。その言葉が出る前に干しかごが落ちたあたりから猫の鳴き声が聞こえて、アシュリーは合点する。
恐らく野良猫を追ってユーインはここまで来たのだろう。なぜ野良猫を追っていたのかまではわからないが。
「どうぞ。入って構わないよ」
アシュリーはどきどきと早鐘を打つ心臓を上から押さえたい衝動に駆られながらも、平静を装ってそう言った。その言葉にユーインはうなずき、薬草園の門を押す。きい、と蝶つがいが嫌な音を立てた。
アシュリーが地面に落ちた干しかごと薬草を拾い上げようと屈みこむと、野良猫はまたどこかへと走り去る。けれどもユーインはそれを追わなかった。
アシュリーは砂まみれになったティースプーンを見て、恐らくこれを取り戻すためにユーインは猫を追っていたのだろうなと推測する。
干しかごを片側に抱え、無言でティースプーンを拾い上げてユーインに差し出す。ユーインはややぎこちない顔で「ありがとう」と言って受け取ろうとした。
そのとき、一陣の風がふたりに吹きつけた。それは砂埃を巻き上げて、アシュリーの長いローブのすそをも掻き上げる。
気がついたときには視界が明るくなっていた。
突風はアシュリーが深々とかぶっていたローブを下ろしてしまったのだ。
――見られた。
顔の右側にある、隠しようもない火傷の跡。アシュリーがアッシュと呼ばれていた王子のころの、傷跡。
アシュリーはユーインの顔を見ることが出来ず、とっさに下を向いてしまう。だからユーインがどのような目で自身を見ていたのか、アシュリーは知らない。
「ユーイン」
遠くからアッシュがユーインを呼ぶ声が聞こえた。それに呼応するようにユーインが動く衣ずれの音がする。いつのまにか片手に持っていたティースプーンは、ユーインの手元に渡っていた。
「それではこれで」
ユーインはアシュリーの様子に頓着するそぶりも見せず、そのまま薬草園から出ていった。「ユーイン!」。彼の姿を認めてその名を呼ぶアッシュの声が、アシュリーの脳で妙に反響する。
気がつけばアシュリーは涙をこぼしていた。
すべては自分が招いたこと。
だというのに狂おしいほどに焦がれて、引き裂かれそうなほど妬ましい。
ふたりを見たくない、けれど気になって仕方ない。
これ以上親しくして欲しくはないけれど、今さらなにも言えやしない。
アシュリーはしばらくのあいだ、そうやって薬草園の中でうずくまっていた。
遠くからときおりアッシュの無邪気な声が聞こえて来ていたが、アシュリーの耳には入らなかった。