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お伽世界の魔女

瓦解

作者: しもり

#深夜の真剣文字書き60分一本勝負(フリーワンライ)提出作品の加筆修正作品。使用お題は「痕」「忠誠心」「むかしのやくそく」

 一国の王となる人間に仕えるために生まれてきた。――これまでの人生を振り返って思うのはそれだった。

 様々な教育を施され、王太子妃になるのに恥ずかしくない教養を身につけた。教師たちの褒めそやす声を無視しても、己でそう自信を持つことができるだけの振る舞いと知識が彼女にはあった。勿論、まだまだ優雅な貴婦人たちに適うほどに、とは言い難いが、それは成長が後に追いついてくれるだろう。

 十六歳になったら王太子妃として国の隅から隅まで報じられ、その年の内に婚礼を行う。一年後に迫ったそれに、早くも彼女の周辺は忙しい準備に追われていた。

 婚礼衣装やその飾り、最高の衣装のための布や糸の準備。王子と逢う時間も滅多と取れない程の忙しさだった、まだ一年も先のことだというのに。それでも疲れきって結婚を嫌がるということはなく、彼女アリーセはその日を今か今かと待ちわびていた。

 彼女は王太子妃という位に焦がれているわけではない。その位に伴う責任はむしろ、とても重いものだと理解し、生半可な気持ちで就ける位ではないと認識しているほど。

 だがそれも含め、アリーセと王子エーリヒの間に交わされた幼い日の約束が、厳しい教育や婚礼の準備を過ごす支えとなり、一日一日が過ぎていったのだ。

 約束なんてものは、声に出しただけの――幼い子供の他愛のない約束だった。小さな子供の寂しがる子を慰めるような、宥めるような「ずっと一緒にいますわ」というささやかな約束。

 薔薇色の頬を持つ少女の言葉はだが、幼いながらにとても真摯な言葉だった。誠実な眼差しが一つ下の少年をジッと見つめていた。

 そのとてつもない真剣さを、同じく幼い王子も感じていたのだろう。二人の仲はずっと小さな頃から変わらずに親しく、お互いを好き合っていたために、理想的な関係が二人の間に横たわっていた。大人たちも確信する強い結びつきだ。

 だからか、王子はアリーセの言葉を受け入れ、ずっと支えてほしいと将来を決定するような約束を交わした。大人たちもこれを認めた。

 むかしむかしの約束は、このまま違われることがないのだと信じられていた。誰も微塵にも疑おうとしなかった。アリーセの深い忠誠心にも似た愛情が変化するはずもないと、エーリヒも信じ切っていたのだ。

 やって来たその日は、強い衝撃と絶望を伴って訪れた。



 代々第一王子の政務室として与えられる部屋は、大きな窓から色ガラス越しに柔らかな日差しが注ぐ。

 王家の紋章が織られたタペストリーと、エーリヒ個人を示す紋章のタペストリーが壁の一面を飾る。

 今年になって変えたばかりの真新しい絨毯は新緑色をし、どっしりとした木目の濃い執務机と相まって、室内にはかなり落ち着いた雰囲気で普段は満たされていた。しかし今はその空気も消え失せ、部屋の主は常にない表情を覗かせる。放たれた声はかなりの不安に揺れていた。

「アリーセが館から出ない?」

 その報告に顔を上げたエーリヒは困惑の色を浮かべて、報告を持ってきた兵士を見返した。王族の身近に侍ることを許された上級兵士は、意匠細やかな装具を身につけ、腰にはサーベルを差して真っ直ぐと立つ。

 上背があり、立派な髭を蓄えた中年の男は、下の兵士から上がってきた報告を耳に入れ、エーリヒと同じような困惑を内心に抱いていた。

 アリーセは公爵家令嬢の名に相応しい娘だが、外に出るのを厭う娘ではなく、どちらかといえば活動的だ。そんな娘が、庭の散歩すらしなくなった――晴れの日の彼女の日課であったのに。

 ここのところ王都は連日の晴天。アリーセが散歩を欠かすとは、通常では考えられないことだった。

「はい。どうやらここ二日ほど、部屋からも一歩たりとも出ておらず、面会等も断っているそうです。公爵夫妻に見舞いを出す者もいるそうですが、大病ではないとばかりで面会を断られているとのことでした」

