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96章  闇の淵

「まったく、ご苦労なことだ」

 西の彼方、砂の海を黒く染め上げるような人の影。高台から目にしたその光景に、思わず口許には自虐的な笑みが浮かぶ。

「カムイ王も今回ばかりは足がすくみますか?」

 予期せぬ声を背後からかけられ、カムイは目を丸くして振り返った。

 振り返った先には、ただでさえ垂れ気味の細い目をさらに垂らし、鷲鼻を指先で掻いている男の姿――

「ミューラーか。驚かせるな」

 カムイは軽く右手を上げると再び前方へ視線を戻し、その横にミューラーが立ち並んだ。

「凄い数ですねえ。今回は討って出ても一呑みにされるでしょうね」

 ミューラーが他人事のように言うと、カムイが笑い声を上げる。

「ずいぶんはっきりと言ってくれるな」

「部下が相手なら気休め程度のことは言いますが、自分よりも立場が上の人間にそんなことを言っても仕方がないですからね。逆にこっちが気休めの言葉を聞きたいくらいです」

 両腕を軽く開いて肩をすくめるミューラーに、カムイは笑みを浮かべたままかぶりを振った。

「さっき、今回ばかりは足がすくむか、と訊かれたが、それは違う」

「さすがは一国の王です。それを聞いて気休めにはなりました」

 ミューラーが首を上下に揺らすと、カムイが声を噛み殺して笑う。

「勝手に良い方に受け取るなよ。――実はな、前回も足がすくんでたんだ」

 カムイが正面を見据えたままでさらりと言うと、ミューラーは細い目をわずかに開いてその横顔に目を向けた。

 つかの間の沈黙の後、二人が同時に笑い声を上げた。

「カムイ王、貴方は指導者としては失格ですねえ。兵士の戦意を削ぐようなことを言ってはいけない」

「おまえはこの国の兵士じゃないからな、弱音も吐き放題さ」

 心和む談笑。しかし、それもすぐに終わり、二人は神妙な面持ちで再び地平線を見据えた。

「ミューラー、討って出ることはしないぞ。おまえの言うとおり、一呑みにされて無駄に兵の命を散らすだけだろうからな。――篭城ろうじょうする。どう思う?」

 チラリと視線を向けるカムイに、ミューラーは小さく頷いて返した。

「ここまで数の差があるなら篭城が最も現実的でしょう。しかし、何のアテもなければ遅かれ早かれ陥落します」

「なあに、とりあえず民を逃がす時間が稼げれば良いさ」

「民を逃がす時間、ですか……」

 再び二人の間に思い沈黙が流れる。互いが次の言葉を探っていた。

「ところで、さっきも言ったようにおまえはこの国の兵士じゃないんだ。逃げた方が良いんじゃないのか? この城は沈み行く泥舟だぞ」

 カムイが意識的に陽気に言うと、ミューラーは照れ隠しのような笑みを浮かべて鼻先を掻いた。

「乗りかかった船ですしね。それに――」

「それに?」

 カムイが訊くと、穏やかだったミューラーの表情にわずかなかげりが浮かぶ。

「これは私の戦いでもあるんですよ。逃げても逃げ切れるものじゃない」

 そう言って再び笑みを浮かべたミューラーに、カムイは何も言わずに頷いた。

 ミューラーが、商人の国モントリーブで私兵団の団長だったことは聞いている。

 しかし、それ以前の生い立ちは知らないし、訊くつもりもカムイにはなかった。

「そんなことより、脚の具合はどうですか?」

 ミューラーがカムイの左脚に視線を落とすと、カムイは軽く足踏みをして見せる。

「大丈夫だ。――それで? 俺の脚を射抜いた張本人の様子はどうだ?」

 カムイの問いにミューラーは静かに首を振った。

「彼は戦場には向いてはいない」

「そうか……いや、そうだろうな。あいつには重い業を背負わせてしまったな」

 西の彼方、歪んで見える地平線を見据えたまま、カムイは沈痛な面持ちで呟いた。

 

 

 

