第15話 受付の井伊直弼
第15話 受付の井伊直弼
退院の後、仕事も終わっていたのであんたは自宅で療養していたが、
どうも体調が優れず、ベッドでぐずぐずしてばかりいた。
元々散らかっていた部屋はいっそう散らかり、あの旨かった食事も作らなくなった。
出来合いの物ばかり食べており、ひどい時には買い物に行くのも億劫がった。
あんた、この2日間何も食べてないだろ。
物もつかめぬ幽霊の俺じゃもちろん、エクトプラズムを抜いて実体を得ても、
島津の家で何もかもを他人まかせにして来た、殿様育ちの俺には何も出来なかった。
何かをしようとしても、あんたの暮らしをただ荒廃させる一方だった。
新井のじいさんはあんたを心配して、ちょくちょく訪ねてくれた。
それだけがあんたの救いだった。
「…じいさん、そんなちょくちょく来てくれなくても」
「構わんよ、それよりも早く元気にならねば…島津豊久とか作物に笑われてしまうぞ」
「じじどん、ごめん…おいも何も出来んで」
笑うどころか、俺は自分のふがいなさに縮こまるばかりだった。
じいさんは寝ているあんたの横で、散らかった部屋を片付け始めた。
俺も何か手伝えないかと、あんたの左耳からエクトプラズムを抜いて実体化した。
「おいも手伝う、じじどん何でん言うてくいやんせ」
「ほう…実体化かね、」
「井伊直美んエクトプラズムば利用しっせえ、実体化出来っ。
じゃどん足枷があっと、あんま遠くにゃ行けんが…」
…流れて行った子のように。
じいさんは実体化して復元された俺の身体を、あちこちつまんだり触ったりした。
俺はくすぐったさにむひょむひょ言いながら頼んだ。
「おいひとりじゃ何もしきらん、どげんしたら良かね…教えてくいやんせ、じじどん」
俺はじいさんに教わりながら、部屋の片付けを始めた。
じいさんは弁当を作って来ており、片付けの後にそれを温めた。
「…じいさんありがとう、でもじいさんにここまでしてもらうのも申し訳なくて」
「それは血のつながりが無いからかね、そんな淋しい事を言わないでおくれや。
なあ直弼や、私たちは他人同士でも助け合うのはいけない事か」
じいさんは小皿に弁当の中身を少量取って、霊体に戻った俺にもお供えをしてくれた。
俺は霊だから食べなくても死にはしないが、久しぶりのまともな食事はやはり身にしみる。
「作物と一緒にうちに来ないかね、直弼」
「じいさん…」
「他人が困っているのを助ける事の何が悪い。
決めた、私は直弼と作物を引き取る…引き取って私が世話をする。
それが新井家当主の務め、新井の家の伝統だ」
俺はまだまだ散らかっている床の上に姿勢を正し、指をついた。
「…じじどん、おいからもよろしゅうたのんあげもす。
おいは何も出来きらん、不幸にも幸せにもしきらん、おいはほんなこつ情けんなか…!」
床に届く事のない涙の粒は、ぱらぱらとこぼれ落ちては次から次へと消えていく。
例え戦国のあの妻に子が出来て、それが流れてしまっても、
俺はきっと何も思わない、涙など流さない。
俺を傷つけるのも、悔しがらせるのも、涙を流させるのも、みんなあんただけだ。
呪いを誓ったあんたの前で、自分の力量不足を思い知った時だけ、
自分の敗北が見えた時だけ、俺は涙を流す、俺は泣く。
それから新井のじいさんが手続きから準備から、何から何までしてくれ、
俺もあんたのエクトプラズムを借りて手伝い、あんたは小さな家を引き払った。
そうして移った新井の家で、じいさんの手を借りてあんたは療養を続けた。
じいさんはかつて娘の看病もしたのだろう、病人の世話は案外手慣れていた。
あんたは次第に回復し、近くへなら散歩に出られるほどになった。
新井の家は桜田門のすぐ前で、敷地自体がまるで飛び地のようになっており、
役所らしき大きなビルに囲まれるようにしてぎっちり挟まれ、
通りからぴょこりと飛び出して、前を走る道路を、皇居の堀をそこだけ曲げていた。
たぶん新井の家は文化財か何かで、壊すに壊せないのだろう。
だから散歩と言っても、皇居の堀の周りを少し歩くのがせいぜいだった。
新井家も旧家ではあるが、特別金持ちではないようで、
じいさん本人も博物館を経営したり、他の博物館や美術館へ出張したり、
高齢になってまであくせくと働いている。
じいさんは甲冑や刀剣類などの古い美術品の修繕を得意としており、
本業である新井博物館よりも、年金とそちらの収入でどうにかしのいでいる様子だった。
「入場料1000円になります」
だんだんに起き上がっていられる時間の増えて来たあんたは、
新井博物館の受付を手伝うようになった。
博物館では新井花のイベントもそろそろ近づき、準備に追われていた。
「ぶっ。あの受付のおばさん、名前が『井伊直美』だってよ」
「惜しいよな、あと一文字違えば『井伊直政』だったのに」
新井博物館は歴史的にも重要であり、訪れる客もそこそこあったが、
あんたの「井伊直美」という名前は、来場客にもれなく笑われていた。
確かに俺も最初、井伊直政だと笑った。
「ただいま直弼、交代するよ…疲れただろう」
「じいさん」
そこへじいさんが帰ってくると、更なる爆笑を必ず呼んだ。
「『直弼』! あのおばさん『井伊直弼』かよ!」
「超笑えるんだけど! しかもこの博物館、桜田門の真ん前じゃん!
あのおばさん、ここで死んだら『桜田門外の変』だよ! まじうける!」
「…貴様ら」
「あっ、作物!」
俺はそれがどうにも我慢出来ず、つい飛び出してしまう。
「伊達政宗ば成敗すっため、まずは貴様らからじゃっど…呪うちゃる! 超呪怨!
おいは島津又七郎豊久、井伊直美が作物…!」
「…なんだ、この壁のしみ」
「むひょ」
「指で触ると変形するぞ! なにこれ超面白い! プロジェクションマッピング?」
「むひょ。むひょ」
そこへ受付の電話が鳴り、じいさんが出た。
なんだか嬉しそうな声だった。
「頼んでおいた印刷物が出来上がったから発送するそうな」
「じいさんまさか、あのイベントのか?」
「もちろん。さあ、勝負の時だよ直弼に作物や…かささぎデザイン事務所とのな」
じいさんと暮らすようになって、あんたの生活は変わった。
夜遊びをしなくなった、男遊びをしなくなった。
冊子以外にイベント関連の仕事がまだあったので、家で過ごす事が多かった。
じいさんと受付を交代したあんたは、部屋にふとんを敷いて横になった。
前の家で使っていたベッドは引っ越しの時に処分した。
ほどいた長い髪が枕の上に、畳の上にと流れて広がる。
不思議な女だ…孕んだ子供が流れたと言うのに、まるで何事もなかったようだ。
いつまでも引きずっているのは俺だけか。
「何をしんみりしている、作物」
「あいだけん事、おまんさはなして平気でおっ?」
「気にしているのはお前だけだ、作物…子供の父親はお前だろう」
「え…なして」
「意識はなくとも聴力は機能する、死の瞬間まで残り続けるように」
…あんた、知っていたのか!