(3)
「アッシュ殿下……あの者は――」
信用に足るのでしょうか? そう言いかけてユーインは口をつぐんだ。
正体不明の魔術師の女――ベルムデスの弟子を名乗ったがユーインは半信半疑だ――にわけもわからず蘇らされたこと自体は、この際脇に置いておいてもいい。問題は、自身のみならず彼の主人までわざわざ復活させたことである。
否、逆なのかもしれない。わざわざ泥の肉体を与えたのはユーインのほうかもしれなかった。しかし、これもまた考慮するのはあとでいいだろう。
ユーインにとって重要なのは、たとえ偽りの肉体を得ているにせよ、その精神が彼の主人であることだ。
だが当の主人はユーインほど、そのことについて深くは考えてはいないらしい。
「ベルムデスか?」
「ええ……」
「あの者が信用に足るか、疑っておるのだろう?」
そう言って主人は微笑んだ。ユーインの知る、春の訪れのような柔らかな笑みだ。
「どちらにせよ私たちは共に死したる者だ。どうなっても構うまい」
「しかし」
「これは余暇のようなものだよ、ユーイン」
悪戯っぽい顔をして主人はユーインの唇に人差し指を当てた。その行動が突飛であったから、ユーインは思わずのけぞる。それを見て主人はまた笑った。
「それに」
「はい」
「なにがあっても、ユーインといっしょなら……私は構わないと思っている」
その言葉の裏にある感情に気づかないほど、ユーインは鈍い性質ではなかった。けれどもそのことを指摘できるはずもなく、ただ彼にしては珍しく曖昧なうなずきを返すしかなかった。
「それとあの者には感謝していることもある」
主人はそう言って顔の右側を撫でた。無論、そのことにはユーインも気づいていた。
主人の顔の右には醜い火傷跡があったのだ。それはユーインにとっては苦い記憶で、主人にとっても恐らくは変わりない。
「ユーインはいつも気にしていたから」
「それは……そうです」
「ユーインのせいではないだろう?」
「しかし、私が気づくのが早ければ――」
「たとえばの話は、しても仕方ないだろう。……だから、あの者には感謝している。だからユーインも、もうそのことは忘れてくれ」
「殿下……」
「お願い、だ」
「……はい」
そんなふたりの様子を、アシュリーは屋敷の二階からそっと眺めていた。まるでかごに入れられた昆虫でも観察するように、彼女はただ仲睦まじい彼らを見ていた。
そして顔の右側へと手をやった。指で撫でれば、でこぼことしたケロイド状のおうとつがあるのがわかる。
王宮の中で、王子たちは互いに相手を蹴落とそうと権謀術数をめぐらせていた。アシュリーは王位に興味はなかったが、母たちがそうではなかったために、否が応にもその骨肉の争いに巻き込まれ、我が身を守るためにその手を汚すことすらあった。
その中で火事に巻き込まれたのは、一三のときのことだ。ご丁寧に寝酒――その頃のアシュリーは慢性的に不眠だったのだ――に痺れ薬を盛られ、意識が明瞭なまま焼き殺されかけたのである。護衛の兵は買収され、声も出せない。まさに、絶体絶命だった。
そんなアシュリーを炎の中から助け出してくれたのが、ユーインだった。そしてそのときにアシュリーは顔の右側に火傷を負ったのである。
それは「幸いにも」と呼べる程度の傷であったが、ユーインにとってはそうではなかった。彼はアシュリーの顔についた醜い火傷跡を、彼女が戸惑いを覚えるほどに悔いていた。
何度も「気にしなくていい」と言ったが、ユーインは決してうなずきはしなかった。
「私は危うく命を落としかけたんだよ。それに比べれば、こんな傷くらいどうということはない」
それは本心だった。しかしユーインはそんなアシュリーの心は解せないらしい。
だからアシュリーは代わりの言葉を彼にかけた。苦しむユーインの心を少しでも軽くしたいという思いもあったが、他に別の思いがあったことも否定は出来ない。
「過去のことはいくら言っても仕方がない。だから、私と約束しておくれ」
「あなたとの約束なら、いくらでも」
「……私を苦しめるものから、私を救うと誓ってくれる?」
「はい! ……殿下を苦しめるものすべてから、殿下を救うと誓います」
それは解放であると同時に、呪縛であった。
そしてもちろんそれにアシュリーが気づいていなかったわけではない。わかっていて、アシュリーはユーインに呪いを与えたのだ。……彼の心につけ込んで。
ユーインはアシュリーを努力家で、お人好しだと言ったことがある。その評はいくらか正解なのだろう。
けれども実際のアシュリーはユーインの心を縛る浅ましさを持って、それでいてまるでそんなことは知らないような顔をする、卑怯な人間だった。
そしてそれは、一〇〇年の時を経ても変わらず、否、ますます甚だしくなってアシュリーに貼りついていた。
アシュリーの分身――アッシュを作ったのは、変わり果てた自身をユーインが受け入れてくれるかわからなかったから。
たとえ拒絶されたとしても、自分の偽物であれば傷は浅いと、そう思っての行動だった。
すべては浅ましい保身のため。その保身のためにアシュリーは自身の記憶の一部を宿した泥人形を作ったのだ。
そもそも、泥人形の術自体が禁術と呼ばれる、理から外れた法であった。
ベルムデスは自活の手段を持たないアシュリーに魔術を教えたが、無論その過程で禁術についてもよくよく語って聞かせた。
決して手を出してはいけない外法。
待ち受けるのは不幸な結末のみだと。
アシュリーはそのときはなんの邪心もなく、そんなものには手を出さないとうなずいた。
けれども結局、アシュリーはベルムデスとの約束を破ることになる。
彼の死後、その遺品を整理する過程でアシュリーはベルムデスの言っていた禁術がどういったものか知ってしまった。
死者の魂を天から呼び戻し、泥の人形に閉じ込める。おぞましい外法。
しかしそれはアシュリーにとっては、抗い難いほどに魅力的なものに映ったのである。
理性ではいけないことだと、よくよく理解していた。恩のあるベルムデスの言いつけを破ることにも、罪悪感はあった。ただそれらを、逸脱した恋心が上回ってしまった。それだけのことである。
禁術が記された書物を読みながら、その方法に無理があるならあきらめようとアシュリーは思っていたが、不幸なことにその手順のすべてを彼女は実現できてしまうということがわかってしまった。
泥人形には蘇らせたい相手の一部を埋め込むのだが、アシュリーはユーインの骨を持っていた。
土葬に付されたユーインの、その体の一部をアシュリーは国が亡びるその前に盗み出していたのである。
それは、だれにも言ったことのない恐ろしい行いだった。
風の噂を聞くに国が亡びたあと、ユーインが眠る墓所も大いに荒らされたそうなので、アシュリーのその行いは幸であり、不幸であった。
「アッシュ殿下」
下階からの呼び声にアシュリーは意識を引き戻される。しかしすぐに、それは自身に呼びかけられたものではないということに気づいて、落胆した。
アッシュ。その愛称は母と、そしてユーインだけが使っていたもの。
「ユーイン、こっちだよ」
幼い自分がユーインを呼ぶ。
アシュリーは胃が重くなるのを感じた。