 厳めしい兵士の紺色の瞳が王子に注ぐ。

 これを見つめ返す王子はまだ、少しばかりの幼さを残す顔を上げ、高いところにある顔を見返した。

「殿下になんらかの手紙が届いては……」

「ない。アリーセがいったい……。俺の方からも見舞いの手紙を出しておこう。わざわざ知らせてくれて助かる」

「はっ」

 サーベルの柄を握り、胸に右手を当てた敬礼をし、兵士は部屋を出ていく。きびきびとした動作だったが、喧しさは感じさせず、静かなものだった。

 それを見送ってからエーリヒは机の上に並ぶ羊皮紙を黙り込んで睨みつけた。

 エーリヒ王子は明るい金髪の持ち主だった。色素が薄いため、光の加減によっては白っぽく見える髪は母親譲りのものである。肌の色は少し濃いが、日焼けをしにくいことが自慢で、ハンティングや遠乗りが子供時代の最大の楽しみだった。否、最大の楽しみはアリーセと過ごす時間であった。その次に楽しいことがそれらである。

 緑が濃い双眸に疑問を湛えて、エーリヒは来年には妻となるアリーセの姿を思い浮かべる。

 直近で会話を交わしたのは二ヶ月近く前のことになるか。

 性根健やかで快活な娘アリーセ。柔らかなブラウンの髪を宝石で飾った、今にも少女を抜けだそうとする娘。日々、彼女は大人の女性に近づいていっているように思われ、二ヶ月前もエーリヒはじりじりと胸を焼かれるような焦りを抱いたのは記憶に新しい。

 健やかな美しさをこれまではアリーセに感じていたが、近頃――婚礼が近づいてくると、少しずつ大人の女性が持つ艶やかさを彼女が纏い始めているように見え、新たな美しさに気づいてしまう。

 それは色気と言ってもいいだろう。

 子供のときとは異なる微笑み方。エーリヒの手に振れる繊手の熱。

 心を慰め、支え、助けてくれる言葉の強さ。

 己が成長するように、会わない間に彼女もぐんぐんと成長しているのを感じずにはおれない。

 夏の晴天の中で大きく育つ白雲のように彼女の成長は留まるところを知らないようだった。

 それでもアリーセは将来の王太子妃という立場にはまだ足りない、まだ足りないと努力を忘れない。婚礼と同時に立太子されるエーリヒを支えるのに、どれだけ努力をしてもし足りないと言うのだ。

 ここのところはそうした教育や勉強に加えての婚礼の準備。大病ではないということは、疲れが身体に出てしまったのかもしれない。いくら健康な彼女であっても、これだけ予定が詰められているのだから無理もない。まして志の高いアリーセのことだ、知らずに無茶をしてしまったのかも。

 そうと思えば自然、エーリヒの若々しい手は動いていた。新しい羊皮紙を取り出してインクに浸したペンを手に取るエーリヒは愛しいアリーセへの手紙を認めていく。

 見舞いの言葉を並べ、健やかな婚礼の日を迎えるために、必要であれば長い休養を取ることを忘れないようにという手紙だった。しかし、婚礼の日が待ち遠しいことも書き記す。エーリヒは早く成人し、アリーセと並ぶ日が一日でも早く訪れればいいのにと、願わずにはいられなかったのだ。時間が早回しされることもないとわかりつつ……。

 手紙はその日の内にアリーセが暮らす公爵家へと送られた。

 しかし、何日過ぎても返書が届くことはなかった。


 アリーセが病に伏して暫く。既に二十日が過ぎていた。

 さすがにこれはおかしいと貴族たちも思い始め、様々な噂が飛び交った。

 アリーセ嬢が道ならぬ恋をしただとか――聞いた瞬間にその貴族の首を刎ねてやろうかと思った――、実は大病に罹ってしまっただとか――ずっと抱いていた不安が大きく煽られて仕事に手がつかなかった――、館の中で粗相があり、人前に出られない状態になってしまっただとか――すぐにでも公爵家を訪ねようかと行動に移しかけた――、実は婚礼を嫌がっているのではないか――気持ちがかなり落ち込み、数時間落ち込んでいた――と、様々な噂が好き勝手に駆け回り、飛び交う。

