第2話 壁のしみ
第2話 壁のしみ
「歓迎ばすっち…いけんが! おなんごん幸せは子ば成す事じゃっど!
おいがおまんさば不毛んすっど、そいで良かち言うとか!」
「上等だ、何ら構わん」
井伊直美、あんたは何て女だ。
女の使命を、幸せを、放棄するとでも言うのか。
あんたぐらいの年齢の女ならとっくに家庭があるか、それともあがいているかだ。
だがあがきもしない、あんたは。
こんなんが戦国にいなくて良かった、被弾しても突き掛かって来そうだ。
井伊直政どころじゃないぞ、あんた。
あんたは狭い風呂場の小さな浴槽にお湯をため、シャワーを浴び始めた。
俺は確かに400年と少し前の戦国の武将だが、シャワーも知らぬとは思うな。
一族を代々追って来た、この時代の事ぐらい知っている。
「お前さっきから臭いぞ、臭過ぎる。いつから風呂入ってないんだ。
大体ざんばら髪にぼろぼろの甲冑で血まみれとか、ださ過ぎだろが」
あんたは浴槽の中から、手のひらほどの大きさの壁のしみになった俺を見て呆れ返った。
浴槽に漬かっていてくれる方がいい、あんたの裸を見なくて済むから。
「こいは死臭じゃっど! こん格好は戦ん装束!
貴様の先祖がおいば拒みよったんが原因! 受け入れちょったら風呂ぐらい入っちょっ!」
あんたは壁のしみにお湯をかけ、石鹸をつけてブラシでこすってみた。
手を動かすたびに白く大きな乳房がぷりぷりと揺れる。
「ひい! 痛かと! 何しよっ!」
「しみならこすれば多少は汚れも落ちるだろ。服を脱いでしみになれ」
「うー」
俺は着ていた物を脱いで裸になると、また壁のしみになった。
俺がブラシを痛いと言ったので、タオルになった。
あんたは股間でも内股でもおかまいなしに、ぎゅうぎゅうとこすりやがる。
「むひょ。そこはこすらんでくれんね、恥ずかしかあ…」
「亡霊のくせに痛いとか恥ずかしいとか感覚があるのか…次は後ろだ」
「あっど…おいはこん世に心ば残っせえけ死んだ亡霊じゃっど」
あんたは俺を後ろに向かせ、タオルで壁のしみをぎゅうぎゅうとこすり続ける。
「こすっても臭さが取れんな…さすが死霊」
「だからよ、おいが事臭か臭かち言うでなか!」
俺はむかついたあまり、壁から飛び出して振り返ってしまった。
そこにはタオルを手に、目を丸くしているあんたの裸があった。
「…おまんさ、なしてきゃあとか悲鳴ば上げん?」
「なぜ私が悲鳴など上げねばならぬのだ」
「アホか貴様! こん状況ばわからんとか! 男に裸見られちょっが!
そこはきゃあち悲鳴んひとつくらい上げっとこじゃっどが!」
男に裸を見られている、あんたはこの状況に顔色ひとつ変えやしない。
これが他の男だったら、あんたとっくに襲われてるんだぞ。
「お前が男? 笑わせるな、亡霊のお前はもはや男ですらない」
あんたはそう言うと立ち上がり、浴槽の縁をまたいだ。
なんで俺があんたの何もかも、全てを見せられなければいけない。
…しかしながらこうして見せられると、実にいい身体だ。
まず身長がある、肌も血管が透けるほどに白い。
歳もあって胴体にはしっかりとした厚みがある、これは小娘などでは到底無理だろう。
乳もでかいが腰は大きく張り出して、豊かな尻や太腿へと続いて流線型を描く。
これは戦国の女の理想型と言えよう。
あんたは俺に気に留める事なく、長い髪をほどいて洗う。
洗髪料の複雑な香りが漂い始める。
俺の方が恥ずかしくなっていたたまれず、着ていた物を持って風呂場から出てしまった。
「何付いて来ている」
風呂から上がったあんたは、玄関に鍵を下ろして夜の街へと出かけた。
「おまんさが男と会うち思もてな」
「勝手にしろ」
あんたはスーパーに入って行き、野菜を選びだした。
野菜の次は魚、そして肉、最後に日配品。
少ない買い物を精算する。
「1280円になります」
計算機の前に立つおばちゃんが合計金額をあんたに告げる。
「おい、あいがおまんさん男け?」
あんたは無言のまま買った食品を袋に詰めると店を出て、更に歩く。
すると今度は駅前にたむろしている不良らが、親しげにあんたに声をかけた。
「おー、直弼姐さん」
「見ましたよ、こないだの広告のデザイン姐さんでしょ?」
「今度のパーティ、姐さんも来る?」
するとあんたは笑った。
「ごめんな、納期近いから」
「…おい、あいつらがおまんさん男け?」
あんたはまた歩き出し、レコード屋に入って試聴のヘッドフォンをつけた。
「あのよう、そいがおまんさん男ん声け?」
あんたはまた歩き、誰もいないのを確認するとくすりと笑った。
けっこう歩くのが速い、霊の俺でも息が上がってしまう。
「必死だな作物が。息あがってるぞ、デブだからか?
街のガキ共ならまだしも、なぜスーパーのおばちゃん店員や、
レコード屋のレコードの歌が私の男になる?」
「くそ…おいが事おちょくりよって!」
「独り言を言うおかしな女にはなりたくないね、お前はたぶん私にしか見えていない」
「あ…」
そうだよな、霊を見る事の出来る者は限られている。
でもむかつくわ、何この懐かしいむかつき。
そうか…井伊直美は井伊直政に似ているのだ、お固いやな口調なんかそっくりだ。
そらむかつきもするわ、俺大納得! うん! うん!
あんたと俺がいる道路の横に神社への入口を見つけた。
俺は境内に駆け込み、鈴をがんがらごりごり鳴らして手を合わせた。
祈ってやる、あんたと一族の不幸を。
「神頼みか、作物」
「ぎゃあ! お化け出たあ! 妖怪井伊直政じゃっど!」
「どんな妖怪だ、馬鹿馬鹿しい」
すると俺の隣であんたはお賽銭を入れて手を合わせた。
いやに大人しい、気になる。
「何祈っちょっ?」