 薄暗い部屋の中、扉を叩く音で我に返り顔を上げた。

 ベッドに腰掛けた身体は重く、声を出すことさえ億劫に感じるが、乾いた唇を一度湿らせて返事をする。

 返事を待った扉が静かに開かれ、その先に知りなれた気配を感じた。

「オツランですか?」

 来客の名を呼び笑顔を向けるが、どこかぎこちない笑顔になってしまう。

「どうしました、何か御用ですか?」

「いや、カムイ王からアシムさんの様子を見てくるように言われて。――具合はどうです?」

 オツランが心配げに覗き込むと、アシムは微笑を浮かべて首を左右に振った。

「心配いりません。森の生活しか知らぬので、この地の陽の強さが少し堪えたんです」

「そうですか、それなら良いのですが」

 ここ数日アシムの様子がおかしい――それを最初に言い出したのはミューラーだ。

 ぼんやりとすることが多く、呼びかけに応じないことが多々あった。

 始めはあまり気にしなかったカムイも、二日も過ぎた頃にはアシムの変化に眉をひそめた。

 どこか覇気がなく、日に日にやつれていくのだ。

「これを」

 言いながらオツランが一包みの薬を差し出し、アシムはそれを手に取って小首を傾げた。

「これは?」

「姉上が調合した薬です。それを、アシムさんに飲ませるように、と。なんでも気分が優れないとかで、食事もろくに取っていないそうですね」

 オツランが微笑んで見せるとアシムは手にした薬を大事そうに胸に抱き、深々と頭を下げた。

「それでは僕は行きます」

「篭城と小耳に挟みましたが、街の皆さんは?」

「今から会議を開き、その後で城に移動させます」

 オツランが答えると、アシムは小さく頷いた。

「何か私に手伝うことがあれば――」

 腰を上げようとしたアシムの肩に、オツランの手がそっと置かれる。

「今はゆっくり休んでください。まだ時間はありますから」

 オツランはもう一度しっかり休むように念を押し、そっと部屋から出ていった。

 アシムが閉じられた扉に向かい、再び感謝を込めて頭を下げたその時――

「っ!」

 扉の開閉で室内に漂ってきた香り。夜食に向けてだろうか、肉を焼くような微かな匂いが鼻をついた。

 戦場で嗅いだ、血と肉の焼ける臭いが甦る――次の瞬間、吐き気と共に血の気が引くような眩みを感じ、アシムは身を屈めて口許を抑えた。

 耳の近くで聞こえ始める囁くような細い声。得も言われぬ気配を周囲に感じ、アシムは脂汗を額に浮かべた。

 囁くような声は次第に大きくなり、はっきりと絶叫と分かる声に変わる。

 苦しみもがく悲痛な叫び。その声は呼応するかのように数を増やしていき、アシムの耳を激しく責め立てた。

 オツランから受け取った薬が手許から滑り落ち、アシムは苦しげに両耳を手で抑える。

 しかし、反響する悲痛な叫びはそんなことなどお構いなしに、アシムの頭の中で無遠慮に響き渡る。

「うう……」

 消えることのない叫び声、周囲に感じる暗くよどんだ気配。光の射すことのない己の世界に、生まれて初めて感じる恐怖。

 アシムは両耳を必死で抑え、消え入りそうな呻き声と共に細身の身体を小刻みに震わせた。

 

 

 

 オツランは部屋を出ると深い吐息を漏らした。

 自分が思っていたよりも、アシムの具合が悪そうだったことに胸が締め付けられる。

 オツランはその足で王の書斎へと向かい、そこでアシムの様子を報告した。

 書斎でオツランを待っていたのは四人と一匹――カムイ、王妃、リーゼ、ミューラー、そしてユピだ。

 書斎に入るとリーゼの膝の上に乗っていたユピが走り寄って来て、オツランを見上げながら哀しげな鳴き声を上げる。

 オツランは、主人の身を案じている小さな友人を抱き上げ、その頭を優しくそっと撫でた。

「オツラン、どうでした?」

 王妃が心配げに口を開くと、オツランは顔を伏せて首を左右に振った。

「良くなさそうです。ひどくやつれていました」

 オツランの応えに、ミューラーが腕を組んで悩ましげに唸る。

「初陣後にはよくあることですが……」

 ミューラーが誰に言うでもなく呟くと、カムイが深くタメ息をつく。

「経験に伴わない功績を上げちまったからな。――あいつは繊細すぎる」

「アシムさんと王が、同じ場所で育ったとはとても思えないですわねえ」

 のんびりとした口調で王妃が言うと、カムイは横目で睨んで口を曲げた。

「俺たちの育った森にジュカって婆さんがいてな、またその婆さんが、耳にたこが出来るほどに命の尊さってやつを説きやがるんだよ。あいつはその婆さんに直接育てられたからな」

