第33話 条件分岐
第33話 条件分岐
俺と言う小さな雲は、尖った先端に導かれながら病院内を進んだ。
イエスかノーか、右か左か。
だが進路はいつも二つに分かれているとは限らない。
俺はT字になっているところに出た。
イエスかノーで片付かないなら複数分岐だ。
全ての分岐が真か、全ての分岐が偽か、真偽の混在か。
アンドかエルスかオアか。
分岐は得意だぞ、あんたとの仕事でもコンピュータの中でさんざんやった。
あんたが赤い赤いうるさいあのカラーバランス処理だって、分岐の重なりだ。
俺と言う雲のペンデュラムは上層階の一室の前にたどり着いた。
良かった、ナーステーション以外の見張りはいない。
俺はそのまま扉をくぐり抜けた。
部屋の窓際にはベッドが置かれてあり、あんたはそこで点滴や空気の管に繋がれて寝ていた。
そんなに血を失っていたのか、そんなに重い傷だったのか。
その状態であんたは動いていたのか。
「起きい」
俺はあんたの頬に触れた。
意識はあるようだ、あんたのまぶたが動いた。
「…作物か」
あんたは目を閉じたまま、小声で言った。
「迎えん来た、帰っど…動けっとか」
「このままでいい」
「いけんが、こんまま笠垣豊久ん世話んなっつもいけ」
「笠垣め、そういう作戦だったか…まあいい、このまま敵の懐に飛び込むのも悪くない。
敵中突破だ、笠垣の家を内から崩壊させるのもまた一興」
あんたはふふと笑った。
…あんたは笠垣との結婚も辞さないつもりなのだ。
じいさんと新井の家を守るため、結婚など手段のひとつでしかないのだ。
あんたは誰だっていい女なのだ、誰とでも寝て良し、誰とでも結婚して良し、
誰の子だって孕んで流しても良し…でもあんたの心は?
「すまん…!」
俺は白い炎に形状を変えて、あんたの身体に飛び込んだ。
憑依すれば精神は俺に支配され、あんたの意識はなくなる。
あんたに憑依した俺は身体に繋がる管を全て抜き、ベッドから起き上がった。
痛い事は痛いし、ふらつく事はふらつく。
でも歩ける、俺があんたを連れて帰る…!
じいさんの許へ、新井の家へ。
俺は陰に隠れながら暗い廊下を移動した。
そして背を低めてナースステーションの前を通過して、階段を下りる。
また物陰に隠れると、じいさんとの話を終えた笠垣とすれ違う。
時間はない、少しでも遠くへ行かねば。
夜間出入り口の職員の動きを観察し、その隙を突いて玄関を突破する。
そして力を振り絞って敷地の外に出た。
「直弼…!」
敷地の外にじいさんがいた、俺を待っていたのか。
「おいじゃ! 豊久…作物じゃっどじじどん!
タクシーば呼んでくれんね、早う! 追っ手が来っど!」
じいさんはあんたの身体に入った俺を背負って、大通りに出ると、
タクシーを探して呼び止め、かけ寄って飛び乗った。
「桜田門、新井博物館まで急ぎ頼む」
「じゃどんじじどん…こん身体じゃ」
「知り合いの医師に頼むつもりだ、これ以上直弼を動かせない。
このまま他の病院を探すより、一度家に帰って往診を頼んだ方が安全だ」
タクシーに乗っても、俺は憑依を解かずにいた。
家までは近い、ここで憑依を解けばあんたはただの重い荷物だ。
短い距離だったが、車の中で俺は一秒ごとにあんたの消耗を感じていた。
普通ならば憑依もただの疲れかも知れないけれど、今は訳が違う。
早く家に連れて帰って、早く憑依を解かねば…。
先にタクシーから降りると、俺はあんたの身体を引きずって玄関の鍵を開け、
そのまま居間に直行して、畳の上に寝転がり憑依を解いた。
傷は病院で処置してあるだろう、だがあんたは確実に消耗している。
あんたをここへ連れ帰るのに憑依した、俺はあんたの体力を消費した。
俺は井伊直政特大リボルテック魔改に入って、座布団を持って来ると、
それを二つに折ってあんたの頭の下に差し入れた。
こんな小さな武将ではふとんの上げ下ろしも出来ない。
手ぬぐいを冷やす水道に手も届かない、無力だ。
情けなくて涙が出て来る。
包帯の上から、俺は小さな手をあんたの傷口に添えて撫でた。
小さな傷なら俺でも消せる、でもこれほど深い傷は復元出来ない。
ましてや消耗した体力や、損なわれた免疫など癒せるはずもなかった。
「おいこら、井伊直美…起きんね、こら…」
あんたは口をきくのも大儀らしく、ふんと鼻を鳴らしただけだった。
じいさんは博物館の受付で、助けを求める電話をかけていた。
「直弼、助けを呼んだ。すぐに来る、待てるか?」
じいさんは電話を終えると、そう言ってふとんを運んで来た。
俺も手伝ってシーツをかけ、じいさんがあんたを寝かせてふとんをかける。
「こんばんはあ、おはあどん開けてくれ」
玄関先で男の声がして、じいさんが開けると老人が入って来た。
天ぷら屋のぎゅうちゃんだった。
「悪いねぎゅうちゃん。今医者を呼んでいるんだけど、人手が足りなくてね…」
「人手?」
そこへ電話が鳴り、じいさんは居間の子機でそれを取った。
何やら揉めているらしい、笠垣からか。
「ぎゅうちゃん、井伊直美は追われちょっ。おいたちが敵ん手から連れ帰った」
「小さいの…ああ、おはあどんの博物館のマスコットキャラか」
「おいは井伊直美が作物じゃっど。俗名は島津又七郎豊久…亡霊じゃっど。
おいにゃ姿はなか、ぎゅうちゃんにゃ見えん、だからこん人形に入っちょっ」
「では亡霊に聞いてみようかね、こっくりさんだ…直弼はなぜ追われている?」
ぎゅうちゃんは俺を膝に乗せて、丸い頬を撫でた。
「井伊直美は笠垣豊久ちもんから求婚されちょっ…笠垣は名家ん子息じゃっど。
そん力ば利用しっせえ、笠垣は何ばしてん井伊直美ば嫁じょんすっつもいらし。
新井ん家に地上げ屋寄越っせえ、脅しちょっと」
「俺たちは直弼を助けられるかな…もうひとりの豊久や」
俺はぎゅうちゃんの膝で出っ張った腹をさすられ逡巡した。
どう見ても、俺たちは圧倒的不利にあった。




