第35話 豊久バッドエンド
第35話 豊久バッドエンド
手をあげるあんたの前に黒塗りの車が停まり、中から男が出てきた。
「井伊さん…!」
笠垣豊久か…!
くそ、なんで笠垣などに助けを求める。
「井伊直美、貴様何しちょっ! なして笠垣なんぞに…」
俺はかけ寄って、タックルするようにあんたの腰へ飛び込んだ。
「邪魔だ作物、どけ…」
「いけん! そいだけはいけんでね!」
「構わぬ、私の決める事だ」
「いけん!」
こんな小さな武将など、女の手でも簡単に振りほどける。
…肉体が欲しい、ちゃんと成人の肉体が欲しい。
あんたを引き止められる力が欲しい…憑依じゃなくて。
「…豊久トゥルーエンドなぞおいが許さん」
あんたは突然、男言葉で話し始めた。
ごめん井伊直美、これしか方法がない。
またあんたの生きる力を奪ってしまったな…。
「おまんさんエンディングは豊久バッドエンド、そいだけで良か!」
「井伊さん…?」
「井伊直美はこん島津豊久ん呪いで生涯結婚もせん、子も産まん、繁栄もせん、
不毛ん身ば抱きっせえ、孤独にけ死むエンディングじゃっど…!」
俺はよろけながら、笠垣を指差して笑った。
シゲどんが井伊直美と抜け殻の井伊直政特大リボルテックを交互に見、呆気にとられている。
「邪魔だ作物…」
井伊直美という肉体の中で、突然俺の魂がぐいと端に押しのけられた。
「えっ…おまんさ!」
あんたは本当にすごい能力者なのだな、ひとつの肉体の中で俺と共存出来るとは。
でもそれは…。
あんたは俺の前に出て静かに言った。
「笠垣豊久、私と結婚しよう。嫁には行けぬが、良かったら新井家へ婿に来ないか?
お前確か三男だろ、新井家と新井博物館を手に入れてみないか?」
「井伊さん…ほんとに? いいの?」
笠垣は俺ごとあんたを抱きしめた。
「じゃどん、井伊直美誰とも結婚せんち…!」
「じゃどん何ね? 私が構わんち言うちょっ、ちいとも構わん…。
結婚ごたなんぼでんしちゃる、こんこまんか命役立てっ時は今じゃっど…!」
あんたはそこまで言うと、笠垣の腕の中で意識を失った。
笠垣はあんたをひしと抱きしめて、優しく髪を撫でた。
「井伊さん…! 俺、新井家も博物館もそんな、手に入れるだなんて…。
俺はただ井伊さんが欲しかっただけなのに…絶対幸せにする、絶対幸せにするから。
笠垣の子という身分も捨てる、一生を井伊さんのためだけに生きるから…!」
…悪役になるとはこう言う事か。
笠垣の愛、あんたの新井家への愛。
悪の呪いは正義の愛には絶対勝てないのか…。
俺はただ黙って倒されるだけの存在か、あの戦のように。
関ヶ原から退却するあの戦が脳裏によみがえって来る…。
父を早くに亡くし、島津家中でも微妙な存在だった俺を、
伯父が養父となってくれ、実の息子同様に可愛がってくれた。
戦なんて行きたくもなかった、でもそういう義理があったから仕方なかった。
義理に命を散らすのが戦国の武将だった。
どこかに落ち延びて、新しい人生を夢に見ながら死んで行った俺だったが、
仮にあの状況を生き延びたとしても、夢は夢のままで叶う事はなかっただろう。
まず落ち延びるにも落ち武者狩りがいる、庶民の通報もある。
いくら島津の分家とは言え、殿様育ちの俺では自分の事も満足に出来ない。
そんな男が落ち延びた先で、嫁をもらうのも難しい。まず誰も信用出来ない。
嫁の来てがあっても、その嫁が敵の間者かも知れない。
他人を愛する事などとても考えられなかっただろう。
あんたは以前、俺に死んでからが俺の人生と言った。
確かに死んだ事でとりあえず島津の家からは解放された。
生前は無名の雑魚だったのが、歴史に名を残す猛将になった。
まったくあんたの言った通り、死んでからが俺の人生なのだ。
俺はもう自由なのだ、自分の意思で動いていいのだ。
なんと皮肉な…!
「シゲどん! こっから一番近くん病院!」
俺はあんたの身体から抜け出ると、ぐりんとシゲどんの方を振り返った。
「お、おう! この時間でここからだとうちが一番近いな…」
「じじどん、ぎゅうちゃん…そいから笠垣も、井伊直美ば運んでくいや!」
俺たちは倒れたあんたをシゲどんの車に乗せ、吉弘の家へと急いだ。
あんたを寝かせるため、俺は笠垣の車に乗った。
「…島津豊久、あんた井伊さんを殺すつもりなの?」
計器類のわずかな灯りだけの車内で、笠垣豊久は闇になって聞いた。
井伊直政特大リボルテック魔改に入った姿ならば、彼にも俺が見える。
「まさか…そげん事なかろうもん」
「あんたの言動は矛盾ばかりだ、殺さないと言って憑依で体力を奪ったり、
呪うと言いながら助けるとか言ったり、憎みながら愛したり、
あんたが何を言っても俺は信用出来ないね」
「結構、貴様にゃ信用されとなか…」
笠垣はシャツの胸ポケットからたばこを取り出し、1本くわえて火を点けた。
キモオタのくせにいっちょまえにたばこかよ、そこは甘いジュースじゃないのかよ。
もし俺に実体があったとして、果たしてこのキモオタに勝てただろうか。
若い頃は俺も美少年と言われた事もあったが、何しろ享年三十のおっさんだ。
戦国の三十歳はこの世界で言う、四十歳…それ以上に老けている。
そしてこの時代の者から見れば、短足の不細工な小デブのじじいだ。
まず同じ土俵にすら立てないだろう。
キモオタはめかし込めば今様のイケメンにもなれるが、
戦国の武将はどんなにめかし込んでも不細工、今様のイケメンにはなり得ない。
「俺としてはその方が助かるけどね…どう見ても俺が正義だ」
「…正義ち何ね。悪ん側から見りゃあおいが義、正義ん貴様が悪じゃ。
義が必ず勝つちゅうとなら、勝利はおいがもんじゃっどな」
「で、あんたは俺を倒し井伊さんを手に入れてどうしたいの? 答えろよ島津豊久。
まさか呪うとか言って、自分の女にでもするんじゃないの? ほら、お得意の矛盾だ」
笠垣は俺に視線を流して、嫌味に笑った。
女は…犯して手に入れるもんじゃないよ。
「おなごは力で手に入れっもんやなかでね、そげんしてん虚しかだけじゃっどね…」
俺はうつむいて、自分のして来た事を思った。
俺があんたを愛したら良かったのか、そしたらもっと簡単だったか。
…そんな訳ないだろ、あんたはあの井伊直美だ。
絶対裏がある、そうだろ。




