第12話 シーブリーズ
第12話 シーブリーズ
ところが笠垣は偶然にも身体を動かし、オーブはそのまま空を切った。
そして笠垣の背後にある、展示物の入っているガラスケースに当たり、
ぱちゃんぱちゃんと破片を盛大に飛散させながら、何度も跳ねて消滅した。
尖った破片は来場客を切り付け、血が尾を引いて舞う。
「おいが敵に勝手に手出すでなか…」
俺は突然発生した怪奇現象に目を見開く笠垣を睨みつけた。
振り向くとあんたが頬から血を流しながら、悲鳴と混乱の中からじっと俺を見つめていた。
俺とあんたの間には敵同士が向かい合った時の、しんとした空気が流れた。
美しい、あんたはきっと傷つき不幸になるごとに美しくなる。
さすが俺の敵、そう来なくちゃ呪い甲斐がない。
「…帰るぞ作物」
「え…じゃどん、おいのせいでおまんさ顔が、おなごん顔に…」
「構わん、細かい傷などどうでも良い」
あんたは腕で流れる血をこすり上げた。
何それ、超かっこいいじゃん。一体どこのハードボイルドだよ、あんたは。
俺たちは混乱に乗じて会場を抜け、じいさんの家に戻った。
じいさんが薬箱を出して来て、あんたの傷を手当てする。
…ここはさすがに足じゃないのか。
「じいさんすまん、作物のアホが…」
「アホはお前さんだ、直弼。女の者が顔にこんな傷つけて平気とか…。
作物のした事はただの心霊現象、でもその傷はお前さんの注意不足だ。
おなごならまずは顔を守りなさい、お嫁に行けなくなるぞ」
「この歳でかよ」
俺があんたを嫁になど行かせぬ。
あんたは繁殖する事なく、独り身のまま淋しく死んで行くんだ。
一人きりの家で腐って床のしみになって、からからに乾いて土に還ればいい。
「しかし作物もなかなかやる、女を取られた嫉妬ならまだわからんでもないが、
敵を取られた嫉妬とは笑えるな…まこと男の嫉妬は見苦しいものよの」
じいさんは薬箱を片付けながら、けたけたと笑った。
「何はともあれ、かささぎデザイン事務所の仕事を見る事が出来た。
直弼に作物、今日倒し損ねた笠垣は仕事で潰して差し上げなさい」
「むきゅ」
「じいさん、私は別に笠垣など…」
「おいはやっど、笠垣オーバーキルじゃっど! むきき…」
家に帰って風呂で壁のしみをこするあんたは、お湯がしみて痛そうにしていた。
俺は壁の中でうなだれた。
「…ごめん」
「私に苦痛を与えたいのではなかったのか、作物」
「そうじゃけんど、そいはちいと違う…おまんさにゃ生き地獄ば歩んで欲しかと」
「それは楽しみだな、お前の思う生き地獄などどうせ大した物じゃない」
「わっぜ辛か生き地獄んしちゃる、傷より辛か地獄んすっ…」
あんたのタオルからすり抜け、俺は壁の外に出た。
手のひらサイズのしみは元の大きさを取り戻し、色付きの気体に戻った。
「どうした作物、亡霊でも女の裸が珍しいか?」
「うんにゃ、もう慣れた…おまんさこそ亡霊ん裸など珍しゅうはなかかね」
「くだらんな、どうでもいい事だ」
俺は手を伸ばして、親指の腹であんたの傷に触れた。
そしてそれを拭って消し去った。
「…面白い事をする」
「おいが願いんためならおいは何でんすっ、そいが協力や癒しであってん。
おまんさん一生はおいが呪う、邪魔はさせんでね…」
俺たちはまた仕事の日々へと戻って行き、あんたは井伊の赤鬼になって俺をいじめ、
俺はテキスト読み上げ用の音声でひいひい言わされた。
秋じゅうを新井のじいさんの許に通ってチェックを受け、それを何度も繰り返した。
実際の制作期間より、こう言った校正の時間の方が長い。
