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不毛の子  作者: ヨシトミ
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第44話 満願成就

第44話 満願成就


「何ね? 何の願いね?」

「大した願いじゃない」


あんたは俺の耳元に唇をつけて、息を吐き出すように言った。


「どうか引き止めないで欲しい、私をこのまま逝かせて欲しい…もう私を自由にして欲しい」

「そいだけはいけん! どげんしてんそいだけは許せんでね! おまんさは生きっ、おいと」

「アホか作物、お前も男なら女の願いぐらい叶えろ。交代だ…今度はお前が生者、私が亡霊。

私が先に行って、蓮の上に場所取りして目印をつけて置いてやる。

もう行き先を間違えるな、次死んだら真っ直ぐに来い」

「じゃどん、井伊直美…!」


あんたは縁側の奥の庭を見た。

空が白んで来て、影が徐々に具体性を帯びてくる…。


「女はいつだって次の命のために命張るもんなんだよ…わかったか、島津豊久。

…もう夜が明ける、そろそろ行かねば」

「わからん…そげんもんちいともわからん! そげんもんおいはわかりとうもなか…」


俺は泣いてあんたにすがりついた。

あんたは俺の唇を奪って、にいと笑った。


「お前の負けだ島津豊久、願いはちゃんと叶えたぞ…満願成就だな、作物」

「満願成就ち! おいは…おいは…」

「…刻限だ、私は行く」


刻限…あんたは残りの命を全て、俺のために使い切ってしまったのだ。

ひとつの身体の中で、俺と最後の夜を過ごすために。


「も…もし次ん世があっとなら、次ん世に生まれっとなら、

おまんさは…おいと同じ蓮んうてなに産まれてくれっけ?」

「構わんよ…」


あんたはするりと俺の腕をすり抜けて行く。

肉体という枷から流れ出て、俺の周りをぐるりと一周し、

そして窓を通り抜け、明けて行く空へと昇って行った。


「おまんさ…井伊直美!」


俺はあんたを追いかけて庭へ駆け出し、でもうまく歩けず転んでしまい、

庭の玉砂利に突っ伏したまま、大声をあげて泣いた。

その声に気付いたばあさんが家から飛び出して、俺を抱き起こす…。


「直弼!」

「井伊直美が…井伊直美が今け死みよった…!

おいが殺した! こんおいが殺してしもうた!」

「『おい』って直弼…あ、まさか」


おいはばあさんの腕の中で、涙で顔をぐしゃぐしゃにして叫んだ。

まさかこんな形で呪いの代償を自分自身に支払うなんて…。


「…井伊直美やなか、おいは島津又七郎豊久! 井伊直美が作物じゃっど!

こん島津豊久が今から井伊直美じゃっど…!」



あんたは死んだが、臨終の宣言も葬儀も無かった。

なぜなら島津豊久によって、その肉体は今も生き続けているから。

ばあさんは霊媒師を断ろうとしてくれたが、俺は来る事を望んだ。

あんたが死んだ翌日に霊媒師が吉弘の家に来た時、俺はその目的の変更を願い出た。

島津豊久の除霊から、井伊直美の慰霊へと。

この日、笠垣は吉弘の家に来なかった。


「…しかしまさか直弼が、なんと思い切った事を」


あんたが死んだ当日に知らせを受けていたじいさんは、霊媒師が帰った後、

俺の枕元で俺をしげしげと見つめ、ため息をついた。

昨日じいさんもどうしても外せない仕事で、吉弘の家には来られなかった。

これがあんたとの最後で、新しい俺との最初の対面になる。


「じじどん…あいは捨てがまりとかそげんレベルやなか。

農業じゃっど、井伊直美はそげん言うちょった…次ん春にゃまた次ん新しか命ち」


俺は起き上がって手鏡を覗いていた。

そこにあんたが生前と変わらずいるから。

変わらず、俺のそばにいるから。


「作物…」

「こげん新しか命、おいはちいとも嬉しゅうなか…命は捨てがまっもんやなかでね。

捨てがまった方は良かけんど、捨てがまられた方はたまらんが…」


俺は伯父を、佐土原に残して来た母を思った。

捨てがまりは必ず死を意味する。

あれから伯父はどんな気持ちで、西へと落ちて行ったのだろう。

母は島津の誰かによって、俺の戦死を伝えられただろう。

息子の死は母親にとって、どんなに悲しい事だろう。

泣いて俺の死を知らせた使者に詰め寄り、責めに責めた事だろう。

こんな今頃になって、捨てがまるとはどういう事かわかるなんて。


「井伊直美は生産者、おいはそん作物…農業ち、こげん悲しか命ん営みはなか…!」


俺はじいさんの膝に顔を埋めて泣いた。

じいさんは黙って俺の背中をそっと、何度もくりかえし撫でてくれていた…。


「…そうだ、作物。お前さん笠垣との結婚はどうするね?」


じいさんは帰り際ふと思い出して、ジャケットのポケットから指環の白い箱を取り出した。

家から持って来たのか…。


「あ…そうじゃった」

「まさかその状態で結婚する訳でもあるまい、私が笠垣に話をしよう」

「いや、おいがすっ…こげん事はおいから言うた方が良か」


じいさんが帰った後、俺は笠垣にこの状況をどう説明しようか悩んだ。

笠垣は俺があんたを殺したとなじるだろう。

それ以前に俺と言う事実を信じるだろうか。


笠垣は何度も吉弘の家に見舞いに来てくれ、あんたに会おうとしてくれたが、

俺は心の整理がつかず、ばあさんや使用人に断ってもらった。


「作物や、笠垣のぼんがまた来ているよ」

「断ってくいやんせ、ばばどん」


笠垣と聞いて、俺はふとんを頭まで被った。

ばあさんはふとんの上から、俺を優しく撫でた。


「…結婚出来ないのならば、きちんと断って差し上げるのが優しさだよ」

「ばばどん…」


俺はふとんから顔を出した。


「庭に…お通ししてくいやんせ」


俺は寝間着の上に上着を羽織り、指環の箱を持って庭に出た。

春の庭は曇って、底冷えする寒さの中に樹木や庭石が仄かに煙って見えた。

雨か雪が近づいているのだろう。


「…やっと会えたね」


笠垣は陽が射し込んだように明るく微笑んだ。

あんたがこの男を愛していないのはわかっている、でもそれ以前に彼とは兄弟だった。

笠垣は島津さんを親に、あんたとは兄弟の間柄だった。

俺がそれを壊していいのか、少し悩んだが俺は心を決めた。

断るのも優しさなら、誠意なら。

俺は指環の箱を笠垣に差し出した。


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