いきをするのは億劫で退屈
文字を書くのは好きだけれど、それに必要な漢字を書くのはなかなかどうして苦手だったりする。
目の前に置かれた百円ショップで買った便箋は、未だ真っ白なまま。
更に横に積み上げられた辞書が数冊、動かないボクを睨んでいる気がする。
どうしたものかな、と持っているボールペンを見下ろせば、ノックもなしに部屋の扉の開く音がした。
指先から滑り落ちたボールペンは、太腿を掠ってコロコロと転がる。
「ママ、今日は随分早いね」と首だけで振り返りながら声を掛けたが、そこにいたのは予想とは全く違う人物だった。
「アンタねぇ……」
「あはは。いらっしゃい」
回転椅子の背もたれに体を預けたまま、足で床を蹴り上げて背後だった方に椅子を向ける。
ボクと同じくらいの癖毛に、黒縁眼鏡で、見慣れ過ぎて最早見飽きてしまった中学校の制服。
深い溜息を吐きながら、眉辺りの筋肉を引き攣らせる幼馴染みに、緩く笑ってみた。
三人いる幼馴染みの中でも、一番隣にいる時間の長い幼馴染みは、ズカズカと部屋に踏み入って来て、整った顔をボクに近付ける。
ほのかに香ったのは多分、制汗剤。
「これ以上サボったら進学、危ないわよ」
「うん、そうだねぇ」
目鼻立ちのしっかりした、可愛いよりも綺麗な顔。
不機嫌そうに歪められていても、形の整った眉は相変わらずだし、薄く開いた唇はヒビ割れ一つなくて、白い歯と真っ赤な舌が見え隠れしている。
キメ細かい肌にはニキビなんて見当たらないから、正直眩しいかも知れない。
緩く笑ったままのボクに、吐き出そうとしていたはずの言葉は空気中に溶けていく。
そうして眼鏡の奥の瞳を、ボクを通り越して机に向け、便箋と辞書に眉を寄せた。
眉間に刻み込まれた皺はなかなか深い。
「私には理解出来ないわ」
先程と変わらない声色で告げられて、ボクは軽く肩を竦めた。
回転椅子の金具がギィと音を立てるのを聞きながら、便箋を手に取り、真っ白なそれを撫でる。
紙特有の質感で、しっとりと手に染み込む。
「大丈夫だよ。理解してくれなくても、ずっと傍にいてくれた。いてくれる。それで良いから」
「……そういう問題なのかしらね」
はぁ、と嫌に大きく聞こえた溜息に、ボクは目を細めて見せた。
多分、きっと、恐らく、幼馴染みはボクが便箋に綴ろうとしていた内容を理解している。
それを理解しながらも、何故それを綴るのかを理解出来ないのだ。
ボクは生粋の死にたがりで、何度も何度も死を考え実行して、こうして今の今まで生きている。
つまり自殺未遂しか出来ていないのだ。
残念、と言えば、幼馴染みは揃って顔を歪めるのだが、繰り返し過ぎて見慣れてしまった。
そうしてそんなことを繰り返すボクに、飽きもせずに構ってくる幼馴染み達は、ボクが変わらず自殺をし続ける度に、同じく変わらずにそれを止めようとする。
それを邪魔だと跳ね除けたことはないが、微妙な気分になるのは言わずもがな。
「……それにしても、文ちゃんは、何で、どうして、って疑問をぶつけないね」
結局一枚も使うことのなかった便箋を、引き出しの中に仕舞い込み、落としたボールペンを拾う。
一連の動作を見ながら、幼馴染みこと文ちゃんは、あぁ、と気のないような声を出す。
ほぼ吐息だった気もするが、そうね、と続いた言葉に口を噤む。
癖の強い横髪を耳に掛けながらも、文ちゃんの視線はボクに向けられており、真っ直ぐにボクを見据えた。
目を逸らすことは許されないような空気に、ほんの少しだけ息が詰まる。
「疑問をぶつけたら、その行為を止めるの?違うでしょう?原因解決出来るものなの?それなら、聞くわ。解決するわ」
「随分合理的な考えで」
「衝動的に自殺を繰り返す人間よりはね」
「手厳しいお言葉で」
幼馴染みの中でも文ちゃんは一番合理的な考えを持っていることは、昔から知っていたが、それが自分自身へ向けられるとなると何とも言えない。
薄く笑って両手を上げれば、ふぅ、と溜息。
多分この数十分で文ちゃんの幸せは、どんどんなくなっていることだろう――ボクのせいで。
「で?聞いて欲しいの?」
「うん。まぁ、二人には話してあるからね」
どっちでも良いけど、なんて他の幼馴染みに話したことを加えながらも、濁してみれば、文ちゃんは思いの外アッサリとボクのベッドへ腰を下ろし、話を聞く体制になった。
意外も意外、先程の台詞から断られるかとも思ったが、他の二人が聞いてるなら、ということだろうか。
特別話さなくても、既に分かっていそうだが。
何で死にたいんだよ、と聞いたのは男の幼馴染み。
どうして死にたいの、と聞いたのは赤い髪の幼馴染み。
聞き方に多少の差はあっても、内容は同じ。
だからこそ、ボクも同じ内容で答えを返した。
ボクは死にたいのだ。
ただただ、何よりも先行してしまう思いと考えはそれのみで、その思いと考えは体を包み行動に移す。
うん、まぁ、そうなると当然何でそう思い考えたのか、と質問が飛び込むのだけれど。
単純に、不安だ。
明日はどうなる、明後日は、一週間後、一ヶ月後、一年後、十年後。
人間とは兎にも角にも、先へ先へと思考を走らせてしまうものなのだ。
漠然とした不安こそが、ボクを死へと駆り立てるのだ――なんて、言ってみるけれど。
「実際、取り敢えず幸せだから死のう、ってうのもある」
「瞬間を切り取るってこと?写真みたいね」
「そうだね。この前買ったレフカメラも、なかなか素敵に切り取ってくれるよ」
ボクのベッドの上で、ゆるりと足を組んで座っていた文ちゃんが、呆れ顔で額に手を当てた。
うん、その反応を見たのは三回目。
つまり幼馴染み達は多少の誤差はあるものの、ほぼ同じ反応をしてくれたのだ。
そのことが、何となく嬉しくて笑い声が漏れる。
笑い声に反応して視線を向けた文ちゃんは、眼鏡の奥で目を細めていた。
じっとりとした視線を感じながらも、笑い声は止まることなく、それに混ぜて「理由なんて所詮後付けだよ」と言う。
本能のままに、理性で理由を添える。
その行動を正当化しようとしてるみたい、なんて鼻で笑ってみたが、予想外にも「そうかもしれないわね」と返ってきて目が丸くなった。
パチリと合った視線の中で、文ちゃんは今日、初めて笑う。
「まるで桜ね」
桜は理由になってないから、なんてほんのりと本から得た知識が浮き上がり、弾けて消えた。
そうかもしれないね、同じように返して笑ったけれど、やっぱり死にたいよ。