作品が出来上がってからが始まりと言っていいだろう。
展示物一覧の冊子の分だけようやく納品を済ませると、もう冬が始まっていた。
桜田門の家からの帰り道は、あちこちが赤と緑に飾り付けられてきらびやかだった。
これはクリスマスとやらキリシタンの祭りの飾り付けか。
家であんたがつけているテレビも、クリスマスの話題でもちきりだ。
先代に引き続き、あんたの代でも妙齢の男女はカップルで過ごすのが最良らしい。
「おまんさんクリスマスは独りじゃっどね、わっぜ淋しかあ…くくく、いい事じゃっど」
買い物に街へ出たあんたの後ろについて、俺はにやにやしながら冷やかす。
あんたはスマートフォンを通じて答えた。
“クリスマス、正月とじいさんとメシ食う予定だ。
正月は新井家の新年会に呼ばれている”
「じじどんとけ…そげん色気んなか事、つまらん。
もっとこう男といっちゃいっちゃすっとか、おいが呪いん出番ば…」
そういやあんたはどうして独りでも淋しくないのだろう。
クリスマスだって普通の女なら男と一緒に過ごして、皆と同じでありたいはずだ。
あんたは無数のカップルたちの睦み合いのど真ん中にあっても、少しも淋しがらない。
独りでいる事に何の焦りも不安も感じていないようだ。
あんたは不思議な女だよ…。
どうしたら俺はあんたに淋しい思いをさせられる?
クリスマスイブの夕方にあんたが、ケーキを手みやげに買って桜田門の家に行くと、
新井のじいさんが手打ちパスタと、他に何品かを作って待っていた。
イタリアンのおしゃれなクリスマス・ディナーかよ、案外料理の上手いじいさんだ。
確かじいさんも独り者と言っていたな…だいぶ長いのだろうか。
「じじどんも独りもんち…不毛じゃっどね、不毛」
「いやいや…むかーし、むかーし、若い頃に一度結婚したんだよ。
娘も生まれたけど、娘が死んだらうまくいかなくなって別れちゃった」
あんたはクリスマスプレゼントを、高く掲げられたじいさんの足の指に挟んで渡した。
黒の天然石の渋い羽織り紐か、敬老の日かよ。
俺には何もないのか、むかつくわ。
「そいは悪りか事聞いたな…まあじじどんはもう歳じゃ、仕方なか。
じゃどん井伊直美は別じゃっど! なしてこげん夜に男と過ごさん! おかしか!
なしてあがきもせん! 女子会で傷ん舐め合いもせん! わっぜおかしか!」
俺は散らかった居間の机に拳を叩き付けて、棚の上のクリスマスツリーを睨んだ。
純和風の武家屋敷のくせに、いっちょまえにクリスマスツリーなど飾りやがって。
あんたは買って来たケーキをホールごと手に、ワンツーワンツーとほおばっていた。
「理想が高いんじゃ…いやそれはないか、モテない…それもないな。
作物の時代とは違って、今は直弼みたいな男女も珍しくはないんだよ」
「くっそ、うらやましか…ぐぎぎ、おいもこん時代に生まれちょったら、
結婚なぞ黒歴史ば作らんでん良かちゅうとに!」
色付きの気体はあんたの前で、地団駄を踏んでいるぞ。
時代が違えば俺もきっと政略結婚など拒否した。
ずっと独りでいる事を選んだだろうか。
それとも婚活などして、理想のためにあがいていただろうか。
俺は需要がないらしいからだめかな。
心から愛せる女と出会い、結ばれて、島津の子ではなく自分の子供をもうける。
小さくてもいい、自分の人生を生きる。
俺は新しい人生を思い描きながら死んで行った。
あんたは死んでからが俺の人生と言うけれど、俺はその新しい人生に落胆するよ。
心から愛せる女はあんたに、愛の交わりは暴力に。
そこから何が生まれると言うのか。