 灯りを落とした部屋の中、暫しベッドの中でアリーセのことを考えながら眠りに就くというのがここ数日のエーリヒの日課だった。

 ベッドで眠るときも近頃は悪夢を見てしまい不安になる。アリーセの身になにかあったのではないか。あったとしたらそれはどんなものかと、様々な可能性が次々と夢の中でも浮かんでは消え、泡沫のように繰り返す。

 不安に辛く苦しい気持ちを抱えるエーリヒの頭を、そっと撫でる手が現れた。

 優しく、穏やかなペースで髪を掻き分けながらのその動きは、

 ――アリーセのものだ。

 確信にエーリヒは懐かしさを感じて泣きそうになった。

 どうやら久々に穏やかな夢のようだが、それがかえって辛い。

「アリーセ……」

 呼びかけると、か細い声が「はい」と応える。

 愛しい娘の声が堪らなく懐かしくなって、せめて夢の中の彼女をと腕を伸ばして抱き締めた。

 細く軽い身体はあっけなくエーリヒの腕の中に収まる。夢だからなのだろう。現実でもアリーセは拒むことはないが、彼女と面会することもままならない現状では、到底簡単にできることではない。

 すぅっと鼻の奥にまでアリーセの体臭と混ざった香水の匂いが届く。甘やかで、それでいてほんのりとスパイシーな香りは彼女の女性的な部分を強めるようで、初めてその匂いに気づいたときは酷くドキリとした。

 匂いを吸い込んでしまえば、もう逢いたいという気持ちを止められなくなってしまった。腕の中の幻に愛を込める。

 抱き締め、柔らかな唇を水か空気のように求める。

「アリーセ、アリーセ、アリーセ!」

 気が狂ってしまいそうだった。

 彼女の身になにが起きたのかわからないこの現状に。

 水の中を泳ぐ魚をのようにエーリヒは掻き抱くアリーセの身体を求め、泳ぎ回った。呼吸をするのに彼女が必要だと告げる代わりに。そしてそれはとてつもなく雄弁な訴えだった。

「エーリヒさま……」

 控え目なアリーセの声がエーリヒの頭の上から降ってくる。何度も、何度だって呼ぶ声は優しい雨のように寝台の上を濡らした。

 幻のアリーセはどんなことも受け入れた。大らかな母のように、エーリヒの切ないまでの求愛を受け止め、応え続けた。

 それどころか「もっと、もっと激しく」とエーリヒを煽りすらした。

 煽るアリーセの声など聞いたこともない。だからこそ夢であると確信を強めるには十分だった。

「どうか、痕を……消えることのない、しるしをください」

 そう言って夢のアリーセは短剣の柄をエーリヒに握らせた。

 夜の交わりの証。たったそれだけでは物足りない。夢をとおし、それが現実のアリーセの身体にも刻まれてしまえばいい。エーリヒは確かにそんな感情を抱いた。

 本来であれば婚礼の前に交わることもないため、夢のアリーセの白く柔らか肉体がエーリヒの妄想の産物であるのはわかりきっていたが、それでも彼女の身体に傷をつけるという行為は酷く背信的なものに思われた。

 ぷっくりと、皮膚の上に赤い塊が浮かび、じわじわと美しい線を走らせていく。痛みを堪える吐息が熱を含み、シーツの上を滑って、寝台の下へと落ちる。

 啜り泣くアリーセの声が響く、不思議な夢だった。繋がる身体はこんなにも確かなのに、心だけが遠ざかってしまったように空虚な夢。その虚しさにエーリヒも釣られるようにして涙を流した。

 頬を濡らす、とても冷たい涙を拭ったのは……。


 哀切を含んだ夢を見たのはその一度きりだった。それから三晩、眠るもアリーセが夢の中に現れることはなく、四日目になってとうとう公爵家から正式な使いが現れ、アリーセの死を告げた。

 使者の言葉はエーリヒにとって世界が瓦解する音そのものとして響いた。

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