しんだら世界は僕を忘れる
ポニーテイルに結い上げた髪が、風に遊ばれて冷たくなったそれが頬を撫でた。
何か聞こえるけれど、聴覚がまともに働いていないのか、聞こえない。
風の音だけが聞こえた。
あぁ、何だっけ、どうして此処にいるんだっけ。
ふわりと浮き上がる感覚と同時に、足元を見た。
コンクリートから離れた足には、ローファーも上履きもなく、真っ黒なタイツで包まれただけの素足。
視線を前に戻せば、見慣れた顔が二つとどうでもいい顔が一つ。
「――!!」
見慣れた顔の男の子がボクを呼んだ。
多分、いいや、間違いなくボクを呼んだ。
久々に呼ばれた名前は、音になって届かなかったはずなのに、胸の真ん中に収まった気がする。
「――ちゃん!!」
見慣れた顔の女の子もボクを呼んだ。
間違いなくボクを呼んだ。
そうして伸ばしてくれた手は掴めないし、例え掴めたとしてもボクは伸ばさない、掴まない。
着慣れたセーラー服のスカートが大きく揺れる。
一度だって短くしたことのないそれは、折り目が増えることなく買った時と変わらない。
肌寒くなってきたから、という理由で着ていたカーディガンのポケットから、封筒が一枚、飛び出した。
重さなんて無いに等しいその封筒は、風に攫われてしまって手を伸ばしても、指先を掠めただけ。
真っ白な封筒は、青と赤の混ざった空を目指している。
掴めなかった封筒から目を逸らすように、そっと目を閉じた。
――今度こそ。
***
同日朝七時半、学校に持って行く鞄を肩に引っ掛けながら、机の上に置かれた一枚の封筒を見た。
真っ白な封筒には特別宛名も住所も書かれていない。
それを引っ掴み、真っ黒なカーディガンのポケットに突っ込む。
「行ってきまぁす」
いつもと変わらない声を掛けて、いつもと変わらない時間に家を出て、いつもと変わらずに学校へ向かう。
学校は時々サボったり、早退したりもするけれど、今日はちゃんと行くから、とローファーに足を通す。
同じ学校に通っている幼馴染みとは全員同じクラスなので、どんなに嫌でも――決して嫌なんて思ったことは無いがものの例えである――必ず会うので、特に登校時間に会う会わないは気にしたことがない。
ローファーで補整された道路を叩き、同じ制服を身にまとった人達に紛れる。
カーディガンのポケットでは、じっと封筒が息を潜めてボクを見守っていた。
同日休憩時間午前十時過ぎ、次の授業の為に机の中から教科書を引っ張り出していると、机がバンッと音を立て、小さく揺れる。
机を覗いたままの体制から、視線だけを上げれば見慣れた顔があり、ボクは言葉を出さないまま口を開いて止まった。
「昨日のプリント」
「……はぁい。有難う」
男の子にしては長めの髪に、ボクから見て右目を前髪で隠せしている彼は幼馴染みのオミくんで、相変わらず難しい顔をしている。
むん、と効果音の付きそうな強ばった表情筋に、皺の寄せられた眉間。
学ランで覆われた腕は、真っ直ぐにボクの机に伸びており、その下にはプリントが一枚。
バンッという物音も、机が揺れたもの、オミくんがプリントごと手の平を叩き付けたからだろう。
体を起こして、プリントに手を伸ばせば、何故かプリントを受け取らせずに手を掴まれる。
「……なぁに」
「昨日のは何」
掴まれた手が、くるりと引っ繰り返され、カーディガンを捲られる。
日に当たらないので白いままの肌が、手首が晒されて、オミくんはマジマジとボクの手首を見つめた。
傷一つない手首は白く、青緑の血管が薄く見える。
逆の手も同じように見て、はぁ、と息を吐いたオミくんに、ボクは口元を引き上げた。
「昨日は何も出来なかったなぁ」なんて他人事のように言ってみたのに、意外なものを見るみたいに目を丸くされる。
実際の所昨日は学校をサボった後には、公園でお喋りをしていたくらいだ。
何も特別なことはなかった。
首吊りもしなかったし、水の中に頭ごと突っ込むこともなかったし、部屋の窓から飛び降りようと足を掛けることもなかったし、刃物でその手首やらを切り裂くこともなかったのだ。
実に平和な日でしたよ、なんて巫山戯た口調で言ってみれば、見開かれていた目が細く尖る。
片目しか見えないけれど、逆の目もきっと同じように細められているのだろう。
細められた目は、それでもしっかりとボクに向けられており、じっとりと睨む。
小首を傾げて視線に答えてみれば、高めの音の舌打ちが響き、手が離される。
ボクよりも高かった体温が離れて、掴まれていた場所がひんやりとした空気に包まれるのを感じた。
身を翻したオミくんに肩を竦めながらも、視線は置いてきぼりなプリントへ。
黒のインクで印字された文字の他に、テスト範囲などが几帳面な文字で記されているそれは、確実にオミくんが書いたものだろう。
分かりにくい優しさだよなぁ、なんて思っても口に出さないのは、本人の機嫌を損ね、あんな風に舌打ちされる回数を減らすためだということを、ボク以外の誰が知っているかな。