 そう言ってジュカを思い出したのか、カムイは懐かしげに苦笑を漏らした。

「何にしても戦力としては計算出来ませんねえ。彼の弓の腕は策の幅を広げるのですが……」

 顎に手を当て悩み込むミューラーに、リーゼとオツランが眉をひそめる。

 アシムの身の心配よりも、戦力低下の心配を優先させたミューラーにわずかな嫌悪感が走った。

「まあ、それを言っても仕方がないさ。――ではオツラン、皆を集めてくれ」

「はい」

 カムイの指示で、オツランは表情を息子から一兵士のものへと変えた。

 胸に抱いたユピをリーゼに手渡し、一礼して踵を返すと颯爽と部屋を出て行く。

 その背を見送りミューラーが笑みをこぼした。

「すっかり兵士の顔になりましたねえ。立派です」

「立派になるのは嬉しいけれど、どこか寂しく感じるわね……」

 頬に手を当てて吐息を漏らした王妃に、カムイはばつが悪そうに顔をしかめた。

 

 

 

「――というわけだ。異議のある者ははいるか」

 円卓に並んだ顔を一巡するカムイに、男たちは顔を見合わせ戸惑いを見せた。

「民を逃がすということは、負け戦だと王自身が公言しているようなものだ」

「それでは指揮の低下は免れん」

 口々に上がる不満の声に、カムイは面倒そうに耳を掻いた。

「皆の言うとおり、このままいけば負け戦だよ」

 カムイがあっさりと言い放った一言で、室内のざわめきが増した。当然と言えば当然だが、怒りを露にする者もいる。

 しかし、カムイはそんな様子に構うことなく言葉を続けた。

「皆も分かっているだろ? 目と鼻の先にいる帝国軍は、我々の軍力を遥かに凌駕する。挙句、こちらは連戦で疲弊しているにも関わらず、帝国軍はさらに兵の増員を図った。――負け戦なのは明らかではないか?」

「しかし――」

 再びざわつく男たちを、カムイは鋭い眼差しで黙らせた。

「あの兵士の数を見れば、どんな猛者でも負けを意識する。いつ終わるとも知れぬ不安を抱えたまま篭城を続けるよりも、篭城する意味と目的を兵士たちに与えたいのだ」

「それが民を逃がすことであると?」

 その問いにカムイはゆくっりと深く頷いた。

「何度かに分け、民を東の門から脱出させる。全ての民が脱出するまで、この城は死守せねばならない」

「王よ、仮に全ての民が脱出できたとしても、その後はどうなさるおつもりか。聖都は、国家間の争いには未介入というのを理由に、民の受け入れを拒んでいるのですぞ」

「それは分かっている。だから民は東に抜け、セルケアを目指すんだ。あそこなら、おそらく受け入れてくれるだろう」

「セルケア? 王の育った森の国か」

 再び男たちは顔を見合わせ、小声で隣人と賛否を語る。すぐに反対の声が上がらないのは、本心ではどこかで敗戦を意識していたためだろう。

「では王よ、民が逃げ延びた後に残された兵をどうするおつもりか? 守るべき者がいない状況での篭城では兵たちの指揮を保つのは至極困難ですぞ。兵たちには、後はただ死ね、と申されるのか?」

 最も年長であろう男の忠告に、一同が頷き賛同を示した。

「死ねとは言わん。が、民が逃げ延びればこの戦は終わりだ」

「降伏ですか? 王は砂漠の民ではないから分からぬかもしれませんが、降伏は砂漠の民にとって何よりの恥辱」

 砂漠の民ではない――その不躾な言葉にオツランが反発しようとしたが、それをカムイは手で制した。

「心配するな、砂漠の民は降伏などしない」

 はっきりと否定したカムイに、誰よりもミューラーが驚いた。

 前もって民を逃がすことを聞いたとき、降伏するものだと思っていた。

「王は先ほど、これは負け戦だ、とおっしゃいませんでしたか? 降伏もせず、死なせもしないとは?」

「私は、このままいけば、と言ったろ。私には秘策があるんだよ。民を逃がすまで生き残れば、必ずこの戦を終わらせてやる。――信じろ」

「……」

 その場にいる全員が発する言葉を失い、ただ呆然とカムイに視線を集めた。

 カムイは背もたれに身体を預けて脚を組むと、ゆっくりと男たちを一巡する。

 その顔には揺るぎない自信を持った王の笑みが浮かんでいた…… 

 

 

 

 つづく

 

 

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