第34話 桜田門外からお越しの井伊直美様〜
第34話 桜田門外からお越しの井伊直美様〜
笠垣豊久の背景にある力は、俺が考えるより大きいかも知れない。
まず、真田雪のいるマグパイ不動産を動かせる。
そしてたぶん、あんたが運ばれた病院にもその息がかかっている。
何より新井博物館の購入に国を動かせる、資金も潤沢だろう。
こんな島津豊久とか、最果て過ぎる田舎の雑魚などとは訳が違う。
笠垣豊久は中央権力のまさにど真ん中にいる。
彼自身が有能か無能かは関係ない、血筋なのだ。
彼の身分は戦国の時代で言う、豊臣や徳川の子息らに相当する。
あんたも大変な男に気に入られたもんだな。
シンデレラストーリーかよ、あんたを玉の輿に乗せてたまるか。
俺が火の車に乗せてやるよ。
あんたはこの小さな博物館で、一生やりくりに奔走していればいい。
「…おいは必ず井伊直美ん事助けっ、全生命体ば滅ぼしてん助けっ。
呪いでん愛でんどっちでん良か、そいが怨霊が悲願成就ん第一条件…!」
あんたの心身を確保する事、でなきゃ不幸にも出来ない。
それを恋だと愛だと笑ってくれて構わない、俺は積年の恨みを晴らすまで。
そうこうしているうち、じいさんが往診を頼んでいた医師が到着した。
じいさんに案内され、大柄のごつい老医師はあんたの枕元について診察を始めた。
脈拍や身体の音などを調べ、それから包帯を取って傷口を診る。
「鎮康(しげやす)、直弼はどうだね?」
「悪くはないよ…傷口も丁寧に処置されてあるし、たぶん病院で輸血もされてあると思う。
でもなんでこんなに消耗しているんだろうね、とにかく感染症が心配だ。
兄さん、やっぱり直弼をどこか病院に入れた方が…俺が紹介するから」
会話から、医師はじいさんの実弟らしかった。
確かに今は医師でも信用の出来る者でなくてはならない。
ぎゅうちゃんが医師に説明した。
「シゲ、直弼は追われている。先ほど敵の息がかかった病院から取り返したばかりだ」
「なんでさ、ぎゅうちゃん。追われてるって犯罪者じゃあるまいし。
とにかく直弼はどこかに移さないと、ここも知られてるんでしょ? 時間の問題だ」
「シゲどん、どっか敵ん来んとこなかかね? 絶対入れんごた…」
医師のシゲどんはうーんと腕を組んで、天井を見上げて思案した。
よく日に焼けた顔が白い髪とひげでぐるりと囲まれてある。
彼の風貌になんとなく伯父を思い出す、「よしひろ」だし。
「あるっちゃあるね…でも直弼のようなまだ若い女の人を入れたくはないね」
「どこね?」
「その1、警察や刑務所などの刑事施設。その2、精神科病院」
「鎮康、さすがにそれはだめだろ。直弼はただのけが人だ」
「やっぱりだめか…いいアイデアだと思ったんだけどな、ち。
とりあえずうちの病院か自宅でどう? 姉さんもいるし」
じいさんとシゲどんの吉弘家は三人きょうだいなのか。
そしてぎゅうちゃんは吉弘きょうだいと古い付き合いなのだ。
なんとなく彼ら老人たちの関係が読めた。
そんな老人たちはすぐに立ち上がり、移動の準備を始めた。
「よし、俺が車回して来よう」
「頼んだよ鎮康。直弼、今から吉弘の家に行くよ」
「…よろしく」
「ぎゅうちゃん、直弼を運ぶよ。いい? 作物は玄関開けて来て」
あんたはじいさんとぎゅうちゃんに運ばれて、シゲどんの車で新井家を出発した。
待ち伏せも追っ手もまだいなかった。
途中あんたはトイレと言って、夜間営業のディスカウントストアに立ち寄った。
俺もあんたについて行ったが、便所までついて来るなと言って売り場に置き去りにされた。
俺は時々トイレの方を見ながら、売り場で待っていた。
ところがあんたは待てど暮らせど出て来なかった。
「長か便所じゃっどな…おいこら、井伊直美!」
俺は無礼を承知で女子トイレに立ち入り、あんたを呼んだ。
その女子トイレは空っぽで、誰もいなかった。
さらわれた? 考えられない、このトイレは窓が無く出入り口一カ所だけだ。
逃げ出した? まさか、その身体でそんな機敏な動きなんて出来ないし、
そう遠くまで行けるはずはないし、その理由もない。
「じじどん、じじどん、井伊直美戻て来ちょらんけ?」
俺は車に戻って、じいさんらに聞いた。
「いや…直弼がどうしたんだね?」
「便所におらんとよ、売り場にもおらん」
「直弼もあの身体じゃそう遠くへは行けない、探そう」
ぎゅうちゃんがじいさんとシゲどんに声をかけ、車の助手席から降りた。
俺と老人たちは手分けして辺りを探した。
こんな小さな武将もまた遠くまで行けないので、俺は店の中やその周りを受け持った。
「なんだこの小さい戦国武将は? 子供か?」
「迷子じゃない?」
小さな武将は目立ち、スウェットのセットアップにキャラクター物の健康サンダルの、
いわゆるヤンキーたちにさっそく絡まれてしまった。
「ボク、こんな夜中に出歩いちゃだめだよ」
「おうちの人が心配しているから早く帰りなよ」
「とりあえず店員さんを呼んで、保護してもらわないと」
喧嘩を売ってくれるほうがまだ早かった、ヤンキーたちは俺を迷子だと思い込み、
保護しようとご丁寧に店員まで呼んでくれた。
「ボク、お名前は何て言うの? お年はいくつ? どこから誰と来たの?」
「おいは島津豊久、数えで享年三十一じゃっど。
じじどんらと井伊直美ば探しちょっ、桜田門外から吉弘ん家行く途中じゃった」
「は? あ、ああ…島津豊久くん3歳ね、おかあさんは桜田門外の井伊直美さん…と」
店員は俺の話が理解出来ないのか、だいぶ大幅に端折られてしまった。
俺は売り場の片隅に連れられ、店員がマイクを手にした。
何はともあれ、店で呼び出しをしてくれるのはありがたい。
「毎度ご来店ありがとうございます。ご来店中のお客様に迷子のお知らせを致します。
桜田門外からお越しの井伊直美様〜ただ今3階衣料品、バラエティグッズ売り場にて、
3歳の島津豊久くんがお連れ様をお待ちです。
お連れ様は至急最寄りの係員までお声がけくださいませ」
「ぶひょっ」
ちょうど3階にやって来たシゲどんがこの放送にぶっと吹き出した。
吹き出しているのはシゲどんだけではなく、俺も他の客たちも同じだった。
「『桜田門外からお越しの井伊直美様』だって!」
「桜田門外の変? 井伊直弼かよ!」
「『井伊直美』…惜しい!」
さすが井伊直美、笑われている。大爆笑だ。
シゲどんが店員に名乗り出た。
「島津豊久の保護者の吉弘鎮康です」
「ああん、シゲどん!」
俺はシゲどんの太い足にしがみついた。
シゲどんが引き取りの手続きをしてくれて、俺はようやく解放された。
彼に手を引かれて車に戻ろうと店を出ると、店の前の通りの反対車線にあんたがいた。
あんたはやってくる黒塗りの車に手をあげていた。
「…井伊直美!」