同日お昼休み十二時半過ぎ、お昼ご飯を食べ終わり、のろのろと歩いて図書室へ向かっている最中に、後方から足音が聞こえて来て、カーディガンの裾を思い切り引っ張られた。
絶対に伸びるという勢いで、グンッ、と後ろかつ少し下に引っ張られたせいで、バランスが崩れて膝が折れ曲がる。
まるで膝カックンされたみたいだ。
声こそ上げなかったものの、驚きで目は大きく開いてしまい、瞬きの回数も増えた。
睫毛を揺らしながら、首だけを背後に向ければ、真赤な髪の毛が見えて、次にその髪の持ち主の顔が見える。
目は大きいけれど少し垂れ気味で、眉も垂れ気味で、可愛いけれど今は困った顔をしていた。
「MIOちゃん?」
見慣れた顔の幼馴染みを呼べば、ピクリとカーディガンを掴む腕が反応した。
真っ赤な髪とは違う焦げ茶の瞳に、ボクの姿が映り込んでいる。
健康的な肌色はほんのりと赤く色付いていた。
「何かね、作ちゃんから知らない匂いがする」
「え、獣っぽいよ?MIOちゃん」
「人間だよ」
うん、知ってる、なんて頷きながらも巫山戯た答えに怒らないのはMIOちゃんだから。
これがオミくんや文ちゃんなら違うのだ。
ちゃんと骨が通っているのか心配になるくらい細い鼻筋を見やれば、すんすんと兎みたいに鼻を上下させるMIOちゃんは、ボクの制服に鼻を寄せる。
するとMIOちゃんは、顔を顰めて離れていく。
いつの間にかカーディガンから手は離しているものの、逃げないようにということか腕を掴まれている。
やんわりとした力で掴んでいるのを見ながら、何の匂いだった?と問い掛けてみた。
「煙い。煙草。臭い」珍しく眉を寄せ、唇を尖らせたMIOちゃんが不満そうに口にする。
あー、短く唸りながら、原因を直ぐに掴む。
昨日はお兄さんと会っていて、その間にあの人は四本も煙草を吸っていた。
至近距離で煙草を吸われていたら、そりゃあ移るだろう、ボクも昨日気付いたのだから。
別にボクが吸っていたわけじゃないので、特別問題があるとも思っていないが。
「帰って覚えてたらファブるね」
「石鹸の匂いが良いよ」
作ちゃんに似合う、なんて声に、目を細めれば、MIOちゃんはやっといつもの可愛い笑顔を見せてくれた。
その顔が一番似合うよ、声に出すことなく、真赤な髪の毛に指を通して、一緒に図書室へと向かう。
深く吸い込んだ空気に混ざって、MIOちゃんの言った通り煙草の匂いがした。
同日放課後午後三時、よいせ、とドアノブを握り、ほんの少し上に上げて押し開ける。
鍵の壊れた扉は、いつになったら整備するのか。
個人的な感想としては、別に整備してくれなくても問題は無いが、学校としての管理が杜撰なのは如何なものなのか。
扉を開けた先には拓けた場所。
ひんやりとした冷たい風が頬を撫でていく。
コンクリートを踏み締めて、その場所、屋上に出れば、新鮮な空気が肺に流れ込む。
プリーツスカートが揺れるのを感じながら、ゆったりと柵のない屋上のギリギリのラインを目指す。
屋上に出入り出来る学校なんて早々なくて、尚且つそういうことが可能な屋上というのは、高めのフェンスが備え付けられている。
フェンスどころか柵もないこんな学校の屋上じゃ、出入りなんて不可能だろう。
鍵及びにドアノブが壊れていなければ、の話だが。
「今日こそ、死にたいよねぇ」
うはっ、と態とらしい笑いを漏らしながら、ギリギリのラインに立ってみた。
風が強くなったような気がする。
ちょっとバランスを崩したら落ちるなぁ、なんて軽く考えてしまうのは死にたがりの性分か。
いそいそと履いていた上履きを脱ぎ、丁寧に揃える。
すぅ、はぁ、ふぅ、吸った息の量と吐き出す息の量が合っていなくて、腹筋がほんの少し痛い。
緊張はしていないけれど、ワクワクしている。
プレゼントを開ける子供みたいな、そんな高揚感。
踏み出そうとした時、扉の開かれる音とボクを呼ぶ声が三つ。
作ちゃん、作、作間、呼び方はそれぞれ。
MIOちゃんとオミくんと担任の三人。
今日も今日とて邪魔が入るらしいが、文ちゃんの姿はなかった。
「……大丈夫。今度は失敗しないように頑張るよ」
失敗は痛い。
いつも軽傷で済むけれど、痛いものは痛くて、死ねないのに痛いなんて可笑しいと思う。
痛みは生きている証、死にたい人間にはただの苦痛。
痛みだけを与えられて死ねないなんて、なんて酷なことでしょうか、そう言って笑いたい。
三人を見たまま一歩、後ずさる。
何か言っているけれど、聞く気がないせいか上手く耳に入ってくることはなく、代わりに昨日のお兄さんの声が聞こえた気がした。
また、なんて約束。
生きてたらと言ったし、今日も死ねなくて軽傷なら会えるだろう。
「おチビちゃんは神様に愛された魂と一緒にいるんだよ」
「おチビちゃんは、愛されてるから死ねないよ」
「俺は好きだよ、おチビちゃんのこと」
「昔、神様に愛された子供の本を読んだんだよ。おチビちゃんは、その子供に良く似てる」
垂れ流しとも言える勢いで聞こえた声に、タイツで包まれた足のまま、コンクリートを蹴り上げた。
後方に飛ぶ、飛ぶ、落ちる。
同じように飛んだ封筒は、どうか、どうか、あの人に届きますように。